第33話:お手をどうぞレディ
会場に足を踏み入れると、エレガントな音楽が耳を優しく刺激した。
たくさんの丸テーブル。その上には、色とりどりの料理が並んでいる。
そして礼服を着た淑女紳士が談笑していて。みんなバックには薔薇をしよっていた。庶民のわたしは、せいぜい青草がお似合いだろうな。
輝かしいオーラが、とてつもなく眩しい。
「チェ、チェシャ猫」
「なに?」
「わたし、物凄く場違いなんじゃ……」
「なに言ってるの。立派なレディじゃない」
いや、絶対ヤバイって。この雰囲気に慣れることができるかアリス? ……無理だろ。自問自答を悶々と繰り返す。
「チェシャ猫」
「おっと。ご主人様がお呼びだ。ちょっと待っててねアリス」
「ええッ!?」
――放置かよ!!
冷や汗ダラダラなわたしは、もう一度周囲を見回した。その時、視界に入る見知った青年。
いやいやいや、まさかね。あの人がここにいるわけないし。
だけど、見れば見るほどその人にしか思えなくなってきて。わたしはつい凝視していた。
…まさか本当に? でもほら、あれがないじゃん。アイツのトレードマークの───
その瞬間、強い視線に気付いたのか青年が振り返った。
目が、合う。
「…………アリス?」
たっぷりの間をあけて、彼はわたしの名前を呼んだ。
その声はやっぱり、わたしの思っていた通りのもので。
「…帽、子屋…?」
そうこぼすと、彼は目を見張って、わたしの前までやってきた。
いつも被っているシルクハットをはずしている。服は、……この人いつもタキシードだしな。いやでも、いつもより質がいい。
胸元には、相変わらず真紅の薔薇が。
「お前、なんでここに……」
「ぼ、帽子屋こそ」
「俺は公爵夫人に招待されて」
「はぁ!? なんでアンタが招待されるのよッ」
「……あのなアリス。俺がいつもあんな風にお茶会できるのはそれだけ時間と資金を持て余しているからだ。これでも男爵なんだよ、俺」
「だ、男爵!? 貴族だったの?」
「爵位はたいしたことないけどな」
……ん?
わたしはそこで、なにか違和感を感じた。なんか違う。でも、なんかって何?
「あ」
「あ?」
「しゃべり方。いつもの癖がないじゃん」
いつもは『〜やねん』とか、『〜からや』とかなのに。
そう言うと帽子屋はああ、と漏らし、
「こういう社交の場では、標準語を使うようにしてるんだ」
と言った。
「へぇー、使いわけてるんだ。シルクハットも方言もないんじゃ、帽子屋って分からないじゃん」
「それしか個性ないみたいに言うな」
「あ、そう言えばさ」
「無視かよ」
「三月たちは来てないの?」
「な……アホちゃうか!?」
うわっ、口調戻ってるって!
耳を押さえながら軽く睨むと、彼はハッと口許を覆い、誤魔化しの咳払いをする。
「ヤマネはどーせ寝るから連れてきたって意味ないし、三月なんか連れてきてみろ。大変なことになるだろうが」
――確かに。
ドレスは鎖骨やら肩やら、下手すれば谷間だって見える。三月は暴走するな、うん。
「……で、アリス。お前はなんでここに? 白うさぎ伯爵の付き添い───じゃないよな。伯爵は今回、招待客ではないし」
「えっと、わたしは………」
「俺が呼んだんだよ」
わたしの声に被った、彼の声。やはりと言うか、チェシャ猫であった。
先程はなかった、黒いハットを頭に被っている。あのネコ耳が見えない。
「チェシャ猫。その帽子は?」
「ご主人様が被れってさ」
「髪染めて耳も見えないんじゃ、アンタって分からないね」
「えぇ、それだけで?」
「…アリス、お前は人の顔の区別がつけれないのか」
隣で帽子屋が、呆れたようにため息混じりで言った。
――だって特徴がなくなってるんだもん。わたしじゃなくても、分からないって。
ムッと頬を膨らませると、帽子屋は思い出したように口を開く。
「話戻すけど、チェシャ猫がアリスを呼んだのか?」
「そう。お気に入りだからね」
「だから嬉しくないし。っていうか、二人は知り合いなわけ?」
「ああ。俺は公爵夫人とまぁまぁ交流あるしな」
「三月やヤマネとも仲良いよ。お茶会も混ぜてもらったことある」
「ヤマネには嫌われてるだろ」
「俺は好きなのに」
――うーん、初耳。あ、でも、前に三月の口からチェシャ猫の名前が出てきたことあったな。
世間は狭いって本当だね。改めて思うよ。
そんなことに感心していたら、今まで静かに流れていた音楽が止まった。
かと思うと、先程よりボリュームのある旋律が奏でられる。
「ダンスの時間だな……。じゃあ、俺はこのへんで」
「帽子屋、踊る相手いるの?」
「失礼だな。これでもモテるんだよ」
そう言って、彼は人混みにまぎれていった。
――確かに美形だもんね。女には困らなそう。
彼に誘われて断る人がいるなら、ぜひ見てみたい。
「じゃあアリス。俺たちも踊ろうか」
とんでもないことを言ってのけたチェシャ猫。
「な、なにバカ言ってんの!」
「嫌なの?」
「嫌とかじゃなくて、ダンスなんてろくにできないからわたし! せいぜい踊れてワルツぐらいだよ!?」
一般庶民のわたしがダンスなんてする機会ない。ワルツは学校の授業で習ったことあるけど、それさえも付け焼き刃。
絶対、こんなセレブのなか踊るのなんて無理だって。
「曲に合わせてステップ踏んでくれればいいよ。あとは俺がリードするから」
なかなか食い下がらないチェシャ猫。どうやら、踊らないという選択肢はないらしい。
「お相手願えますか、姫?」
「……足踏まれても知らないからね」
チェシャ猫が、口端をつり上げる。わたしは彼に、手をさしのべた。