第43話:Do you love me ?
止んだ風。残された余韻は、薄紅色の花びらと微かな残り香だけ。
あの人はいつも自分勝手だ。どうして言いたいことだけ言って、去ってしまうのだろう。
舞い落ちた花びらに触れる。冷たいそれに、喉が震えた。
「お姉さん」
背後からの声に心臓が跳ねる。ゆっくり振り返ると、凶器を片手に、白うさぎくんはものすごい近くに立っていた。驚きすぎて、声が出ない。
曇りのない刃。彼はそれをわたしの首筋にあてがう。
ヒヤリとした感触に、唾を飲んだ。
「少し力をいれるだけで、死んでしまうのですよね」
淡く微笑む白うさぎくんの瞳には、哀しみが色付いていて。矛盾した表情。
なぜそんな顔をするのだろうと、胸が締め付けられた。
「お姉さんの血は綺麗だから、見てみたいですけど。僕じゃ殺しかねません」
「いやいや、わたしの血は汚いです。ドロドロのビチャビチャです。だから殺さないでッ」
「人とは脆いものですね」
「ちょ、わたしの話聞いてる!?」
少年の口角は、緩く吊り上がっている。
向けられたのは殺意なんかじゃなくて。でも、あたるナイフからは恐怖しか起こらない。
少しでも動けば、皮膚を傷つける。脈が切れれば、血が出たじゃ済まない。頭に浮かぶ、死の一文字。
冷や汗がうなじを伝う。ヤバイ。とにかくヤバイ。
白うさぎくんがわたしを殺すなんて信じたくないけど、今の彼は理性が途切れていて。
「……ねぇ、お姉さん。僕が血を浴びる快楽に気付いたのはいつか知ってます?」
いきなりの質問。わたしを見上げる紅い瞳。
「8歳って、アンに聞いた。屋敷に忍びこんだ泥棒がきっかけだって」
「メアリは本当に優秀なメイドですね。そんなことまで知ってるなんて」
優秀っていうか、好意からの知識だよね。白うさぎくんは気付いているのかな、自分のプライベートなことまで調べられていることに。
っていうか、アンはどうやって調べたんだろう。かなり気になる。
「でも、その情報は間違ってます。初めて人を殺したのは5歳ですから」
「へぇー、って、ごッ…!?」
思わず聞き返すと、彼は笑顔のまま頷いた。
5歳って。8歳でも驚いたのに、そんな幼い頃から?
――あれ、そういえば。
あることが頭をよぎった。そう、5という年齢に何か引っ掛かる。
確かアンの話のなかにあった気がするけど……。
必死に記憶を巡らすが、駄目だ。白うさぎくんの身長とか体重ばっかり思い出し、肝心なところが出てこない。
そんなわたしの考えに答えるように、少年は口を開く。
「お姉さんは僕の両親が自殺したことは知ってますか?」
「あ、それ…! アンが言ってた。心中したって」
パズルのピースがはまった。言われて思い出す。
「あれ、実は僕が殺したんですよ」
「………え?」
にっこりと笑う目の前の少年。あてがわれた刃が、するりと首筋を撫で、頬に行き着く。
止まる思考回路。今の言葉が信じられなくて。速まる鼓動がわたしをより焦燥させた。
「僕の父は人が良くて、困ってる人がいると放ってほけませんでした」
白うさぎくんから紡がれる、痛々しい過去。彼が自分のことを話すなんて、めずらしい。
「しかしそれが災いして、家は莫大な借金を負いました。それこそ、気の遠くなるような。優しすぎるというのも考えものですね。あっと言う間に、落ちこぼれ貴族になりました」
耳に全神経を集中する。白うさぎくんが、話してくれているんだ、きっと誰にも話さなかったことを。
ひとつも、零したくない。
「父も母も悩んでいました。このままじゃ、破産するとね。僕も幼いながらに、そんな事態に気付いていました。……だけど、まさかあんなことになるなんて、想像もしてなかったですけど」
「あんなこと?」
「彼等は僕を殺そうとしました」
「!!」
「一家無理心中するつもりだったのでしょうね。ナイフを向けられたときは、さすがに血の気が引きました」
今のお姉さんみたいにね、と付け加える白うさぎくん。
わたしは震える手を頬に持っていき、そっと刃に触れた。
銀色のそれを撫でるように手を滑らせる。悲しいくらい、冷たかった。
「泣きながら、謝りながら僕を殺そうとするんです。ずるいですよね。だから、僕はナイフを奪い、思いきり突き刺しました。即死でしたね」
「………」
「肉の感触、舞う鮮血。この上ない快感に気付きました」
――自殺に見せかけた他殺ってこと?
なんて痛々しい5歳児。
自分より少し背の低い少年を見つめる。
笑っているのに、泣いているような怒っているような。表情が、読めない。
「それからは、何とか借金を返して、再び尊い立場に戻れました。同情した貴族たちが、支援してくれましたからね」
「白うさぎく……」
「罪悪感なんてありませんでした。だってそうでしょう? 殺られる前に殺った、それがいけないことですか? 貴女も僕を軽蔑しますか?」
「白うさぎくん!」
わたしの声にハッとしたのか、少年はパチリとまばたきする。
わたしは触れていたナイフを握りしめた。鋭利な刃が、手の平に食い込む。赤い液体が手首をつたい、血が出たのが分かった。
白うさぎくんはもともと大きな瞳を更に見開き、ナイフの柄の部分から手を放す。
「そんな悲しいこと言わないでよ。わたしは君の───って、わわッ!」
なんかかっこよくて良いことを言おうとしたのに、それは叶わなかった。
少年がわたしのナイフを握っている手とは逆の腕を引いたから。
いきなりの引力に手からナイフが滑り落ちる。白うさぎくんはそれを拾い、カバーをかけてポケットにしまった。
わたしの腕を掴んだまま、彼はずんずんとやや早い速度で歩く。
「あ、あの白うさぎくん…?」
呼びかけに返事はなく、わたし達は再び城のなかへと戻って。
その間、少年は一言も口を開かなかった。
◇
白うさぎくんの部屋に連れこまれ、ベッドに座るよう言われる。
わたしは素直に従い、傷付いた手をかばいながら座った。白うさぎくんは何やらメイドさんに指示してる様子。
――っていうか、今ごろだけどかなり痛い…!
脈のリズムと共に、ドクドクとうずく傷。どこかの変態猫に噛まれたときと、勝るとも劣らない痛みである。血なんかダラダラだしさ。
わたしは握りしめたことを猛烈に後悔した。かっこつけるんじゃなかった。いや、真面目に。
「手、出して下さい」
いつの間にか持っていた治療道具。わたしはおずおずと白うさぎくんに手を差し出した。
消毒をし、ガーゼをあてがい、黙々と包帯を巻く。前にもあったよね、こんな状況。あの時はろくに治療にならなかったけど……。
「何を考えてるのですか、貴女は」
いきなり話しかけられ面食らう。しかも、少し凄みのある声で。
――もしかして、怒ってる?
「下手すれば、神経までズタズタになっていたかもしれないんですよ? どうしてこんな愚かな真似を……いや、すみません。そうですよね…はい」
いやいや、勝手に自己完結されても。
包帯を巻き終えたらしく、白うさぎくんは道具を傍らに置いた。うーん、見事にぐるぐる巻きね。
「……僕の、せいですよね」
「へっ?」
うつ向いた少年を覗きこむ。ユラユラと揺れている、ルビーの瞳。
なっ、泣い……!? え、泣かせた!?
「ししし、白うさぎくんッ」
「傷つけたく、ないのに。お姉さんだけは、嫌なのに。大切な人まで僕は笑いながら、血だけを求めて…どうしてこんな……!」
頭を抱え、かぶりを振る白うさぎくん。わたしは衝動的に彼を抱きしめていた。
可愛くて、大人びていて、少し狂気染みていて。
そしてもろいこの少年が、わたしは愛しくて仕方なかった。
なんだかとてもシリアスになってしまいました(汗)
時計編はひとまず終わり?




