第107話:successor
心身ともに安らぐ音楽。仄かに漂う甘い香り。口当たり爽やかな洋菓子。そして、目の前で微笑む上品でいて艶のある美人。
わたしは今、公爵夫人の屋敷に招かれてお茶をしている。
「ふふ、そんなことがあったの」
昨日のことを話すと、彼女は目を細めて楽しそうに笑った。
「でもフィシュさんの気持ちも分からないこともないわ。帽子屋男爵は長男ですから、家柄としてはやはり早めに後継ぎが欲しいのでしょうね」
「なるほど、やっぱり貴族って大変なんですね……」
昨日のフィシュさんの必死な態度を思い出し、少し複雑な気分になる。そうだよね、長男は独身で次男が既婚者とかになったらちょっと体裁悪いよね。
……帽子屋は全然気にしなさそうだけど。
お見合いをかなり嫌がってたから、しばらくは結婚しなそうだ。っていうか、あの極度の甘党をなんとかしないとできなそうだ。
「そういえば、公爵夫人はイーディスさんって知ってますか?」
彼の前の婚約者の名前を出すと、彼女は紅茶を一口飲み頷く。
「とても綺麗な人よ。しっかりしていてだけど謙虚で淑女の鏡だわ」
「完璧なのに、帽子屋もったいないことするなあ」
「……まあ、誰にでも譲れないものはあるもの。むしろ結婚する前に分かって良かったんじゃないかしら」
確かに。結婚して食生活が合わないからはい離婚、は嫌すぎる。それを考えると、恋愛に大切なのは相性なのだろうか。
私はチラリと上目に公爵夫人を見る。公爵夫人って確か24、25歳くらいだよね。結婚しないのかな。
あれ、でも公爵夫人ってことは公爵がいて公爵と結婚したから公爵夫人になったわけでつまり公爵夫人は……んん? なんか分かんなくなってきたぞ。
考えに耽っていたせいか、手がとまったわたしを見て、彼女は心配そうな顔をする。
「ケーキ、美味しくない?」
「あ、いえそんな! かなり美味しいです!」
よかった、とふわりと笑う公爵夫人。ああ、なんて美人……!
あまりの麗しさに、わたしは聞かずにはいられなかった。
「公爵夫人は、結婚しないんですか?」
「しないわ」
わぁ、一刀両断された……。笑顔できっぱりと即答した公爵夫人はだって、と続ける。
「私、結婚なんてもうこりごりよ」
――んん? こりごりってことは、……え?
結婚してる、いや言い方からして結婚したことがあると捉えていいのだろうか。
複雑な心境になっていると、彼女はため息をひとつ吐き出す。
「でも私、子供は欲しいのよねぇ」
「……子供、ですか」
「ええ。恋愛はしたくないんだけど、子供は欲しいの」
困ったように笑いながら言う彼女に、紅茶を注いでくれていた執事、フロッグさんもため息をついた。小さく、無茶苦茶です、と呟いて。
確かに無茶苦茶だ。でも恋愛したくないって、本当にこの人は何があったんだろう。
「娘とおそろいの服とか憧れてるのよね。それに私が死んだら、財産とか屋敷とか困るもの」
「身内は他にいないんですか?」
「あまり仲良くないのよ」
その答えにわたしは一瞬固まった。美人で社交的でちょっとお茶目な公爵夫人が、家族とあまり仲良くないだなんて意外だ。
しかもサラリと答えるから余計に戸惑ってしまう。
「国にあげてもいいんだけど……あ、フロッグにあげようかしら」
そんなわたしに気付いているのかいないのか、隣に立つ執事にいる?と、尋ねる公爵夫人。
フロッグさんは一瞬目を見張り、咳払いをひとつした。
「私のような者が頂くわけにはいきません。そもそも、私の方が貴女より年上なのですから先に逝くのは私という可能性が高いです」
相変わらずのかしこまった口調で淡々と言う彼に、公爵夫人は小さく笑って残念、とこぼす。
彼女の言動は冗談なのか本気なのかわかりにくい。
そんなことを思いながら2人を見ていると、不意に公爵夫人と目があった。彼女は黒にも青にも見える瞳を細め、くすりと笑う。
ドクンッ。
瞬間、胸を強く叩かれたような衝撃を受けた。妖艶な、微笑。似てると思った。彼に。
ペットは飼い主に似る、なのか、飼い主がペットに似た、なのか。
――いやいや、公爵夫人とアイツは似てないでしょうが。
だって優しく綺麗で親切な彼女と、人の泣きそうな顔見て笑ってる奴とが似ているなんて、失礼な話だ。
でも、とわたしは公爵夫人を上目に見る。なんだろう、雰囲気かな。艶っぽいというか、色気があるというか……って、なに言ってるんだわたし。
わたしはそんな考えを打ち消すように、かぶりを振った。そのとき
「色気があるなんて、嬉しいこと言ってくれるなぁ」
甘ったるい声と共に後ろから抱きつかれた。
「ヒギャアァァァ!! ってうわわっ、痛ァ!」
「おっと」
驚きのあまり、わたしは椅子から転げ落ちた。っていうか、おっとじゃねーよ避けやがって! 普通助けるでしょうが!
「あらあら、大丈夫お嬢さん? 駄目じゃないチェシャ猫、驚かせちゃ」
「いや〜、まさかここまで面白いリアクションしてくれるとは思わなくて」
死ね!と叫ぼうとしたが、一応飼い主である公爵夫人の前なので我慢した。
でもさ、殺意がわくのは仕方ないよね。わたしいつかコイツを手にかけてしまいそうだ。犯罪者にはなりたくないなあ……。
そんなことを考えてたら、チェシャ猫に手を取られ立たされた。だったら転ぶときに支えてくればいいのに。
「床に這いつくばう貴女が見たかったんだよ」
「だから人の心を読むなー! っていうか、本当に最低だなお前!」
わたしの腕を掴んでいた手を思い切り振り払ってやった。
それにチェシャ猫はニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべ、公爵夫人がくすくすと笑う。
「あまり失礼なこと言っちゃ駄目よチェシャ猫」
――いや、貴女さっき笑ってたよね。
そう思うが、ここは黙っておく。チェシャ猫は公爵夫人の指摘にハイハイ、とまったく反省してない声で返事した。
なんだかんだで公爵夫人の言うことには素直だよね。別にいいけど。
「そういえば公爵夫人、子供ほしいの?」
「あら、聞いてたの」
チェシャ猫が公爵夫人の耳の横に垂れた髪を一束すくい、そんなことを尋ねる。一体いつからここにいたんだコイツは。
気配がないってこわい、なんてことを考えながらわたしは椅子に座り直した。
そしてさりげなく視線を彼等に向けると、ちょうどチェシャ猫は彼女の髪をいじりながら、ニヤリと笑った。
「そんなに子供欲しいなら、俺が手伝ってあげようか?」
わたしは再び椅子から落ちそうになった。いや、さすがに耐えたけど。
それと同時に、冷たい空気がこの広い部屋にサアッと流れるのを感じた。この鳥肌がたつほどの冷気を発しているのは――
「……チェシャ猫」
「ん?」
「しばらく家に帰ってこなくていいわよ」
そう言った公爵夫人の微笑みを、わたしは一生忘れない。いや、正しく言えば一生忘れられない、だろう。
その後フロッグさんがチェシャ猫を追い出したのは、当然といえば当然なのかもしれない。
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successor…後継者