第59話:薔薇色吐息
廊下を歩いているとき。悲鳴の後に、ヒュッという風をきる音が聞こえた。
「な、なに?」
耳をつんざく悲愴な叫びに、反射的に肩が揺れる。声のした方へ足を向けると、そこにはとてもカオスな光景が広がっていた。
真紅のドレスを纏ったブロンドの美少女。しかしその両手には外見にそぐわない大きな鎌が。
そして彼女の前には一人の中年男性が、震えながら床に手をついている。表情は恐怖に歪められていた。
先ほどの音と声は彼等のものだろう。想像はつくが、あまりに恐ろしい。
「あら、アリス」
わたしに気付いた女王様が、こちらへ振り向く。ギクリとして頬がひき攣った。
「な、何してるの?」
尋ねる声色が上擦る。女王様は花のような笑顔から一変、不機嫌な表情に変わった。
口を尖らせ、少女は男のもとへ一歩踏み出す。彼はひぃッと、ひきついた悲鳴をこぼした。
「この人がね、私のドレスに触れたの。使用人がいい身分よね。トゥーイドルの特注なのに!」
「だからってなんで鎌持つ? 危ないでしょ!」
「平気よ、扱いには慣れているもの。ああでも、最近は刃こぼれが酷いのよね。一振りじゃ首を落とせないかもしれないわ」
そう言って女王様がため息をつくと、彼はサァッと顔を青くする。ついでにわたしもサァッとした。
だって切味悪い刃で首を……うえぇ。想像しただけで気持ち悪い。
「も、申し訳ございません陛下! どうか、どうか命だけは……!」
跪き、手を合わせる男性。必死な形相である。そりゃそうだろう、自分が殺されるかもしれないのだから。
いや、わたしだって目の前で首が飛ぶのを見るのはごめんだ。そんな殺伐とした人生送ってきてない。
――って、そんなこと思ってる間に鎌振り上げてるぅぅぅ!
「じょ、女王さま落ち着いて! なにも殺す必要ないでしょ? ほら、この人も謝ってるしッ」
「アリス、ごめんで済めば死刑はいらないのよ?」
「そうかもしれないけど……って、ダメダメ! 殺しちゃダメ!」
わたしは女王様の腕を押さえた。なんでこんな細い腕でそんな大きな鎌を持てるのだろう。
ぐ、と彼女の手を制すと、女王様は頬を膨らませわたしを見上げた。
わ、上目使い……って言ってる場合か!
「もう、そんなに止めるなら仕方ないわ。今回はアリスの言葉に免じて許してあげる」
ため息をつき、肩をすくめる。
「え……あ、ありがとうございます陛下!」
男の人は一瞬目を見張り、だけどすぐに感謝の言葉を口にした。瞳には涙が糸をひいている。
行っていいわ、と女王さまが促すと彼は慌てて走っていった。振り向き際にわたしにお辞儀をして。
すごいぞわたし。人ひとりの命を救っちゃったよ。
「ねぇアリス」
「はい? ──ッ!」
かわいらしい声に振り返ると、鎌をうなじに回されて。最初に聞いたような風をきる音がした。
あまりに突然のことに、身体が固まる。動けない。
「どうして止めたの? 制裁なしなんて、気が済まないわ」
「……逆に質問しますけど、どうしてすぐに殺してしまうのですか。服に触れたくらいで」
つ、と首筋に刃があたった。だけど、痛みも温度もわからない。ただの鉄としか感じなくて。
そんなわたしに少女は顔を近付けてきた。彼女の瞳に自分の姿が映る。
「いいことアリス、この国では私がルールよ」
「女王、さま」
「アリスもこの国の一員なら従ってもらわなきゃ。でないと、貴女を殺してしまうわ」
一員、と聞いて違和感。わたしはこの国の住人じゃない。ああ、そうか。女王さまは知らないんだ。
……ううん、今はそんなことより、注目すべき言葉があった。
【殺してしまうわ】
誰が、誰を?
貴女が、誰を?
誰が、わたしを?
──貴女が、わたしを?
鳩尾がふるりと震えた。心臓の音が脳に響く。声が、出ない。
「何してるんですか」
第三者の声に、わたしはハッとした。それは女王様も同じだったようで、少女はパチリと瞬く。
「白うさぎくん……」
零れた声は、予想以上に掠れていて。
突如現れた彼は、わたしの首に回った鎌の柄を押さえるように掴んでいた。その表情は、何を考えているか読めない。
そして暫しの沈黙の後、
「冗談よ」
くすりと彼女は笑った。いつものように、麗しき笑みで。
スッと鎌が取り払われる。途端に力が抜け、わたしは膝から崩れ落ちた。
「私、可愛いものが大好きだもの。自分から壊すようなバカな真似しないわ」
よくわからないことを言い、女王様は背を向ける。赤いドレスが揺れて、白のフリルが覗いた。
ヒールの音を響かせながら、彼女は廊下の奥へと消えていく。
「びっ、くり…した」
安堵の吐息と共にそんな言葉が漏れた。床にペタリと座りこんだわたしを、白うさぎくんが気遣いの声をかけて覗きこむ。
上から下まで見つめたあと、少年はわたしの手を包みこむように握った。
「手、震えています」
指摘されて気付く。白うさぎくんの手の平の中で、それは確かに震えていた。
「もう大丈夫ですよ」
そう諭す彼の言葉はとても温かいのに。どうして、こんなにも胸が痛むの。
――…答えなら分かる。
この少年も、彼女と同じくらい命を軽くみてるから。きっと何人も殺めてきたから。
あなた達の純粋故の残虐さが、怖くて哀しい。それでも嫌いになれないの。
瞳に涙の膜が張った。