第76話:月卿雲客
帽子屋視点。
時間的には、アリスやチェシャ猫がお茶会に行く前です。
公爵夫人からお茶の誘いが来たのは、一週間前のことだった。
たくさんのスイーツをご馳走します、と言われて、断る馬鹿がいるだろうか。
俺はすぐに使用人にYESの返事をさせた。
そして七日がたち、今、俺は公爵邸に来ている。
「相変わらず威厳あるなー。さすが高等貴族や」
目の前に建つ屋敷を見上げ、感嘆のため息が漏れた。
赤レンガの壁につたう深緑の蔓、庭に広がる切り揃えられた芝生、たくさんの木々と花。首を限界まで仰がせても、視界に入らない屋敷の頂上。
――やっぱ身分がちゃうな。
自分の屋敷と比べると、ついつい苦笑いがこぼれてしまう。
「いらっしゃいませ男爵、ようこそ公爵邸へ」
かけられた声に視線を正面へ戻せば、そこには見慣れた燕尾服の男がお辞儀をして立っていた。
そっと顔を上げた彼は、いつ見ても隙のない姿だと思う。
眼鏡の奥の瞳はどこか冷たいが、それにも慣れた。
以前もう少し愛想良くした方がいいと言ったとき彼は、『肝に銘じておきます』と答えたものだが、全く変わってないのはご愛敬というものだろう。
そんな考えが彼にも伝わったのか、フロッグは少しだけ顔をしかめる。
けれどすぐに向き直り、どうぞ、と言って大きな木製のドアを押し開けた。
通された屋内は、以前に訪れたときとは少し変わっていた。
「つい先週、模様替えしたのです」
口にしていないというのに答えられ、少々面食らう。顔に出ていただろうか。
「男爵さま、上着とお荷物、お預かりします」
「ん、ありがとう。帽子も頼む」
持ってきた鞄と被っていた帽子、それと羽織っていたコートを隣のメイドに預ける。彼女は一礼して、
「ごゆっくりとお過ごし下さい」
と言った。
笑顔で会釈すれば少女は小さくはにかみ、もう一度頭を下げる。
「ずいぶん若いな…。あんな少女まで雇ってるのか?」
「彼女は夫人が拾ってきたのです」
「………は?」
「着きましたよ。どうぞ」
彼のサラリと吐いた発言に思考が停止した。
しかしそれをどうこう言う前に、フロッグは部屋へと俺を招きいれる。
「あらやだ、迎えに行こうとしてたのに、先越されちゃったわね」
室内にいた公爵夫人は開口一番にそう言った。
「こんにちは、公爵夫人。招待ありがとうございます」
「ふふ、こちらこそ。遠いところからご苦労様。お掛けになって」
勧められた椅子へ座る。目の前のカップにフロッグが紅茶を注いでくれた。
「男爵のために、とっておき甘いスイーツ、紅茶はストレートティーに適したアップルを用意したの」
「気を遣わせてしまいましたね」
「いいのよ、もてなすの好きだから。でも変わってるわよねぇ。ストレートしか飲まないのに、甘党なんて。ティラミスとか苦手?」
「生クリームかシュガー思いきりかければ平気ですよ」
「それ最早ティラミスじゃないわ」
もう、と困ったように笑う彼女。
もとがティラミスなんだから、どんなに生クリームがかかっていてもティラミスやないか。
彼女はくすりと笑い、運ばれてきたショートケーキに手を伸ばす。
今日の彼女は髪をおろし、メイクとドレスもいつもより落ち着いたもので、全体的にカジュアルだ。
会う度に思うが、年齢より彼女は若く見えると共に、艶やかさがある。真珠の肌に切長の瞳、口許のホクロ。
今日はおとなしめだからまだいいが、パーティーなどの格好は妖艶な色気にあてられてクラクラする。
「……夫人は結婚しないんですか? その美貌じゃ、周りの男が放っておかないでしょう?」
つい無意識に尋ねると彼女は笑みをより一層深くし、持っていたフォークを置いて首を緩やかに傾けた。
「それは貴方もでしょう? 男爵様はもう21歳、相手だって選り取り見取りなのに。……それに私、結婚はこりごりよ」
そう言って淡く微笑する彼女は儚げで、まるで人形のように精巧な造り。
――って、なに観察してんや。
人の顔をジロジロ見るなんて失礼だろう。
俺は瞼を軽く伏せ、カップの紅茶を口に寄せた。わざわざ取り寄せてくれたのだろうか、とても美味い。
「───それに今は、たくさんの使用人達がいるから寂しくないし」
公爵夫人は隣に立っている執事、フロッグを見上げて言う。彼はその言葉に、緩やかに口角をあげた。
――なんや、ちゃんと笑えるやん。ちょいと分かりにくいけど。
ゲストにも滅多に笑わないのに、主人なら笑みをみせるとは、忠実なことだ。
「俺もいるよ、ご主人様」
「そうだったわね」
………は?
視線を公爵夫人に戻せば、そこには彼女の頭に顎をのせている、チェシャ猫の姿が。
「───!?」
ギョッとして椅子から落ちそうになったが、なんとか堪えた。
っていうか、いつのまにこの青年は来たんだ? 入ってくる気配などまるでなかったのに。
チェシャ猫は公爵夫人に抱きついたまま、俺に片手をあげてみせた。
「やっほー、帽子屋。三月とヤマネは留守番? 子供だけにしちゃ危ないよ」
「……ハウスメイド置いてきたから平気や」
「あ、そうなんだ。でも心配でしょ? 俺見に行ってきてあげようか?」
はっきり言って、チェシャ猫が行く方が心配だ。
ヤマネはチェシャ猫のことを忌み嫌っているし、三月は前科がある。
答えかねていると、チェシャ猫はくすっと笑いをこぼし、公爵夫人から離れ窓枠に足をかけた。
俺の言葉は無関係に、結局は行くらしい。ここで止めるのも、さすがに失礼だろう。
「行くのはええけど、あんまヤマネにちょっかい出すなよ」
「三月ならいいの?」
「………」
「冗談だって。そんな睨まないでよ」
親馬鹿だなぁ、なんて呟きながら、チェシャ猫は窓の外へと出ていった。
親馬鹿って、あんなお転婆の父親になった覚えはない。
「玄関を使えと言っているのに……」
フロッグが小さく零す。公爵夫人はやはり淡い笑みを張り付けたままだ。
「ねぇ男爵さま、貴方はどうして私には敬語なのかしら。身分? それとも年上だから?」
そんなことを尋ねてくるのは、先程のチェシャ猫との会話を聞いていたためだろう。
「…それもありますが、私が貴女個人を尊敬してるからですよ」
そう答えると、彼女はまたくすっと笑った。それはチェシャ猫と少し似てる気がする。
ペットは飼い主に似る、というものだろうか。
「それにしても、よく平気ですね。あんなに自由奔放で、心配じゃないんですか?」
自分のペットの話題だと気付いたのだろう、彼女は数回瞬き
「いいのよ、それでもちゃんと帰ってきてくれるんだから」
と、伏し目がちに言う。睫毛の長さがより強調されている、なんて、また観察してしまった。
「ああでも、貴方も飼ってるわよね。兎ちゃんと鼠くん」
思考が一瞬ぶっ飛んだ。
――………はい?
もしかして、三月とヤマネのことだろうか。もしかしなくてもきっとそうだろう。
「いや、あの二人はペットというより家族みたいなもので……」
「ペットだって家族よ」
「そうじゃなくて、ニュアンスの問題というか」
ペット、なんて言ったらそれだけで犯罪者になりそうだ。
この国で犯罪もなにもないが、それでも危険な感じがする。アリス辺りに今度こそ犯罪者呼ばわりされてしまう。
「だって拾ったんでしょう?」
「確かに拾ったと言えば拾ったんですが……」
その後もその話題は続き、堪えられなくなった俺は普段の口調で思いきりツッコミをいれてしまった。
――公爵夫人は、天然なんやろか……。
くすくすと笑う彼女を見ながら、そんなことを思った。
※
月卿雲客…身分の高い人々。