第34話:公爵夫人
「も、もうムリ……」
今にも膝が折れそうな疲労感から、息切れ気味に呟いた。
「たった一曲踊っただけなのに、体力ないね」
チェシャ猫が呆れたように言い、身体を支えてくれる。
そんなことを言われても仕方ない。ダンスなんてまともにしたことないし、何とか合わせようとすると倍疲れる。
そして何より、蹴ったり踏んだりしたら、後で仕返しされそうな気がして。ものすごいプレッシャーだった。
――運動神経はいいほうなのに。
ダンスが優雅なんて嘘っぱち。
「あ、君。それくれる?」
「どうぞ」
チェシャ猫が近くにいたボーイから、グラスを受け取る。
グラスの中には、濃厚な赤紫の液体が入っていた。
「はい、アリス」
向けられた飲み物。わたしはジッと見つめた。
チェシャ猫は早く取れとでも言いたげに、もう一度わたしにそれを差し出す。
「……それ、お酒?」
「ノンアルコールのワイン。酔わないし飲みやすいよ」
わたしは受け取り、恐る恐る口をつけた。舌の上で転がし、喉に通す。
「わぁ、おいしい」
「それはよかったわ」
「………え?」
声に振り返れば、そこには紫のドレスを纏った美人が。
白い肌に切長の瞳。下ろした髪はネイビーブルー。
公爵夫人だ。チェシャ猫の飼い主で、このパーティーの主催者。
――おお、間近で見ると更に綺麗。正に目も覚めるような美女だ。
彼女は手に持っていたデザートを置き、わたし達の前に歩み寄ってくる。
「チェシャ猫、こちらのお嬢さんを紹介して」
「ん、この娘は俺の恋び──ぐはッ!」
「はじめまして公爵夫人。アリス=リデルと申します」
バカなことをほざくチェシャ猫に肘鉄を喰らわせ、公爵夫人にはドレスをつまみお辞儀をした。
帽子屋に教わった礼儀が役にたった。
――帽子屋も貴族だから、マナーについて詳しかったのかな。
まぁなんにせよ、感謝である。
「ふふ、よろしくねアリス。舞踏会は楽しんで頂けてるかしら?」
「はい。素敵なパーティーですね。こういうのは初めてなんですが、とても感激してます」
「あら、嬉しいわ」
持っていた扇を口にかざし、控え目に笑う彼女。
同性のわたしでもドキッとして、ついみとれる。
「夫人。キャロル子爵がお呼びです」
「…もう、せっかくお話してるのに。プリティなお嬢さん、失礼させてもらうわ。今夜は楽しんでね」
そう言って公爵夫人は、中年の男性――キャロル子爵だろう――のもとへと去っていった。
「綺麗な人……」
「でしょ? 甘味依存症なところが玉に瑕だけど」
無意識に漏らした言葉。それにいつのまにか復活したチェシャ猫が、相槌をうつ。
「甘味依存症?」
「そう。常に甘いもの食べていないと落ち着かないんだよ。帽子屋と親しいのも、そのせい。彼は極度の甘党だし」
なるほど。確かに初めて見たときもロリポップを持っていた。
だけど不思議。そんなに食べてあのスタイル? なぜだ。わたしなんか、コルセットでやっとくびれができるというのに。
「アリス」
「? なに」
「ワイン、もっと飲むよね?」
そう言って彼は、いつ取ったのか持っていたグラスをわたしに手渡した。
◇帽子屋side
「男爵は紅茶に詳しいと聞きましたわ。是非おいしい煎れ方を教えて下さらない?」
マダムの言葉に頷く。
自分の詳しいことを聞かれると必要以上に話したくなるのは、人間の性だろうか。つい熱弁してしまう。
ダンスを終えた俺は、他の招待客と談笑していた。
普段あの騒がしいお茶会にいるせいか、落ち着きのある舞踏会は安心感と寂しさが混ざりあう。
「アリス、顔赤いよ。平気?」
ふと、そんな言葉が耳に届いて。目線だけ向ければ、チェシャ猫が少しふらついているアリスを支えていた。
アリスは頬が紅潮していて、碧眼もうるんでいる。酒にでも酔ったのだろうか。どこか虚ろだ。
「部屋行って休む?」
「…うん…」
――オイオイオイ。あの猫に着いて行っちゃアカンやろ。
止めようと一歩踏み出したとき、チェシャ猫と目が合った。
口角をつり上げている。しかし、目が笑っていない。
その冷笑に俺は
――…すまんな、アリス。相手が悪い。
踏みとどまり、マダムと話の続きをした。
チェシャ猫が会場から出る際、俺に向かってウインクをしたのは………見なかったことにしよう。
Good Luck,アリス