第61話:NIPPING RAINFALL
喫茶店を出てすぐ頬に雫が伝うのを感じ空を見上げれば、すでに雨となって地面に降り注いでいた。
そこからは正にあっというまで、次から次へと冷たい雫が帽子を、服を、靴を、濡らしてゆく。
なぜ俺は傘を持っていないのだろうと、他人が聞けばあまりに理不尽な苛立ちを覚えた。
雨宿りにもう一度店内へ入ろうとして、踏み止まる。
支払いを終えたばかりなのに再び入るというのは抵抗があったし、何よりこの店の紅茶の不味さにたえられない。
どうしようかと悩んでいるうちにも、雨は強まる。
「お兄ちゃん、風邪ひくよ?」
鼓膜を刺激した高い声に、振り向いた。だけどそこには誰もいない。
――空耳か?
聞こえるのは、雨が地面を叩くノイズだけ。
「お兄ちゃん、ここだよここ」
下だ。俺は足元に視線をおとした。
店と店の間の狭い路地。ふたりの子供がそこに座りこんでいた。ちょうど隣の屋根が彼等の頭上にあり、雨に濡れていない。
ひとりはボサボサの痛んだ髪から兎の耳が生えている。今の声はコイツのものだろう。
そしてもうひとりは、その幼児の肩に頭をのせて寝息をたてていて。この子供もまた、丸い耳があった。
――どちらも半獣か。それにしても汚い格好やな。
彼等を見る俺の目は、きっと蔑んだものだっただろう。
ボロボロの布切れをまとい、櫛が通らないような乱れた髪に薄汚れた肌。貴族の家に生まれた俺にとって、不愉快以外の何でもなかった。
そんな心情を知らない子供は、首を傾げて俺を見上げる。俺はため息をつきながら、ふたりのもとへ足を進めた。
雨が止むまで、ここで風雨をしのぐとするために。
「……お前らはここで何しとるんや? 親はどうした」
乾いた壁によりかかり、足元の幼児に尋ねる。口にした後、俺はなに聞いているんだと後悔した。
「パパはね、お城の誰かに殺されたんだって。ママは出かけてるよ」
悲しみの色はなく、だけど喜びや嬉しさなどの温かさも感じない、抑揚のない声。
殺された、などとずいぶん簡単に言う。そして俺はすぐに分かった。きっと母親は、帰ってこない。
それを理解した上で聞く俺は
「……いつ出掛けたんだ?」
我ながら、大人げないと思う。
いや、そもそも俺は大人と言えるほどしっかりしていない。しかし子供と言うには不純すぎて。
大人と子供の狭間。宙に浮いた状態で、あまりに不安定だ。
「分かんない。でもね、待っててって言ったから、僕はここから動いちゃいけないの」
自分の思考に浸りきっていたとき、子供特有の変声期前のテノールにハッとする。
――待てと言われたから待ってるんか。従順やな。
子供は苦手だ。汚れなき心は、自分の醜さを思い知らされて反吐が出る。
分からないくらい前の言葉にいつまでも従っているとは、なんて愚か。
「隣で寝てる奴は、お前の弟かなんかか?」
ずっと寝たままの子供を一瞥して問う。さっきから俺は質問ばかりだ。
「この子はヤマネっていうの。気付いたら一緒にいたんだ」
「気付いたら……ね」
この子供も、親と家をなくしたのだろうか。しかし哀れこそ思えど、どうにかしたいとは考えない。
――所詮は他人だ。同情なんて不必要。
ふと空を見ると、先程よりも雨が弱まっていた。しかし時おり吹く風はまだ冷たい。
湿った臭いが鼻を刺激する。張り付くシャツがひどく不快だ。この天気のせいか、街に人気はなく、それが物悲しい。
こんなにも憂鬱な気分なのは、この珍しく降った雨のせいだろう。
「……お前、ここで待つのはもう止めた方がええ」
俺はうつ向いたまま言う。兎耳の子供がどんな顔してるのか見えない。
「母親はもう戻って来ぃへん。待ってるだけ無駄や」
「来るよ」
即答されて、カッとなる。親切に教えてやったのに、なんで。どうして。
苛々した。分かれよ。お前の母親は迎えになんかこないんだよ。
「だって、待っててって言ったもん」
隣の少年を見て、俺は固唾を飲み込む。唖然とした。
微笑みを浮かべていたから。
「なんでや、なんでそんなに信じれるんや!」
苛立ちが抑えられず叫べば、少年はきょとんとした表情をする。
俺の言ってる意味が分からない、とでも言いたげに。
「信じるのが、そんなにいけないことなの?」
その言葉は、今の俺のすべてを否定するに充分だった。
信じれば利用される。愛すれば裏切られる。潰される。捨てられる。
だから誰も信頼しない。……だけどそれは、誰にも愛されないということではないだろうか。
「……お兄ちゃん?」
黙りこんだ俺を不審に思ったのか、その子供は呼び掛けてくる。
寒い。冷気が身体の奥、骨の髄までを締め付けて。うまく呼吸ができない。
弱まったと思った雨は、最初よりも荒々しいものに変わっていた。
「……三月、だれ?」
いつ起きたのか、兎耳より幼いパーマの子が、眠たそうな瞳で俺を見ていた。
俺の叫んだ声で目を覚ましたのだろうか。
――ミツキ? それがコイツの名前なんか?
そう考えて、すぐに拒絶する。どうせ今限りの話相手。明日になればきっともう、出会うことはない。
そんな奴の名前なんて、どうでもいいじゃないか。
「おはようヤマネ。えっとこの人はね……」
兎耳がそう言いかけ、俺を見る。大きいだろう瞳は、長い前髪に隠されていた。
なんとなく次にくる問いが予想できて、だけど顔をそむけることができない。
「お兄ちゃん、名前なんていうの?」
やっぱり、と小さなため息をついた。
気に入らない。言葉にしようのない怒りが胸のうち、心の底から溢れてくる。
孤児のくせに、痩せ細っているくせに、身体だって衰弱してるくせに。
なのになんで、笑ってられるんだ。
俺は胸ぐらを掴み、少年を半ば強引に立たせた。その衝動でか、子供の前髪が横に流れて、アーモンド型の瞳が現れる。初めてしっかりと視線が絡んだ。
「お前みたいな奴に教える義理はない。いいか、よく聞け。どんなに待ってもお前の母親は帰って来ぃへん。お前を捨てたんや」
可哀想な奴やな、と吐き捨て嘲笑う。そんな俺の言葉に、少年は泣くこともなく、だからといって怒りもしない。
曇りのない真っ直ぐな目で言うのだ。
「……僕は、今まで一度も自分が不幸と思ったことはないよ」
目の前が真っ白になった。
【なんで】その疑問が頭のなかを踊り回る。答えのない問題。公式も法則も知らない。
気がつけば俺は、その場から走り出していた。
「ねぇ、ヤマネ」
「……なに?」
「お兄ちゃん、泣いてたね」
それでも雨は止まない。
※
nipping…身を切るような
rainfall…降雨