第22話:悪夢と言わないで
目が覚めたら、そこには見慣れた景色が広がっていた。
穏やかな日溜まり。
背には大きな木。
下には柔らかな芝生。
そして隣には、
「……お姉ちゃん」
小さく漏らすと、彼女は持っていた本から視線をはずし、わたしを見て微笑んだ。
久しぶりすぎる光景。それにわたしは、戸惑いを隠せなかった。
ゆっくりと辺りを見渡すと、そこはわたしの家の庭。間違えるはずない。何度もここで色々なことをしたのだから。
「どうして」
無意識にこぼれた。
どうして。どうして。どうして。
わたしは白うさぎくんを追い掛けて。秘密の国へ行って。そしてお城に滞在していた。
なのに、どうして。
「どうしたの? アリス」
余程おかしな顔をしてたのか、お姉ちゃんは首を傾げる。
「わたし、なんで此処にいるの?」
「変なことを言うのね。此処はあなたの家でしょう」
「そうじゃなくて……。だってわたし、秘密の国に」
「秘密の国?」
お姉ちゃんがクスッと笑った。その綺麗な笑顔を見るのだって、懐かしいと感じてしまうほど長い時間離れていたはずなのに。
どうして何事もなかったのように、わたしは此処にいるの?
「寝惚けてるんだわ、アリス。夢を見てたのね」
わたしの頭を優しく撫でながら、そう言う彼女。
違う。寝惚けてなんかない。夢なんかじゃない。だけど反論の言葉が出てこないのは何故?
「本を読んでいたから、そんな夢をみたのかしら」
「え?」
お姉ちゃんが指差した先、わたしの膝の上には、一冊の本があった。少し大きめで、茶色のカバーがついたレトロなデザイン。
『Alice In Secretland』
というタイトルがついている。
今更気付くなんて、我ながら鈍いなわたし……。
わたしはそれを手にとり、パラパラとページをめくった。
白というより、くすんだベージュの色したページ。文字の羅列がひたすら横に並んでいて、時折挿絵が入っている。
「まさか本当に……」
夢、だったの?
今までのがすべて?
……そんなのって、そんなのって────
「よっしゃぁぁぁぁぁ!!」
わたしは本を握りしめ叫んだ。お姉ちゃんが笑いながら、品がないと咎める。相変わらずおっとりとした口調で。
夢だったんだよね? 良かったじゃん! わたしはすごい帰りたいと思っていたし、これで異端者ともおさらばできた!
さよなら非日常! ただいま平和な日々!
わたしは舞うような思いを抑えることが出来ず、その場でくるくると踊る。もはやキャラぶち壊しだ。
「うふふ。落ち着きなさいアリス。はしたないわ」
まったく動揺しない姉。アンタは一生ツッコミ役とは無縁だね。
上機嫌のわたしはめずらしく彼女の言葉を素直に聞き入れ、木陰に座りなおす。
嬉しい。それにすごく穏やかな気持ちだ。
わたしは本を開いた。どうせなら全部読んでみよう。
目次をとばして、本文にはいる。そこに描かれた物語は、わたしが夢のなかで経験したものとまるっきり同じだった。
白うさぎを追い掛けた少女。池に落ちた彼女は騎士に出会って、女王様と話す。そこで仲良くなるたくさんの変わり者たち。賑やかなお茶会。似ていない双子。どうしようもない変態猫。
不意に視界がぼやける。本に丸い染みができた。その斑点は少しずつ増えていく。
ただ今、天気良好。雨どころか、雲ひとつない。それなら、何故?
「アリス…、泣いているの?」
――え……。
泣いてる? わたしが?
そんなまさか。
だけど気付く。頬を伝う雫に。これは涙?
嘘だ。だってわたしが泣く理由なんてないじゃん。涙を流す必要なんてない。
そう、ないはずなのに。
どうして次から次へと溢れてくるの?
「……夢から覚めたことが、そんなに悲しい?」
顔をあげると、少しだけ憂いのある表情をしたお姉ちゃんが口を開く。
「向こうの世界が恋しいの? 戻ってきたくなかった?」
「ちが……!」
「覚めた喜びより、醒めた悲しみのほうが大きいのね?」
わたしは必死に首を振る。
違う。違う。違う。悲しくなんかない。そんなに依存した覚えなんてないから。
「あなたは、向こうに永住したかったの?」
「違う!」
叫ぶと同時に、パリン、と何かが割れる音がした。その途端、豊かな色彩は消え。
辺りは真っ暗になった。
「アリス!」
誰かの声がする。聞き覚えのあるこの声は……。
わたしはゆっくりと瞼をあげた。一番に瞳に映ったのは、チェシャ猫だった。
――わたし、なんで。
上体を起こし、周りを見渡せばそこはいつもの豪華な部屋で。間違いなく、秘密の国だった。