第36話:目覚め最悪の朝
いつもと違う枕の感触に違和感を覚える。だけど、それはマイナスな意味ではない。
城で使わせてもらっている高級枕と同じくらい、心地好いものであった。肌に触れる毛布もとても暖かい。起きるのがひどく億劫である。
もう少しだけ、と寝返りをうったとき。何かにあたった。
――え……?
そのぬくもりに、重い瞼をあげる。
「………」
目の前にある顔が信じられなくて、目をこする。そうだ、わたしはきっと寝惚けているのだ。
祈りにも似た思いを抱きながら、再び瞳にそれを映す。
……どうやら、寝惚けてないらしい。
「な、なんでコイツが」
気持ちよさそうである無垢な寝顔。紫のとがった耳が、時折揺れていて。
――ああ、そうだ。
わたしは昨夜のことを思い出す。
パーティーの途中、身体にだるさを感じたわたしは会場を抜け出した。
チェシャ猫に部屋まで連れてかれ、ベットに投げられて。それで、……手錠をされた。
わたしは改めて自分の手首を見る。少し赤くなっていたが、それは外されていた。
――えっとそれから。
気だるい脳を働かせ、もう一度記憶を探る。
薬を飲まされたわたしは押し倒されてもまともな抵抗が出来ず、されるがままになった。耳をしつこく愛撫された後、首に痛みを感じて。
それから────それから?
「え、なんだっけ?」
必死に記憶を探るが、どうでもいいものばかりが出てきて、その後を思い出せない。
しばらく悶々とした後、わたしは盛大なため息をついた。ああ、頭痛がするよ。
上体を起こし、隣で眠る彼を見る。少し寝癖がついていて可愛い。黙ってれば、いい男なのに。どうしてこんなに変態なんだろう。
飼い主か? 公爵夫人の躾のもとなのか?
いけない考えが頭をよぎった時、わたしは気付いた。できれば、気付きたくなかった。
「……なんでコイツ裸なの」
見える肩は素肌で。ものすごい多大な不安に襲われる。まさかと思い、彼に被さっている布団を思いきり剥いでみせた。
――良かった。ズボンは穿いてる。いや、まだ安心できないけどさ。
チェシャ猫は昨日のままの服だった。床を見ると、シャツやらベルトやらが散乱してる。
なに、このいかにも『迎えちゃった朝』の風景は。
ないないない。それはないよな。うん、ない。
「………。いやだァァァァ! なにも覚えていないのが更に嫌!」
ひとり頭を抱えて絶叫していると、隣の生き物がみじろいだ。ギクリとしつつも、黙って様子をみる。
チェシャ猫は髪を鬱陶しげにかきあげると、わたしに目線をよこした。ゴクリと唾を飲み込む。
「おはよ」
そう一言呟き、わたしの髪を一束すくい口づけをした。なんてキザな。
「ってオイオイオイ!」
彼はそのままぐにゃりとわたしに寄りかかってきて。昨夜のことを思い出し、顔に熱が集まる。
「やめてよして触らないでー!」
「ん……アリスあったかい」
「ぎゃああああ!!」
――耳元でしゃべるなっつーの!!
芯のないようなチェシャ猫の身体を押し退けると、彼は渋々といった様子で離れた。
わたしはちょっと拍子抜け。もっとねばるかと思ったから。
――そっか。今はMなんだ。
この猫の変な習性を思い出し、納得する。
「あのぉ…チェシャさん」
わたしはベットから下りた彼の背中に話しかける。
「チェシャさんって。名前勝手に変えないでよ。なに?」
「いや、あのさ。昨日のことなんだけど」
「……ああ」
チェシャ猫は散乱した服を拾いながら、首から上だけこちらに向けた。
いや、『ああ』ってなにさ。マジで? マジでそうなの?
「いやァァァァ! 人生最大の汚点!!」
「傷つくなぁ。期待にお応えできななくて残念だけど、なにもしてないよ」
……え?
「アリスの声に気付いたご主人様に止められた。ああ、俺なんで鍵閉めるの忘れたんだろ」
「な、なにもしてない?」
「そう言ってるでしょ」
つまらない、とでも言いたげに、そう返すチェシャ猫。
…公爵夫人、感謝! 一瞬でも疑ってすみません!
何もなかったと分かったわたしは、途端に安心感に包まれた。布団にくるまり、枕を抱きしめる。
――同じベッドで寝たっていうのが、不愉快だけどね。
一晩たったせいか、髪の巻きがとれていた。ちょっともったいない。
っていうか、あれ? そういえばわたし、ドレスは?
わたしは自分の衣服を確認した。
「……ちょっとチェシャ猫」
「なに?」
「わたし、いつのまに着替えたわけ?」
わたしの今の格好は、昨日のパーティードレスではなく、純白のワンピースである。シンプルなデザインで、肌触りがいい。
「ああ、さすがに寝るのにそのままじゃまずいと思って、替えたんだ」
「誰が?」
「俺が」
「にゃぁぁぁぁ!!」
「朝から元気だねぇアリス」
叫ぶわたしと裏腹に、チェシャ猫は呑気に呟く。
わたしの叫び声がおかしいのは、できればスルーの方向で。だってそれくらい、ショックを受けたのだ。
「見たの? 見たのね!?」
「見てない見てない。下着がピンクだったとか意外に胸があったとか、全然見てない」
「見てんじゃねえかァァァ!」
うがー、最悪! 穴があったら入りたい。
わたしは怒りと羞恥に耐えられず、チェシャ猫を引き寄せ叩きまくった。
「このバカバカ! もうお嫁にいけないじゃんッ」
「俺がもらってあげるって。ちょっ、アリス痛い。痛い痛い痛……気持ちいい♪」
「キモイわボケェェェェ!!」
「ああん♪ アリス激しい! あ、でも化粧はそのままだから、早く落としたほうがいいよ。シャワー浴びるでしょ?」
わたしはその言葉に、ピタリと止まる。
シャワー…確かに浴びたい。すっきりしたいし、髪もベタついている。
動かないわたしをチェシャ猫はベッドから引き出した。
「案内するからおいで」
そう言って、腕をひく。
部屋から出ると、たくさんの使用人がいた。さすが金持ち。
「無断外泊しちゃった……」
ため息と共に呟く。
「大丈夫。城に電話しておいたから」
「ぬかりねぇなオイ」
◇
お風呂(無駄に広かった)に入れてもらった上、朝食まで頂いたわたしは、公爵夫人に感謝と謝罪をし、城に帰ってきた。
「おかえりなさい、お姉さん」
笑顔で迎えてくれた、白うさぎくん。うう、やっぱり可愛い。あの変態を見た後だから尚更だよ。
「楽しかったですか?」
「うん。とっても素敵だった」
――パーティーは、だけど。
心のなかで付け足す。
「それはよかったです。……あれ?」
「え?」
唐突に白うさぎくんから笑顔が消えた。少年の視線はわたしの首元にささっている。
読めない表情。赤い瞳が、揺れている気がする。
白うさぎくんは手を伸ばし、わたしの首をサラリと撫でて。食い入るような視線が、鼓動を速める。
「お姉さん」
「はい!?」
「……今日はタートルネックを着たほうがいいですよ」
「え?」
「では、僕は執務があるので」
そう言い、白うさぎくんはいつもの笑みを浮かべて去っていった。
鏡を見て、彼の言葉の意味が分かるのはこれから5分後のこと。
「キ、キスマーク」
わたしがチェシャ猫に殺意を抱いたのは、……言うまでもないだろう。
舞踏会編、終了です。
チェシャ猫出すぎですよね(汗)しばらくは控えよう…。
どうでもいいけど、全裸の可能性もあるのに布団を剥いだアリスはすごいと思う。