第84話:mademoiselle
※生温いですが、流血・グロテスク表現ありなので、苦手な人は注意です。っていうか、また例の猫耳の彼がかなりサディストです……。
濡れた髪を無造作にタオルで拭きながら、浴室を出る。
今日はいつもの大浴場ではなく、部屋に付いているユニットバスを使った。
先ほどまでは眠くて仕方なかったのに、シャワーを浴びたら目が覚めてしまった。
「あー、あつい……」
火照る頬を手で扇いでも、熱は逃げてくれない。
わたしは吐息を漏らし、天蓋付きベッドにぼすんっ、と沈んだ。スプリングの軋む音が同時に響く。
枕の冷たさが心地よくて、わたしは顔を押し付けた。
「このネグリジェ、露出度高くない?」
かけられた言葉に、わたしは枕に頭を埋めたまま、ぼそぼそと答える。
「…あー、わたしもそれ思う」
「スカートの丈、短いし」
「たぶん、白うさぎくんサイズ間違って買っちゃったんだよ」
「ふーん。まぁ俺はこの見えそうで見えない長さ、好きだけど」
「なに言って……」
そこまで答えて、わたしは違和感に気づいた。当然のように会話していたけど、いったい誰と?
脳がクリアになればなるほど、事の異常さを覚える。
わたしは嫌な予感が頭のなかをよぎりつつも、ゆっくりと、恐る恐る顔をあげた。
「こんばんは、マドモアゼル」
金色の瞳を細め、目の前の青年は笑った。
「……! ……!?」
なんでいるの。またアンタなわけ。不法侵入だってば――。
叫びたい言葉はたくさんあるのに、声にならない。
気配なく現れる彼の突飛さには、どうしても慣れなくて。わたしは口を馬鹿みたいに開けたまま、震える手で彼を指差す。
目の前の彼はにっこりと笑い、わたしの腕をとって
――え、
気が付けば、視界が暗転した。瞳に映るのは、目に痛いショッキングピンクと、尖った紫の耳。
何を考えているか読めない金の双眼に、呆然としたわたしがいて。
その瞳がだんだんと近づい……え、ちょ、近づきすぎじゃ、や、待っ……。
「ストップストップ!!」
「おっと」
掴まれていない腕を振り回すと、彼――チェシャ猫はさっと身構える。
おかしいだろ。なんで当たり前のように部屋にいて、当たり前のように押し倒して、当たり前のように顔近づけるんだ。
そんな文句をぶつけると、チェシャ猫は悪びれずに答える。
「貴女に会いたくて」
あれ? これ答えになってるのか? なってないよね。
そりゃ、こいつの神出鬼没は今に始まったことじゃない。こうして押し倒されるのだって、わりと慣れっこだ。
……待て待て。そんなのが慣れっこって、どうなのわたし。
ひとり悶々としてると、彼があれ、と声をあげる。
「アリス、ここ痣になってるじゃない。どうしたの?」
わたしの左腕を持ち上げ、箇所を指差して言うチェシャ猫。目を向ければ、確かにそこは青紫になっていた。きっと、先日ジャックとの悶着の所為だろう。
「あー、うん、ちょっとね」
すべて話すのが面倒で適当に流すと、青年はムッとした表情をした。
「ちょっとって何? ちゃんと教えてよ」
「別に大した事じゃないし。なんでそんなに聞きたがるのさ」
「聞きたいから」
「理不尽にもほどがあるぞ」
まったくもって、理由になっていない。
そう口にしたら、チェシャ猫が急に顔を寄せてきた。
不覚にもドキッとしたわたしは、大西洋に沈めばいいと思う。なんて落ち込んでたら、不意に鈍い痛みが腕に走る。
「ちょ、痣を押すな! 痛い痛い痛い!」
ぐにぐにと親指で刺激しながら、くすくすと笑うチェシャ猫。このサドめ。
「い、痛いってば!」
「あはは、このくらいで泣かないでよ」
「泣いてないよバカ!!」
そう言いつつも、涙が糸を引くのも真実。だって、本当に痛いんだもん。
「で、なんで痣になったの? 俺には言えない?」
「なんでそうなるのよ……」
呆れながら、手はなして、と伝えると彼はますます不機嫌を露にする。
あ、まずい。そう気付いた時には既に遅く、チェシャ猫はわたしの上体を起こしたと思えば、いきなり食らいついてきた。
そう、口唇に。
「! ん、ちょ、やだ…んんっ」
ちゅ、ちゅっと角度を変えながら、口唇を寄せてくる。
啄むようなそれは、だんだんと濃厚なものへと変わっていき、時々漏れる声が自分のものとは思えないくらい、酷くいやらしかった。
息苦しさに酸素を求めて口を開くと、生暖かい舌が口内に侵入してくる。歯列をなぞり、上顎をくすぐるそれ。
ぞくぞくとした刺激が背筋を電流のように駆け巡る。苦しさは益々増え、生理的な涙が滲んだ。
逃げるわたしの舌は呆気なく捕まり、執拗に絡められる。唾液で喉を犯され、飲み切れなかった分は口端からこぼれた。
――も、いや…!
なんとか抵抗しようと、わたしは彼の舌を思い切り噛む。
それにチェシャ猫は反応し、口を離した。荒い息を整えながら顎を伝う唾液を拭い、恐る恐る青年に視線を向ける。
「え……!?」
わたしは目を見張った。ボタボタっと赤い鮮血が彼の口から流れたからである。
「や、やだそんなに強く噛ん―――んん!」
慌てて顔を寄せたのが運の尽き。肩を引かれ、ぶつかるようにキスされた。血液特有の、鉄っぽい味が広がる。
「ん…ふ……はっ」
息継ぎに口唇を開く度、深くなる口付け。もう何も考えられない。
顎をひこうとすれば、片手で頭を掴まれる。もう片方の手はいつの間にか腰に回されていて、逃れられない。
苦しい、熱い、気持ちいい、熱い、苦しい。
思考がぐちゃぐちゃになる。なんで、とか、どうして、などの疑問さえ、霞んでいき。
瞼の裏が白に塗り潰されたところで、永遠にも感じたキスが終わった。
足りない。酸素が足りない。
やっと息できるようになったのに、余計苦しい気がする。
「いやらしい顔。無理矢理されて、感じてるんだ?」
そんな艶めかしい挑発に反論する気力もない。
ただ、羞恥心はまだ残っており、わたしは涙を拭いて彼から顔を背けた。
そしてそんな仕草が気に入らないと言うように、チェシャ猫はわたしの顎を指で捕らえる。強引に合わされる視線。
金色の切れ長な瞳はさながら獲物を狙う豹で、火照った身体とは対照的に寒気が襲いくる。
弧に歪む口元と、妖しい光を携えている眼。
逃げなきゃ。頭の奥で警報が鳴り響くのに、動けない。
「…な、に…さ」
口唇をこじ開けて出てきた声は震えていた。チェシャ猫はクスッと笑みをこぼし、わたしが着ているネグリジェを肩からずるずると下げていく。
「え、ちょ……ッ!」
首筋に顔を埋める彼。ぬるりとしたものが触れ、わたしはひっ、と小さく悲鳴をあげた。
収まりかけた息切れが、再びやってくる。吐き出される吐息はチェシャ猫の髪を揺らした。
まるで飴を味わうように舐めていたかと思えば、強く吸い。
「はぁ…あ、ん……」
勝手に漏れる甘い声に死にたくなる。
苦しい、熱い、気持ちいい。またそのループ。ドロドロに溶かされた思考はろくに機能せず、涙と目眩で視界が歪む。
「……やらしいね」
その声が聞こえた直後、鋭い痛みが首筋を襲った。
薄い皮膚が、破れる。
「やああぁぁぁ!!」
噛まれたと分かったのは、ガリッという音が聞こえたから。場所が場所だから見えないけれど、これは確実に出血しただろう。
ドクドクと脈打つのが生々しく、吐き気がした。涙が次から次へと溢れてくる。
痛い痛いと訴えると、彼は首を流れる血を舐めとるように舌を這わしてきた。
「もう、やだ……」
しゃくりあげながら言うと、チェシャ猫が顔をあげる。口角は相変わらずつり上がっていた。
「なにが嫌なの? 俺? キス? それとも」
これ?と言って、噛んだ箇所を引っ掻く。
また大粒の涙がぼろりとこぼれる。一度壊れた涙腺は、なかなか締まってくれない。
なんでそんな楽しそうな顔でこんなことが出来るのか、小一時間責めたくなる。 わたしは心のなかでくたばれ、と三回呟いた。
痛みは絶えず渦巻き、拍車をかけるようにチェシャ猫が甘噛みしてくる。
身体に力が入らない。ギュッと目をつぶると、目尻から雫がこぼれる。
「お姉さん、悲鳴が聞こえたんですけど何かありま……え」
涙がいっきに引っ込んだ。
「あ、えと、すみません。お邪魔しました!」
遠慮がちに扉を開けた白うさぎくんは、わたし達を見た瞬間頬を染め、勢いよく走り去っていった。
間違いなく言い訳不可能な誤解をされた気がして、血の気が引いてゆく。
「あらら、子供には刺激が強かったかな。でもさすが伯爵、気がきくね。アリス、続きし――アリス?」
わたしは怒りと羞恥に拳を震わせ
「こんの、外道がぁぁぁ!!」
目の前の端正な顔に、思いきりぶつけた。
「待って白うさぎくん! これは違うんだよー!」
乱れたネグリジェを引き上げ、誤解を解くべく少年の後を追う。首は相変わらず痛かったけど、そんなの比じゃない。
ちなみに逃げる白うさぎくんとそれを追いかけるわたしが、うるさいと女王様に怒られたのは、また別の話。
どうでもいいけど、部屋に戻ったらチェシャ猫の姿は消えていた。
とりあえず、今後彼が姿を現したら全速力で逃げようと思う。
※
mademoiselle…お嬢さん