第44話:ルナティック
泣きだしそうな空の下、雨を予想してか、街に人気は少ない。
陽が分厚い雲に遮断されていて光は届かず、吹く風も冷たかった。
何処へ行くわけでもなく、何をするわけでもなく、うつ向き歩くわたしはとても滑稽かもしれない。
涙を溜めた、紅い瞳を思い出す。胸が締め付けられた。
伯爵という高い地位に立ち、周りから殺戮快楽者と呼ばれ、知能と権力を併せもつ白うさぎくん。
そんな彼の弱い一面を、初めて見た。可哀想では片付けられない過去。
白うさぎくんは自分を責めるようなことを言っていたけど、それは間違いだ。
殺しには絶対反対。
血で快楽を得るなんて理解できない。
だけど、君を嫌いな人なんていないでしょう?
優しくて穏やかで、時々天然で。そんな君が、少なくともわたしは大好きだから。
「……あれ?」
わたしは顔をあげた。考え事をしていたせいか、知らない路地裏に来ていて。
「え、どこだ此処?」
キョロキョロと辺りを見回す。横には壁、下にはコンクリート、上を見上げれば、狭い灰色の空があった。
――…とりあえずUターンしよう。
そう思い引き返そうとしたとき、視界の端に映る、見知った人。
特徴的な紫の耳、だいぶ伸びたショッキングピンクの髪、少し肌寒いせいか、いつもの服に黒のコートをはおっている彼は。
久しぶりに見る、チェシャ猫だった。
つい反射的に隠れてしまったわたし。物陰に隠れ、彼の様子を伺う。
どうやら、誰かと話してるらしい。公爵夫人かな?
「好きなの、貴方のことが」
――ぶッ!!
こ、告白ゥゥゥ!?
わたしは興味心から身を乗り出した。他人の告白現場を覗き見なんて我ながら悪趣味だと思うけど……。
チェシャ猫の隣にいる女の人。ツヤツヤの黒髪ロングで、人形のような綺麗な顔立ち。
なんであんな美人が、変態猫に惚れちゃってるの? もったいない。かなりもったいないよ。
「交際したい、ってこと?」
「ええ、そうよ」
告白されているのに、顔色ひとつ変えないチェシャ猫と、自信があるのか、余裕そうな女性。
並んでいる二人は正に美男美女で、とても絵になっている。
――な、なんて返事するんだろ。
わたしはより一層、耳をすました。
そして、女性に向かい笑顔で言ったチェシャ猫の言葉はコレ。
「貴女、SとMどっち?」
わたしはずっこけた。
「は?」
当たり前だが、意味がわからないといった様子で返す女の人。
そんな彼女に、チェシャ猫は笑みを崩さないまま、もう一度言う。
「だから、どっち?」
「……どちらかと言えば、Sだけど」
女の人は戸惑いがちに、それが何?と尋ねた。
「残念、俺もSなんだ。ってことで、ごめんね」
……アイツの恋愛観はSかMかなのか? どんなふり方だよ。こんな風にふる人、他にいる? いいや、きっといない。
じゃあね、と言って片手をあげるチェシャ猫。うわ、こっち来る!
逃げようとしたわたしだったが、その必要はなくなった。
「待って」
彼女がチェシャ猫を呼び止めたから。
「なに?」
「貴方のためなら、私Mになってもいいわ」
「……へぇ。本当?」
「ええ。だから、ね?」
チェシャ猫の腕に自分のを絡ませる女性。何歳くらいなんだろ、あの人。やけに色気がある。
チェシャ猫はやんわりと彼女の腕をはずし一言。
「じゃあ、跪いて」
わたしは噴いた。
「で、俺の靴を嘗めてよ。愛して下さいご主人様、って言ったら付き合うの考えてあげてもいいけど」
「……!」
「できないの?」
「だって、そんな…私は貴方の奴隷になりたいんじゃないの。チェシャ猫の恋人になりたいのよ!」
さっきまでの余裕はどこにいったのか、すがるように叫ぶ彼女。わたしには背を向けていて、表情は見えないけれど。
ばくばくと早鐘をうつ心臓。なぜわたしがこんなに緊張してるんだろう。
チェシャ猫が、金色の瞳を細めた。
「そう、残念」
笑みを消し、女の人の腕を掴む。
「痛ッ!」
彼女の肩が揺れた。チェシャ猫が、いくらか力を込めているのが分かる。
――ちょ、女の人相手に乱暴はタブーでしょうが!
でも意外。アイツって、フェミニストっぽいのに。変態だけど。
「口先だけの子、嫌いだよ。そもそも奴隷だなんて、俺一言も言ってないし。けっこう不愉快。俺の視界からさっさと消えて」
「……ひどい」
「酷いのはどっちだよ」
「………」
彼女はわたしがいるほうとは逆方向に、走っていった。もしかしたら、泣いていたかもしれない。
だって好きな人にそんなこと言われたら、ショックだ。
「アンタって、なかなか冷血なんだ」
チェシャ猫の前に姿を現す。しかし彼は驚くそぶりを見せない。
まるで、わたしがいることを予想してたと言わんばかりに。
「また覗き見? あまりいい趣味じゃないね」
相変わらずの薄笑い。気持ち悪いと思った。
「…なんであんなこと言ったのさ。可哀想じゃん」
呟くように言えば、彼はひょい、と片眉をあげる。心外だ、とばかりに。
「嫌だな、あれでも優しいほうなんだけど」
「どこがだよ!」
「じゃあ、こう言ったほうがよかった?」
そう言い、チェシャ猫はわたしの近くに歩みよる。そしてわたしの首筋に手をそえ、流れた髪を耳にかけてきた。そして耳元に口唇をよせる。
「俺はあんたなんか知らないし、興味もない。知ろうとも思えない。分かったらさっさと消えろ」
囁いた声はゾクリとするくらい低くて、口にした言葉は呼吸を忘れるほど冷たい。
直接向けられたものじゃないのに、恐怖と悲しみを感じた。
「これに比べれば、ずっと優しいでしょ?」
少し顔を離して、彼は笑う。改めて思う。コイツ、酷い。
優しさとは言えない気遣い。隠した黒い本音。人をなんだと思ってるんだ。
「玩具」
……心のなか読まれた。
油断も隙もないんだから。
「他人なんてみんな俺の玩具だよ。玩具は所有者に弄ばれていればいい。なのにさっきの人みたいに好意の見返りを求めてくるのは、ガラクタ同然だね」
なんつーエゴイストでサディストなんだ。それに、
「いくら何でも、ガラクタは言いすぎでしょ。かなりの美人だったし。むしろ宝石じゃない?」
「容姿云々のことじゃなくてさ。俺、あまり美醜には興味ないしね」
細めた瞳は、何を考えているのだろう。蜂蜜色のそれは甘いのに、心はきっと絶対零下。
彼の目に映る自分を見ながら、わたしは疑問を尋ねた。
「じゃあ、アンタの異性に対するパラメーターは何なわけ?」
そう聞いてすぐに、愚問だと気付く。分かりきっていることだ。そう、SかMか。
じゃなきゃ、さっきみたいな質問はしないはず。
「今SMで判断するとか考えたでしょ」
わたしの心の声筒抜けじゃねぇかオイ!
「だけど残念。半分はずれだよ」
赤い舌を覗かせ、ウィンクするチェシャ猫。普通の人がやると寒いだけのそれが、悔しいけど様になっている。
――っていうか、半分?
じゃあ、残りの半分はなんだと言うんだ。
それを尋ねると、彼はわたしの背後にまわり、わたしの頭に顎をのせる。
手を首元に絡ませ、まるで抱きつかれているみたいだ。
「俺ってさ、サドとマゾの二重属性じゃん?」
「自覚あったんだ」
「まぁね。だからSの俺はドMな娘を気に入るんだけど、その娘はMの俺を満足させてくれなくて」
「満足って」
「逆にMの俺はSの娘を好きになるんだけど、その娘はドSの俺を見るとドン引きしちゃうわけ」
「……なるほど。複雑なんだ」
そういうこと、とため息を吐き出すチェシャ猫。彼の息が頭にかかった。
わたしは緩い拘束をはずし、チェシャ猫と向き合う。
「でもそれって、アンタに非があるんじゃない?」
「仕方ないじゃん。こればっかりは直しようがないし」
「………」
肩をすくめる彼に、直す気がないんじゃ、とは言えなかった。
「……じゃあわたしは論外だね。ノーマルだし」
苦笑しながら言うと、チェシャ猫は『え?』と首を傾げる。へ、わたし変なこと言った?
「アリスは論外どころかストレートだよ」
「なんで!?」
「アリスって気が強いじゃん? いじめがいがあるし、いじめられがいもある」
「……つくづく変態ね」
「酷いなぁ、こんなにも愛してるのに」
「だからそれが分かんないだってば!」
「ようは俺、自分にないものを持ってる人に惹かれるんだよね」
チェシャ猫になくて、わたしにあるもの? ……常識くらいしか考えられないんだけど。
小さく唸っていると、チェシャ猫はふ、と笑い、頬に手の平をそえてきた。
その手がやけに温かくて、熱が移ったようにわたしの顔は火照る。
わたしはその熱から意識をそらすように、彼から視線をはがし話題を戻した。
「…で、わたしの、その、アンタと違うところって何よ」
「住んでる所。異世界から来た女の子なんて、素敵じゃない」
「……それって違くない? その理屈だと、アンタは異世界に興味があって。だからそこから来たわたしに好奇心を抱いてる。それを恋と勘違いしてるんじゃないの?」
「興味と好奇心は恋の始まりでしょ?」
「そりゃあそうかもしれないけど……」
でもそれは、わたしが好きなんじゃないと思う。アリスに恋してるんじゃなくて、異世界から来た少女に恋してるんだ。
「わたしに限定する話じゃない」
そう漏らせば、チェシャ猫はわたしの顔を覗きこみ、どうして?と首を傾げる。
「つまり、ここに来たのが偶然わたしだったって話。もしわたしじゃなくても、異世界から来たならアンタは興味を持って、そしてそれを恋と呼ぶ」
「疑心暗鬼だね、アリス。騎士のネガティブが移ったんじゃない?」
「冗談に聞こえない冗談はやめろ」
有り得そうで怖い。もしあの性格が感染したらどうしよう。生きているのが嫌になりそうだ。
「でもアリス、確かに最初はただの興味だったかもしれない。だけど、それだけで好きになる? 好きになったのは貴女だからだよ」
「………」
「一日中、アリスのことを考えていて。会いたい、抱きしめたい、キスしたい、いじめたい、拘束したい、食べちゃいたい。──そう思ったら、もう恋だと思わない?」
「いや、後半おかしかったけど」
そう口で言いつつも、思いの外純粋な告白に、わたしは頬が熱くなるのを感じていた。
翻弄されている。むず痒い感情が胸にこみあげて、彼の瞳が見れなかった。
※
ルナティック(lunatic)…変人