第87話:王手
「アリス〜、チェスやりましょチェス!」
「女王さま……」
ノックもせずに勢いよく飛び込んできた少女を見て、わたしはつい苦笑をこぼした。
彼女の腕にはボードが抱えられている。先程の言葉から察するに、チェス盤だろう。
普段のわたしならば、この誘いに有頂天になっているところだ。しかし、今は頬がつい引きつってしまう。
――いや、めちゃくちゃ嬉しいけどね。
しかし、ここのところ毎日のように彼女はゲームを持ちかけてくる。
トランプ、ダーツ、クリケット、その他もろもろ……。しかも勝つまでやり続けるという女王っぷりをみせるのだから、さすがに疲れてしまったのだ。
「ね、いいでしょ?」
それでも断れないのは、可愛すぎるこのおねだりのせい。こんな愛らしい少女に頼まれて、無下になんかできるもんか。
いいよ、と承諾の返事をすれば女王様はパアッと大きな瞳を輝かせ、ボードをテーブルの上に置く。鼻歌混じりに駒を並べる姿が、とても愛らしい。
普通なら黒と白が主流だが、それは赤と白であった。そして当然とでもいうように、彼女の駒は赤である。
わたしは残った白い駒を自分側に並べた。
「ルールわかる?」
「分かるけど、わたしこれ苦手なんだよね。お姉ちゃんとよくやったけど、勝てた試しがないもん」
――あの人、普段はボケボケなのに頭はいいんだよね。
ポーカーとかも、わたしはいつも負けていた。ダーツならわたしの方が得意だったけど。
「お姉ちゃんがいるの?」
「うん。あまり似てないけど」
コン、と赤い駒がわたしの白い駒を軽くつつき、そのまま小さな指で盤からはずす。
「むう……」
小さく唸ると、女王様はくすくすと笑った。可愛い顔して、なかなか強いじゃないか。
わたしは悩んだ末、とりあえず勝敗条件のキングを守ろうと、駒をさげた。
それに微かな、それこそ吐息のようなため息を少女は吐き出したのに気付き、視線を前に向ける。
「ねぇアリス、わたし前々から思ってたの。どうしてこんな無能なキングを守らなくちゃいけないのかって」
頬杖をついて、口を尖らせる女王様。
「……えーと、一番偉いからじゃないかな」
「それがおかしいのよ。だって、一番強い駒はクイーンだもの」
そう言って、女王様は赤いクイーンの駒を掴み、わたしの駒を倒す。
つい無意識に、わたしはえっと漏らした。何故なら、倒せるはずない駒を取ったのだから。間違えたのだろうと思ったが、どうやら違うらしい。
次々と白い駒を倒していく。
「ちょ、女王様! ルール無視しないで!」
「ここではわたしがルールよ?」
「なにその俺流!!」
わたしの言葉虚しく、残ったのは散乱したたくさんの哀れな駒たち。
――こ、こんなのチェスじゃない……。
ぐったりと机に伏せるわたしを見て、彼女はくすくすと笑う。無垢な可愛さが恐ろしい。
「やっぱり一番はクイーンよ。アリスもそう思うでしょ?」
そうですね。最強ですよ。
「だから私の言うことは絶対なの。だぁれも逆らっちゃ駄目」
そうですね。命は惜しいですから。
「キングなんて、結局家来がいなくなったら何も出来ないのよ」
そう言って少女は、白の最後の駒に赤いクイーンをぶつける。カツン、と音が響いた。
「チェックメイト」
わたしはハッとした。そう言い放った彼女が、普段の幼さがにじみ出た可愛さからは程遠い表情をしていたから。
凛としていて、気高く、美しきそれは、正に女王の威厳。
「ふふ、また私の勝ちね」
「女王…様……」
って、ちょっと待て。
「いやいやいや! 今のどう考えたっておかしいでしょ!!」
「んもう、アリスったら負けたからってそんなこと言って〜」
負けず嫌いね、なんて言って少女はわたしの額を小突く。
くっ、なんだこの女王様クオリティ……! でも許しちゃうっ。
女王様はまだ笑っていて、だけどまき散らした駒を片付けていた。
あ、ちゃんと片付けるんだ。意外と律儀だな。
うつむき加減の彼女を見下ろす。長くセパレートなまつげが目元に影を落とし、マシュマロの肌にほんのり差した薔薇色の頬が愛らしい。
――15歳なんだよね。
ひとつしか違わないと思うとなんだか違和感があるのは、童顔と小柄なせいだろう。
「ねぇアリス〜」
少女は顔を上げないまま、わたしの名を呼ぶ。わたしはなぁに?と、我ながら甘い声色で返事する。
「貴女は、異世界から来たのよね。つまり、いつかは帰るってこと?」
なんでもないように、なんでもなくない事を、彼女は尋ねた。
少し悩んで、だけど頷けば、女王様はふうん、と言って顔をあげた。
「私に無断で帰っちゃ駄目よ?」
その日が来たら、必ず私に言ってね?
いい、絶対よ?
勝手に帰るなんて、許さないから。
そう何度も何度も、念をおすように少女は大きな瞳でわたしを見る。
わたしが首を縦に振ると女王様は満足げに、だけどどこか憂いを帯びた表情をして。
「その日が来なければ、一番いいんだけど」
そう呟いた少女の言葉を、わたしは聞こえないふりをした。
それでもその日は必ず来る。
なんだかちょっとシリアスになっちゃいました;;
次回はたぶんドタバタ。