第92話:泣かないでハニー
冗談のつもりだったんだ。
いつもいつも素直じゃないから、その意趣返しみたいなもので。
だから、何が言いたかったっていうと、泣かせるつもりはなかったってこと。
「う、嘘だよアリス。嫌いじゃないよ、好き、愛してる!」
慌てて膝をつき、涙を流す彼女の頭をなでる。アリスは糸が切れたように、次々と涙をこぼし始めた。右手でその濡れたマリンブルーの瞳をこすり、左手で俺の胸を押し返してくる。
「へ、へんな嘘つかないでよばかぁ!」
「うん、ごめんね……」
なだめるように、優しく抱きしめ背中を撫でてやると、少しずつ抵抗する力が弱まってきた。
それがなんだかいつもの彼女らしくなくて、照れくさい。無理矢理押し倒したことはあるけど、こんな風に抱きしめたことはないから。
――こんなに泣いてるアリス見るの、初めてかも。
何度か泣かせちゃったことはあるけど、ここまでボロ泣きはしなかった気がする。
「ほら、もう泣きやんで」
「あ、あんたのせいでしょ……!」
「うっ、だからごめんって」
まさかこんなに泣くとは思わなかったんだもの。
そう言うと、アリスは赤い頬を更に赤くした。まるで熟れたりんごみたい。
「べ、別にショックとかじゃないわよ!?」
あ、ショックだったんだ。
「違うわよ!」
ああ、なんかいつものアリスに戻ってきたみたい。やっぱりこっちの方がいいなぁ。
「うん、ほら涙ふいて。俺アリスの泣き顔より、怒ってる顔のほうが好きだし」
「んっ……。なにそれ、Mじゃん」
「今更でしょ?」
身体を離して視線を合わし、小さくウィンクすると、彼女はくすっと笑った。それもそうだね、と。
――やば、かわいい。
アリスが俺に笑いかけることなんてあまりに少ないから、こういう不意打ちはくる。
「チェシャ猫?」
顔を覗きこまれ、鼓動が俺の意志とは無関係に高鳴った。
あー、どうしよう。顔熱い。赤くなってるかも。
なんだか気恥ずかしくって、俺はまたアリスを腕の中に閉じ込めた。なんか文句言ってるけど、聞いてあげない。
こんな顔、絶対見られたくないからね。いや、でも視姦プレイもなかなか……。
「チェシャ猫」
アリスが聞いたら怒りそうなことを考えていたら、不意に彼女に名前を呼ばれた。
小さな声でなに?と聞くと、アリスは身じろぎ俺と視線を合わせる。
……貴女のほうが、俺よりずっと顔赤いね。たぶんだけど。 自分の顔は見えないからわからない。
もしかしたら思ってるより平気な顔してるかもしれないし、思ってる以上に赤面してるかもしれない。
――それはちょっと嫌だなぁ。
だってかっこつかないし、みっともないから。
そんなことを考えていたら、服を引っ張られた。目の前の青い瞳はまだ少し潤んでいて、まるで催促されている気分になる。
黙って見つめていると、アリスは視線をしばらく彷徨わせた結果、蚊の泣くような声で言った。
「……今日のことは、忘れて」
真っ赤な顔して、俺の服をより一層強く握り締める。
そりゃぁ、確かに恥ずかしいだろうけど、生憎忘れられそうもない。でもからかったら、また嫌い嫌い言うんだろうな。
蹴られるのも、叩かれるのも、罵られるのも我慢できる。むしろ大歓迎。だけど、嫌いって言われるのはそれなりに傷つくんだ。
「チェ、チェシャ猫? うぎゃあ!」
アリスの肩口に顔をうずめると、彼女の口から色気のない声が飛び出る。
押し返されたけど、抵抗は無視した。
「……俺のこと、そんなに嫌い?」
我ながら情けない声だった。ちょっと掠れたし。
アリスは抵抗をやめ、戸惑いがちに俺の名前を呼ぶ。
返事を促すように、俺は彼女の喉に頭をすり寄せた。くすぐったいのか、アリスが小さく声を漏らす。
しばらく沈黙が続いたけれど、それはアリスの言葉によってかき消された。
「ふ、普段のアンタは嫌いだけど、……今のあんたは嫌いじゃない」
「……なにそれ」
へんなの、と呟くとアリスにうるさい!と叩かれた。
痛い。でも、ちょっと気持ちいい。
「アリス」
俺はアリスの頬に触れるだけの口付けをした。彼女はびっくりした顔をしたけど、嫌がる様子は見せなかった。
――かわいい。
俺は自分の欲望に忠実に、頬だけでなく額やこめかみ、まぶたにもキスを落とした。
顔を離し、海の色したそれを奥まで見つめる。余裕のない表情した自分が写っていて、内心苦笑いがこぼれた。
アリスが目を細める。たったその仕草だけで、かわいいから色っぽいに変わったように感じる俺は、そうとうやられているんだろうね。
桃色に染まった頬に、俺は手を添えた。熱いのは、俺の手と彼女の頬、どちらだろう。
――目くらい閉じてほしいな。
そう思いつつも、ゆっくりと顔を近づける。さすがに何されるか分かってるだろうに、アリスは動かない。
俺はその色つきのいい口唇にキスを
「アーリスー!」
……仕損ねた。
ドアを開けると同時に現れたのは、この国の最高権威。ノックを知らない傍若無人なお姫様。
少女はあら貴方も来てたの、なんてのん気に言う。
「女王さ…痛ッ!」
アリスに思い切り身体を押され、床に頭をぶつけた。痛い、痛すぎる。絨毯しいているのにこんなに痛いって、力加減を知ってほしい。
「どどど、どうしたの女王様? わたしに用だよね?」
どもりすぎだよ、貴女。
「ええ、これからお茶会するの。白うさぎもいるわよ」
女王様のその言葉に、アリスの瞳がわかりやすく輝いた。
――あ、嫌な予感。
俺の予感は見事に当たり、彼女は勢いよく女王様の手を握る。
「喜んで!!」
……うん、だよね。女王様と白うさぎのコンボなら貴女絶対行くよね。うん大丈夫、俺わかってた。
アリスは俺の存在を忘れたかのように、楽しそうな顔して女王様に手を引かれ部屋を出て行った。うわー、放置プレイ? 俺が一番嫌なやつじゃん。
「白うさぎとかメアリだったら空気読んでくれるのになぁ」
まぁ、あの少女に空気読むなんてスキルないか。アリスも酷い、とは思うけど。
惚れた弱みかな、やっぱり好きなんだよね。