第62話:哀歌
革製の椅子に腰を下ろし、積み重ねられた書類を手にとる。どんなに片付けても減ることのない紙の束に、頭痛を覚えた。
あの雨の日から、一週間が過ぎようとしていた。俺は今までと変わらず仕事をこなしている。
利用できるものは利用し、必要なくなったものは切り捨てる。
罪悪感に阻まれる余裕はないし、いちいち気にしていたらきりがない。
あの子供二人は、どうしてるだろう。まだ待ち続けているのか、それとも諦めたのか。
――どうでもいいやろ、そんなこと。
そう心でどんなに否定しても、頭の中に巣食い離れてくれない。
もう雨は止んだのに。
「社長」
近くからの声に意識が呼び戻される。内心かなり驚いたが、きっと態度には出ていないはずだ。そう信じたい。
俺は隣に立つ秘書に視線だけを送り、何だと目で尋ねる。
「どこか虚ろでしたので……考え事ですか?」
遠慮がちに彼は言う。そんなに俺は惚けていたのかと、ますます頭痛がした。
「何でもないから安心しろ」
「ですが書類が逆さです」
「………」
その指摘に、見ていた資料の文字が逆になっていたことに気付く。俺は小さく舌打ちした。
「社長、今日はもうお帰りになられた方がよろしいのでは? 疲れているのでしょう? 何もそんなに切り詰めなくても……」
「黙れ。俺が平気だと言っているんだから、余計な口出しは無用だ」
「いいえ、貴方は休むべきです」
断定した口ぶりに、俺はフィシュを睨む。しかし彼の瞳に引きは感じられない。
しばらく無言で睨みあっていたが、フィシュは目を伏せ肩をすくめる。やっと諦めたのかと思ったが、フィシュの行動は俺の予想とまったく反対であった。
ハンガーにかかっていたジャケットを取り、俺の腕をひいて椅子から立たせる。
されるがままになっていると、彼は持っていたジャケットを俺に差し出した。
なんのつもりだ、なんて聞かなくても分かる。どうやら余程俺を帰らせたいらしい。
「……社長、差出がましいと承知で言わせて頂きます。貴方は少し焦りすぎている」
いつまでもジャケットを受けとらない俺に痺れをきらしたのか、彼はそう言った。
「……焦ってなど」
いない、その言葉が喉の奥に詰まって、声にならない。
否定しないと。そんなことないって、否定しなければ。だって俺は、望んで此処にいるのだから。
「貴方の父上が生きていたとき、貴方はもっとのびのびとしていた。ただ純粋にわが社の帽子を愛していたじゃないですか」
「よせ、フィシュ」
「いつからか貴方は、上に立つという野望にとり憑かれた」
「よせ言うてるやろ!」
聞いていたくなくて叫ぶと、出てきた声は我ながら痛々しいものだった。
興奮すると、会社では使わないようにしてる訛りが口調に表れてしまう。
俺は小さく舌打ちし、フィシュの手から上着を引ったくった。視線を感じながらも、俺は扉を押し開ける。
「やはり今日の貴方はおかしい。いつもなら私の戯言など、流しているでしょう?」
「……お前に、なにが分かる」
返事を聞く前に、扉を勢いよく閉めた。
言われなくても知ってるさ。今の俺は業績にとらわれ、非道な人間になっている。
分かってる。利益と数字ばかりに気をとられていると。
覚えてる。親父と親父の作った帽子が大好きだったこと。
気付いてる。昔みたいな純粋な気持ちなんて、とうに失ったって。
俺の意志とは無関係に、足はあの場所へと向かっていた。
◇
建物と建物の間、細い路地、日の当たらないコンクリート。
そこには、一週間前と変わらず二人の子供が寄り添っていた。
ただ以前と違うのは、兎耳が寝ていて、鼠耳が起きているということ。
起きている幼児、ヤマネといっただろうか? 確かそんな名前だった気がする。
ヤマネという少年は俺に気付くと、眠そうな瞳をしながらも、俺を見上げた。その視線の強さに、戸惑っている自分がいる。
「……来ると思った」
そんなことを言うから、余計に俺は困惑した。
再び出てくる、なぜという疑問。どうして俺はたかが十前後の子供に、こんなにも振り回されているのだろう。
「……そっちの奴は、まだ待っているんか。お前はなんで此処にいるんや?」
「秘密」
「なんや、それ」
「知らなくてもいいから。次は僕が質問してもいい?」
いい、とOKを出す前にヤマネは疑問をぶつけてきた。
「お兄さんは、なにがしたいのかな」
一瞬、心臓が止まった感覚に陥った。
なにがしたい、なんて、俺が一番知りたい。だけど頭から離れないんだ。
無垢な言葉と、真っ直ぐな瞳が。そして、儚い笑顔も。
「なんで、こんなにも気になる……」
零れた言葉は答えになっていないどころか、逆に尋ねていた。
しかしヤマネはそれをどうこう言う訳でなく、疑問系で答えた。
「ほしいからじゃない……?」
「……え」
「癒されたいんでしょ? 裏のない心に」
――癒されたい? 俺が?
馬鹿を言うな、そんなわけあるか、そう言って笑い飛ばせばいい。
だけど胸が締め付けられて、違うはずなのに反論ができないんだ。
差し出された手は、すべて断ってきた。無償の優しさはひたすら疑った。油断も隙もみせなかった。
疲れたのは、心と身体、どちらだろう?
「ぼくらを哀れに思う?」
俺はゆるやかに首を振った。身体の奥で熱いなにかが渦巻く。しかし指先だけは冷たくなっていて。
「…なんでなんだ…」
戸惑い、悲しみ、切なさ、痛み、躊躇い。
かき混ぜてできる感情は、何?