第68話:花言葉
赤薔薇の花言葉は、私は貴方を愛します。帯赤だと、私を射止めて。
ピンクはしとやか、橙色は無邪気、黄色はジェラシー。
緋色は灼熱の恋で、淡紫は気まぐれな美しさだ。
さて、白薔薇と紅薔薇の花言葉は知ってるかな。あなたはどちらが欲しい?
ランチを終えたわたしは、自室へと足を進めていた。
最初は広すぎる城と多すぎる曲がり角によく迷子になっていたが、さすがにある程度の道筋は覚えてきてる。
――そう何度も迷ってちゃたまらないもん。
しかし、迷路にするために造ったとしか思えない構造だ。いや、それはないと思うけど。
文句とも諦めとも言える愚痴をこぼしていたら、すでに目的地に着いていた。躊躇うことなく、ドアの取っ手を握る。
時間の流れとは不思議なもので、誰もいないだろうにノックしていた頃の自分が懐かしい。
わたしは当然のことのようにノブをまわし、扉を押し開けた。
「やぁ、アリス。おかえり」
閉めた。その早さ、およそコンマ1秒。
……今、なにか見えてはならないものが見えた気がする。
いや、幻覚だよね。きっと疲れてるんだ。うん、絶対そうだ。
にしてもわたし、どうせ幻見るなら三月とか女王様にしようよ。なんでよりによって、あんな変態猫。
わたしは頭を醒ますように両頬をパチン、と軽く叩いた。よし、大丈夫。
そして再びドアを開けた。
「ちょっと、人の顔見た瞬間閉めるなんて酷くない?」
………いや、ないないない。ないってば。
目を擦り、もう一度見る。変わらず、ソファに寝そべっている猫耳の青年。
ここは、お城だ。そしてわたしの部屋だ(借り部屋だけど)。
なぜコイツが此処にいる?
しかも、片手には洒落たブーケが。
「アリス?」
名前を呼ばれてハッとし、ようやくことの事態に気付く。彼は幻覚じゃないらしい。
――もともと神出鬼没な奴だから異常事態ではないけどさ。でもこれって不法侵入じゃ……。
最高権力者が大鎌を振り回しているこの国で、不法侵入もなにもあったもんじゃないかも知れないけど。
頭痛を感じながら、わたしはとりあえず一度妥当なことを尋ねた。
「……なんでいるの?」
「客人にその言い用はどうかと思うよ」
「そんな態度の悪い人を客とは認めないし」
「はいはい。足おろせってことね」
ため息混じりに彼は足を床につけ、座り直す。といっても、足も腕も組んでいて先程とは違った態度のでかさだ。
なめてんのかコイツ。そんな汚い口調がこぼれそうになる。抑えたけど。
「……で、結局なに? 用があったんじゃないの?」
「会いたくなったから来たんだよ」
「じゃあその花束はなんなのさ」
チェシャ猫の手にあるブーケを指さして言えば、彼はああ、と呟きそれに目線を落とす。
束ねられた、たくさんの紅色の薔薇。その中に一本だけ白薔薇が添えられている。花を包んでいるピンクの包装紙には、オレンジのリボンがかけられていて。
シンプルで小ぶりなわりには、花の種類のせいか充分華やかだ。
ジッと見つめていたら、チェシャ猫は薄く笑い手招きをする。いつもならもっと警戒するのに、足は彼のもとへ進んだ。
甘く濃密な薔薇の香りに誘われるように。
ソファに座る彼の前まで来ると、強く腕をひかれた。声をあげる間もなく、わたしの身体は柔らかいクッションに沈む。
「いきなり引っ張らないでよバカ!」
「ごめんごめん」
「心が込もってない!」
憤慨してみせると、チェシャ猫は面白そうに目を細めた。むかつくからニヤニヤするな。
――今はサドなのか。嫌だなぁ。
そんなことを思っていたら、不意に頬が熱くなった。彼の手の平が添えられていると気付く。
「な、なに?」
尋ねた声は上擦っていて、とてつもなく恥ずかしい。チェシャ猫はくすっと笑いを漏らし、わたしに問いを返した。
「アリスはさ、紅と白どっちが好き?」
「………え」
「俺は燃えるような濃厚な紅が好きだけど、貴女はどうかな」
何の話、と口から出かけたとき、カサリと擦れるような音がわたしの声を遮った。
視線をもっていくと、そこにはわたしとチェシャ猫にはさまれた花束が。
――紅と白って、バラの話?
選択肢はふたつなんだ? わたしは、ピンクとかオレンジの方が好きなんだけどな。
チェシャ猫を上目に見てから、再び薔薇の花束を瞳に映す。
眩暈さえ起こりそうな濃い紅色に包まれた、汚れを知らない純白。怖いくらい綺麗、なんて。
ああでも、このむせかえる甘美な香りはどちらから放たれているのだろう。
「アリス」
名前を呼ばれ、顔をあげる。彼は紅い薔薇を一輪取り出し、
「!!」
花を、つぶした。
握った拳を開くと花びらは無惨に散っていて、チェシャ猫の手の平にハラリと落ちる。
それをわたしの頭上にかざし、花びらを降らせた。いくつかは髪に触れて、残りはこぼれおちる。
「ん、綺麗」
「いやいや、何がしたいんだよ」
「あとは茨の蔓を巻きつけて……」
「人の話を聞け。っていうか、物騒なこと言うな! 断固拒否するぞそんなの!」
あれですか? 拘束具は薔薇です♪ってか? ロマンチックじゃねぇんだよ! どんだけマニアックなんだよォォォ!
「ねぇアリス、この花束受け取ってくれるよね?」
「バラだけ置いて帰れ!」
「酷いなぁ。少しは俺の気持ち察してよ」
笑いながら肩をすくめつつも、チェシャ猫は花束を押し付けてくる。
意味が分からず、わたしは混乱した。今更だけど、どうしていきなり花束を渡すの?
だって花を贈るのには、それ相応の意味がある。
――バラの花言葉ってなんだっけ?
愛とか美とかだった気がする。でも、色によって違うから……ああもう、なんだっけ!?
思い出せないのが酷くもどかしい。
いや待てよ。本当に彼はそこまで考えてるのか? 深い意味はないんじゃ……。
そんなことを考えていたら、チェシャ猫はまた一輪、花を取った。今度は白の薔薇。
「私はあなたにふさわしい」
そう言って、茎から花を切り離し、わたしの耳にそっと添えた。
「…え……?」
「白薔薇の花言葉。素敵だよね」
「……ちゃんと知ってるんだ」
当然でしょ?と彼はウインクする。他人がやったら寒いだけのそれが、きちんと様になるのが悔しい。
ブーケには白が消えて、妖艶な紅だけが詰められていた。
わたしはそこから一輪、花を取り出し(トゲは除かれてた)、チェシャ猫の目前に持っていく。
「紅の花言葉は?」
尋ねれば、彼は蜂蜜色の瞳を細めて口角をあげた。花を持っている方の腕をとられ、
「死ぬほど恋こがれています」
手首にキスされた。
カァッと、血が頭へのぼる。首まで赤く染まってるのではないか、というくらい顔が熱くて。
「って、うわ! ちょちょちょっと!」
そのまま両手を捕えられ、ソファにゆっくりと倒されてゆく。まずい。非常にまずい状況だ。
「ねぇ、アリス」
耳に息を吹き込まれるように囁かれ、背筋がゾクッとする。
「薔薇の口枷と茨の手枷、どっちがいい?」
その言葉に、集まっていた血がサーっと引いていくのが分かった。
「や、やだぁぁぁぁぁ!!」
「答えになってないよ」
「わ、やめ、ちょ…! やめろって言ってるだろォォォォ!!」
後日、公爵邸にはチェシャ猫宛に一輪の薔薇が届いた。色は黒赤。差出人は不明。
それを握り、青年は苦笑をこぼす。トゲが手の平に食い込んで、傷付いた皮膚から血が浮き出た。
「手厳しいなぁ」
呟いた台詞とは不相応な笑みを彼は浮かべる。
青年は薔薇のトゲが肌を破るのに快感を感じながら、花びらに恭しく口づけた。
――黒赤の薔薇の花言葉は
『私は死ぬまであなたを憎みます』




