「火星の恋人」 10円小説家で検索
「火星の恋人」10円
地球に別れを告げてから、八ヶ月の歳月が流れた。
宇宙船の窓から、二つの衛星が顔を出す。フォボスとダイモス、月より一回り小さい。その中心に、火星が位置する。
女の宇宙飛行士が計器をチェックし、メインコンピューターを操作した。
「重力圏に入りました」
男の宇宙飛行士は、指揮をとった。
「地球に比べ、重力は三分の一だが、油断するなよ」
「キャプテン、わかっています。何度もシミュレーションしてきました」
女はレバーを引いた。一定の速度で火星に近づく。
「大気圏突入せよ!」
「大気圏突入します」
宇宙船全体が、赤い火花に包まれ、左右に揺れた。
数分後、宇宙船の振動が静まる。
「大気圏抜けました。」
「着陸体勢をとれ」
「計器に異常ありません。着陸します」
女は、いくつかのスイッチを切り替える。宇宙船は、着陸の衝撃をやわらげるため、ブースターを逆噴射した。
「焦らずゆっくりだ。大気は0.7パーセントしかない。空気のブレーキに頼るな」
「はい!」
女はハンドルを握っていた。
宇宙船は、正しい姿勢のまま着陸した。
「着陸成功しました」
「よし」
「やりましたね」
「とうとう人類は、火星に降り立つことができる」
二人は、宇宙服に着替え。宇宙船のドアセンサーが、人体を感知する。自動的にドアは開いた。
「レディーファーストだ。お先にどうぞ」
「お言葉に甘えて」
初めの一歩を踏み出した。
「ここが火星ですね」
真っ赤な地平線。酸化鉄の化粧は、見る者を魅了する。
「住めそうな星ですが、仮に宇宙服を脱ぐとどうなりますかね」
「気圧が低いから、細胞が膨張し破裂するだろうね。ましてや、酸素もない。ほとんど二酸化炭素だ。さらに言うと、放射線の量が宇宙ステーションの2.5倍もある。大量被曝してしまうよ」
「恐ろしいです」
男は遠くを見つめた。
「岩だけかと思ったが、地球より高そうな山があるな」
「あれは、太陽系最大の山、オリンポス山。高さ22キロメートルあります。以前に、探査機キュリオシティで見ました」
「なるほど、よく調べている」
「見て下さい。氷の川が流れています」
「川じゃない、イエローナイフベイ。36億年前湖だった場所。ついでにドライアイスで出来ている。山のお返しさ」
女は頭を下げた。
「まいりました」
「ははは」
男は、首にかけてあったカメラのレンズを覗いた。
「今から、この景色を撮るぞ」
「はい」
何枚も写真に収めた。
「この宇宙服が脱げれば、もっと良いですが」
「脱いでしまうと、火星の気温はマイナス43度からマイナス140度。日光は、地球の半分しか届かない」
「普通に、凍死しますね」
「そうだ」
「あの崖みたいなのは何ですかね?」
「あの崖は、マンネリス峡谷と言って、長さ3000キロメートルの亀裂。火星のグランドキャニオンと呼ばれている」
「すごいです」
「行ってみるかい?」
「ぜひお願いします」
ゴツゴツした真っ赤な岩群。億年の時を伝える断層。桁違いの深さで底がみえない。
「スケールの大きさがまるで違う」
「宇宙空間からも、見えそうですね」
「もちろんだよ」
「地球では、見たことない景色ばかりです」
「そろそろ、観光は終いにしようか」
「あっという間でしたね」
二人は宇宙船に戻り、宇宙服を脱いだ。男は、メインコンピューターを操作する。
「おかしいな」
メインコンピューターからの反応は無かった。
「どうかしました?」
「エンジンがかからないんだ」
「どういうことです」
「電気系統の故障のようだ」
「何てこと」
「計器も、異常な値だし修理してみる」
工具と溶接機を取り出した。ハーネスを触り、通電をチェックするが、故障個所の検討がつかない。
「火星という特殊な環境下での故障のようだ」
「相当深刻そうですね」
「酸素精製装置もストップして、酸素が減る一方」
「私が見ても、わからないですね」
結局、故障を直すことはできなかった。
「くそう」
「地球には帰れそうにないですね」
「それどころか、このまま死を待つばかりだよ」
「正直、死にたくないです」
「僕だって」
船内酸素残量、残り1パーセント。
「息が苦しくなってきました……」
「僕もだよ……」
「最後にお願いしてもいいですか?」
「僕にできることなら……」
「彼のように、私を抱きしめて欲しいです……」
「婚約者の代わりなんて。よいのかい僕で?」
「お願い……」
僕は彼女を、両腕で包み抱きしめた。
「ありがと……」
抱きしめ合うことで心は温もった。
「今更だけど、君のことが好きだった……」
彼女からの返事はなかったけど、僕は彼女を離さないでいた。婚約者より近くで、彼女を見送る。やがて意識を失い、宇宙の彼方に運ばれた。
完