第80話:喪服の麗人
初の公爵夫人視点です。
チェシャ猫との馴れ初め話。
雨が降っている。冷たい冷たい、涙雨が。分厚い雲が青空を覆い、日光は完全に遮断されていた。
黒装束を纏った人々が私のもとへ来て、同じ意味を含んだ言葉を吐く。
『お気の毒に』
『なんて不幸な事故だったんでしょう』
『気を落とさないで』
『私に出来ることがあったら言って下さい』
神妙な顔付きで、中には涙を流す人もいる。私はその人達にお辞儀して、笑ってみせた。
彼等はより一層、不安げな表情に歪んだ。
────夫が、死んだ。
仕事から帰る途中の、衝突事故だったらしい。聞いた時、驚きはしたけれど、打ちひしがれる程の悲しみはなかった。
夫婦と言っても結婚したのは家柄で、私達の間に愛が存在しなかったせいかもしれない。
彼はいつも仕事ばかりだったし、たまに帰ってきても他の女の名残を香らせていたから。
それでも、文句は言わなかった。そのぶん私も自由に振る舞ったから、お互い様だと思ってた気がする。
そんな私達だったが、いつも仲が悪かったわけじゃない。時おり土産を彼は私にくれた。それは決まって、スイーツで。
どうしていつもデザートなのか聞いた時、彼は答えた。
(甘いものを食べると、幸せな気分になれるだろう?)
ああ、私はなんて返した? どうして忘れてしまったのだろう。
愛した記憶も、愛された覚えもない。ただただ、人の命の儚さを改めて確信しただけ。
「公爵夫人、風邪をひきますよ」
背後からかけられた言葉に、私は振り返らず平気、と返した。
彼のなにか言いたげな雰囲気が伝わってきたけれど、私は無言で空を見つめるばかり。
埋められる貴方、花を添えて帰りゆく人々、止まない雨。
たくさんの傘は、空からなら花にでも見えそうなんて、虚ろな思考が揺れる。
「……フロッグ、少し一人にさせてちょうだい」
「っ、しかし」
渋る執事に今度は振り返り、私は彼を安心させるよう笑ってみせた。大丈夫だと、言うように。
けれどフロッグは普段は滅多にすることのない、悲しみの表情を浮かべる。
――ああ、私は上手く笑えてないのね。
その眼鏡の奥の瞳に、今の私はどう映っているのだろう。
立ちすくむ彼に、私はもう一度頼んだ。フロッグは顔をしかめつつも、かしこまりましたと言って、背を向けた。
私は彼の後ろ姿が見えなくなるまで、傘を片手に佇む。
遥か遠くに行ったのを確認し、持っている傘を閉じた。途端、身体を濡らす氷雨。
強すぎない雨が、髪に触れ頬を伝い顎から滑りおちる。
もしあの人がただ死んだだけなら、こんなにも空虚な感情に支配されなかっただろう。
だけど彼は、土産を持っていた。中身は事故の衝撃で見るも無惨な姿になっていたらしい。
――馬鹿だわ、あなた。
私はやや自嘲気味に笑った。
唯一、あの人と微笑み合えたアイテム。ああねぇ、どうしてよりによってその日なの。
甘い甘いスイーツ。幸せになれる魔法の食べ物。
笑顔になれない。
鬱蒼とした湿っぽい空気が肺に溜る。
雨が降る度に誰かが泣いていて。
雫に打たれながら、私はそっと目を伏せた。
そんな時、
「傘を持ってるのに差さないなんて、変わったお方だね」
雨音に紛れて耳に届いた、低く甘い声。私は瞼を開き、声の方へ視線を移した。
そこには、びしょ濡れな美青年が立っていて。彼は黒いロングコートを羽織っており、髪は葬式には対照的なピンク色だ。
そして頭にはふたつのとがった耳が生えている。
――半獣……。
耳と尻尾からして、恐らく猫との。
青年は口角を緩く持ち上げながら私のもとへと歩み寄り、着ていたコートを私の肩にかけてこう言った。
「美人に涙は似合わないよ。慰めてあげようか?」
彼は私の目尻を指で拭う。だけどそれは多分、涙じゃなくて雨だ。だって私が泣く理由なんてない。
私は漆黒のコートをギュッと握り締め、目の前の青年に尋ねた。
「……貴方は、どうして此処にいるの?」
自分でも理解不能な、おかしな質問を。しかし彼はそれについては何も言わず答える。
「独りだからだよ」
「ひとりは、寂しい?」
「まさか。夜どんなに放浪しても心配する人はいない。俺はそれを幸せと説く。だってそうでしょう? 自由と孤独ほど愛しいものはないのだから」
「……分からないわ。孤独が愛しいなんて、分からない」
うつ向いたまま呟くと、彼は私を覗きこんできた。金色の瞳に覇気のない私が映っている。
独り、ずぶ濡れ、黒い服。私達、共通点が多い。
「帰る場所がないなら、家に来ない?」
無意識に、そんなことを言っていた。彼はその誘いに目を見開く。
無理もない、私だってそんなことを聞く自分に驚いているのだから。
「……面白そうだね。飼ってくれるの?」
青年は薄く笑った。私がこくりと頷くと、彼は笑みをより深くし、私の手をとる。
「それじゃあ、今日から貴女が俺の主。貴女の言うことなら忠実に聞くよ」
手の甲に、触れるだけの口付けをした。
「ご主人様」
それから、彼は私をそう呼ぶ。
「ご主人様」
寂しさを埋めるため?
傷の舐めあい?
「ご主人様」
ううん、違うの。そんなんじゃない。貴方は私のペットでいて、愛すべき家族よ。
「ご主人様!」
もう、そんなに大声出さなくても聞こえてるわ。
「ああ、やっと起きた」
眩しさが瞳を襲う。それでも目を開ければ、安堵した声がすぐ近くでした。
ぼやけた視界は、我がペットの顔でいっぱいで。
身体にも重みを感じるから、のしかかられているという結論をはっきりとしない思考が導いた。
「おはよう、ご主人様。いい夢見れた?」
にこりと笑うチェシャ猫に、私は上半身を起こしおはようと返す。
「……夢を見てた気がするけど、内容は忘れちゃったわ」
「そう? あ、ねぇ。この首輪ってもしかして俺の?」
チェシャ猫は赤い首輪を指に引っ掛け、尋ねてきた。それは以前に私が買ったもので、渡し損ねていたものである。
よく見つけたな、なんて思いながら私はその首輪を彼の手から取り、代わりに首へはめた。
「わぁ、ありがとう。似合う?」
「ええ、とっても」
髪を撫でれば、気持ち良さそうに喉を鳴らす。胸に広がる、愛しいという思い。
彼はおもむろに私の上から退き、立ち上がって窓枠に手をかける。
「俺、出かけてくるね」
「どこ行くの?」
チェシャ猫はとろけそうな柔らかい微笑を浮かべて言った。
「アリスのところ!」
そして、窓から飛び下りる。一応ここは2階だけど、彼には関係ないのだろう。
私は、揺れるカーテンと差す陽光に目を細めながら、夢の内容を思い出していた。
――何の夢だったかしら……?
夢を見ていたことは確かなのに、肝心の中身を全く覚えていない。
でも、なんだか無償にスイーツが食べたくなってきた。
人にとって昔から大切なことは、夜、家に帰ってこないと「どこにいるのかしら」って心配してくれる誰かがいること(マーガレット・ミード)。
いい言葉ですね。チェシャ猫まったく逆のこと言ってますけど(笑)




