第53話:跪いて御奉仕なさい
灯りを落とした部屋に、月明かりが差しこむ。わたしはまだ少し濡れた髪を拭きながら、ベッドに寝そべった。
枕の上にある封筒を手にとる。これはアンから今日もらったものだ。
え、中身? 写真だよ。え、なんのって? 決まってるじゃない。白うさぎくんのさ!
「寝る前に見れば夢に出てくるかも♪」
写真に写る兎少年にうっとりしながら呟く。ああもう、なんでこんなに可愛いんだろう。
「幼児趣味は未だ健在?」
不意にかけられた言葉。その聞き覚えのある声に、わたしは血の気がひくのを感じた。
恐る恐る声の方向に視線を向ければ、そこには出来ればはずれてほしかった、予想通りの人物。
「あまり目移りしてると、お仕置きしちゃうよ?」
ピンクの髪した、変態猫。
「ギャァァァ! なんで!? なんで普通にいるの!?」
「嫌だなアリス。俺はいつだって貴女の側にいるよ」
「ちょ、警備の人ー! 此処にストーカーがいまーす!」
「アリス、貴女ちょっと叫びすぎ」
呆れたように言い、チェシャ猫はわたしの口を手で覆い塞いだ。むぐっと変な声が漏れる。
上目に睨んむと、彼はやけに嬉しそうに頬を綻ばしている。
それが気に食わなくて手の平に噛みついてやろうかと思ったけど、仕返しが恐ろしいので止めておいた。
わたしの口を塞いだまま、彼は片足をベッドに乗せる。さすがに焦ったわたしの背中には、嫌な汗が伝った。
「むぐぐー!」
「あはは、なに言ってるのか全然分かんない」
ケラケラ笑うチェシャ猫。
――本当にムカつくなコイツ!
手から口唇に熱が触れて、くすぐったい。いつも思うけど、彼は体温が高い。正直、すごく意外だ。
完全に身体をベッドに乗せたチェシャ猫をジッと見てると、彼は見定めるように目を細めた。
「騒がないでくれるなら手を離すけど……静かにできる?」
わたしは何度も頷く。それを確認したチェシャ猫は、手をそっと離した。
――甘いわね、チェシャ猫。
わたしは密かに口角をあげる。そう、ここで引き下がるわたしじゃない。
「警備の人ー! ここに不審者が───って、んぎゃ!」
「そうくると思った」
肩を押され、その力に身体が後ろへ倒れる。真っ白なシーツに腕を縫い付けられた。うわ、デジャブだこれ。
視界は、チェシャ猫の薄笑いで埋まっていて。その奥には、天井にぶら下がるシャンデリアが僅かに見える。
冷や汗が更に噴き出た。
「俺のほうが一枚上手だったね」
「っ、マジで退いて!」
「アリスがいけないんだよ? そうやって騒ぐから」
「そりゃ騒ぐだろ!」
だって寝ようとしたら、いきなり部屋に立ってるんだよ!? 普通に考えてかなりホラーでしょうが!
「しかもこのタイトルでアンタが出てきたら、嫌でも身の危険を感じるって!」
「危険、ねぇ……」
低い声で、わたしの発した言葉を繰り返すチェシャ猫。息がかかるくらい顔を近付けてきた。
――う、わわ……。
前髪が触れあう。奥まで見てきそうな瞳。わたしは生唾を飲んだ。
「アリスはさ、そんなに俺のこと嫌い?」
どくん
ほら、また。心臓が痛くなるの。
ふと、先日の公爵夫人の言葉を思い出す。
それでもわたしは、彼の問いに頷いた。それにチェシャ猫は、ふむ、と呟く。
「……。嫌よ嫌よも「最終的に嫌なんだよ! そのくらい気付け!」
何故そこまで前向きに考えられるのか謎だ。そのポジティブシンキング、どこかの騎士に分けてあげたい。
「ん〜。じゃあアリスのリクエストを受け付けてあげる」
にっこりと笑う彼に、嫌な予感が頭を満たした。
「激しくて痛いのと、優しくて恥ずかしいの、どっちがいい?」
「なにその2択!?」
「それが嫌なら主従プレ「言わせるかァァァ!」
涼しい顔して、とんでもない事を言ってのけるチェシャ猫の言葉を遮る。うん、全力で。
「我が儘だなぁ、アリスは」
「黙れ歩くR指定め! ここは全年齢対象だぞ!」
足をバタバタと動かし抵抗する。
だいたい彼が出てくると大抵際どいところまでいってしまうんだ。
まだセーフだよね。え、まだセーフだよね?
しかしわたしは自分のセリフに後悔した。
「いいじゃない。二人でめくるめく淫らで妖艶な世界へいこうよ」
先ほどよりも愉快げに彼ははしゃぐ。
――墓穴掘った……。
そう思わずにはいられない。
わたしは目の前の顔を見つめた。暗闇のなかに光るふたつの瞳。心の奥底まで覗いているようなその瞳は、正直苦手である。
それなら目を合わせなきゃいい話だが、何故か視線をそらせない。
「……いい迷惑」
心の中で呟いたつもりが、声として外に漏れた。言わずにはいられなかったのかもしれない。
「迷惑?」
チェシャ猫が反応する。いつもの薄笑いが消え、眉間にしわが寄せられた。
蹴っても引っ叩いても噛んでも怒らなかったのに、何故そこで不機嫌になる?
そう疑問に思ったが、もしかして彼はわたしの言葉に誤解したのかもそれない。
「迷惑って……何が? 俺のこと?」
低い声で早口に言うチェシャ猫。
まずい、怒ってるとまではいかないが、明らかに機嫌を悪くさせてしまった。
わたしは、以前のチェシャ猫の笑みを思い出した。狭い路地で強引にキスされ、侵入してきた舌を噛んだとき、彼が見せた表情。
ゾッとする、微笑み
「───ッ!」
途端に悪寒がわたしを襲う。この感情に名前をつけるなら、間違いなく『恐怖』だろう。
「手、震えてるよ。怖いの?」
再び、チェシャ猫の口角が吊り上がる。
もしそれがわたしの怖がる表情を見てなら、彼はかなりのサディストだ。いや、今更だけどさ。
「可愛い人」
そう呟き、彼はわたしの手首を拘束していた腕を移動させた。
肘を伝い、二の腕を這い、肩を撫で、首筋に行き着く。
その動作はとてもゆっくりでいてソフト。肌がむず痒さを訴えた。
薄く開いた口からは、自身の意志とは無関係に吐息がこぼれる。
彼が首に手の平をあてがっても、わたしは動くことができなかった────。