第30話:My Lord
†舞踏会編†スタート
公爵夫人とチェシャ猫を中心に、5話くらい続きます。
郊外の小さな白樺林。好奇心から入れば、人影を見つけた。
――こんな所に…いったい誰?
近付いてみると、そのシルエットから反射的に顔をしかめたのが、自分でも分かった。
そこにいたのはチェシャ猫だったからである。
「あの変態猫、なにしてるんだ?」
ちょっと気になったけど、相手に気付かれたら面倒くさそう。
わたしは早々に立ち去ろうとした。──が、
「チェシャ猫」
凛とした声。わたしは足を止め、振り返った。
見れば、チェシャ猫ともう一人、違う誰かがいる。
物音をたてないよう距離を縮め、目を凝らした。
チェシャ猫の隣にいる、女の人。
ペールグリーンのドレスを着ていて、艶のある紺碧の髪を高い位置でまとめている。
年齢は20代半ばくらいだろうか。遠目にも分かる、気品のある雰囲気。きらびやかな装飾がより一層引き立てていた。
何故か片手にはロリポップが握られていたけど、それさえも繊細な飴細工で。
――何者?
なぜチェシャ猫と一緒にいるのだろうか。
興味心がうずいたわたしは、もう一歩近寄り、木に隠れた。
「こんな所にいたのね、探したわ」
耳をすませば、二人の話し声が聞こえる。
「貴女が俺を探した? 珍しい」
「ふふ、珍しいだなんて。だって貴方縛られるの嫌いでしょう? だからこうして自由にさせてるのよ」
「それ、ただの放任主義じゃない? まぁ確かに拘束されるのは嫌いだけど」
「でしょう?」
口角をきゅっとあげて微笑む彼女は、女のわたしでもドキッとするもので。
妖艶って、こういう人のことを言うんだ。
なんだかやけに大人な会話をしてるようで、ますます気になる。
いったいどんな関係なわけ?
「舞踏会を屋敷で開くの。チェシャ猫も出るのよ? ああでも、その髪はタキシードに似合わないわね。落ち着いた色に染めてちょうだい」
「マジですか」
「当たり前よ。私はそのピンクも斬新で好きだけど、招かれた方々は快く思わないでしょう?」
そう言い、彼女は手に持っていた飴に口付ける。ひとつひとつの仕草が優雅で、ついみとれてしまった。
――髪を染めろとか言ってたけど、チェシャ猫がそう簡単に言う通りにするかな?
だけどそんな考えは、アッサリと否定される。
「…仕方ない。違うヤツだったら土下座されても断るけど、他でもない貴女のご命令。聞かないわけにいきません」
承諾するチェシャ猫。それだけでもビックリなのに、彼はもっと衝撃的なことをしてみせた。
――え………。
チェシャ猫は跪いて、恭しく彼女の手をとったかと思えば、なんと手の甲にキスしたのである。
「…うそ…」
無意識にこぼれた小さな自分の声。
手の甲へのキスは、忠誠・服従・信奉の証。
二人は当然のような顔をしてる。日の光が差すなかのその光景は、まるで一枚の絵画のようだった。
あのサディストがこんな真似するなんて……信じられない。立場が逆じゃない? それとも、今はマゾなの?
そう考えれば、納得がいくようないかないような……。
「ふふ、じゃあよろしくね」
貴婦人はそう言って、踵を返した。
チェシャ猫は立ち上がり、少し伸びた桃色の髪を指先で弄ぶ。
完全に出るタイミングを失ったわたしは、何も見なかったことにして帰ろうとした。
なんだか、やけに心の奥がイライラしている。
――なんだ、あの猫。誰にでもああいうこと言ってるんじゃん。
思い上がっていたかもしれない。好かれていると、わたしは彼にとって特別だと。
――別に、いいけどさ。アイツの人間関係なんて。あんな変態に好かれても、嬉しくないし。
イライラしてることに対して、イライラする。
さっさと帰って怒りを静めようと背を向けたとき
「盗み聞きはあまり関心しないね、アリス?」
呼び止められた。
「……気付いてたの」
「貴女の気配なら、直ぐに察知できるよ」
そう笑うチェシャ猫が腹立たしい。
いつもならキモイと一蹴りするけど、あんな光景を見たせいか、わたしはただ強く睨んだ。
「…何を怒ってるの?」
「怒ってない」
「怒ってるでしょ」
腕を掴まれた。思いのほかその力が強くて、痛みに眉をひそめる。
わたしは観念して、大きなため息を吐いてみせた。それをどう受けとったのか、力が緩められる。
その隙に振り払い尋ねた。
「さっきの美人、誰?」
「ああ、あの人? …なにアリス、気になるの?」
くす、と笑うチェシャ猫にカッとなる。その頬をひっぱたいてやりたい。
「あ、あんな光景見せられたら、誰だって気になるでしょ!?」
「キスのこと?」
「、そうよ! あんたみたいなドSが跪くなんてよっぽどじゃない!」
「確かに跪くより跪かれる方が俺は好きだよ」
だけど、とチェシャ猫は遮る。
「あの人は俺の、ご主人様だから」
一瞬、思考回路がショートした。
「……………は?」
ついマヌケな声が漏れる。彼は面白そうに口許をつり上げ、もう一度言った。
「だから、ご主人様。俺、猫だよ? 飼い主くらいいるって」
「ご、ご主…飼い……?」
「飼い主と言っても名ばかりだけど。ほとんど家に帰らない日も続くし」
えっと……話を要約すると、さっきの美人はこいつの飼い主で。あのキスも主従関係のもとあったもので。
「……マジで?」
「マジで。金持ちのペットなんだよ、俺。あの人、公爵夫人だし」
公爵って、もしかして女王様の次に偉い人? す、すご……。
「だからあのキスも、やましいことなんて何ひとつない。ペットが主を敬うのは当たり前でしょ?」
人型なくせしてペットとかご主人様って、なんかいやらしい気がするのはわたしだけ?
いや、だってなんか変な意味で聞こえない?
「それにアリス」
「なに…、───ッ!」
いつのまにか、至近距離にチェシャ猫の顔が迫っていた。押し退けようにも、しっかり腰を掴まれていて抵抗できない。
真珠の肌に、細められた金色の瞳。
もう一方の手を頭にまわされた。
「本当に好きな人相手だったら、もっとイイ場所にキスするよ」
「ちょ、冗談きつい…」
「冗談じゃない」
「うわー、近い近い近い!」
どんどん顔が迫ってくる。比例するかのように心臓が騒ぎだして。
「……ッ近いって言ってんだろうがぁぁぁぁ!!!」
思いきりビンタを喰らわせ、わたしは一目散に白樺林を飛び出した。
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Lord…主、領主、神