第105話:終偽曲
どのくらい時間が経ったのだろう。永遠にも刹那にも感じた。
顔をあげれば、見慣れた部屋が瞳に映る。毛足の長い絨毯、白地に金色で装飾されたクローゼット、それらを映す大きな鏡台。
そこに、彼はいない。
私は口唇を噛みしめた。言葉に出来ない感情で胸がいっぱいになる。
唾が口内にたまり、鳩尾が震える。ひどく気持ち悪くなり、わたしは腹部を押さえて小さく呻いた。油断すると、吐き気もしてきそうだ。
視界がぼやけ始めた、その時
「アーリス!」
全くもって空気の読めない声とともに、背後から抱きしめられた。その行為に、自分でもわかるくらい体が大きくはねた。
相手が誰であるかなんて、頭では理解している。それでも、わたしは恐る恐る振り返った。
「えーと……、そんな幽霊でも見たかのような顔されると傷付くんだけど」
苦笑いしながら、わたしの首へとまわしていた腕をゆっくりとはずす彼。
「……チェシャ猫」
こぼれた声は、まるで蚊の鳴くような声だ。それでも彼の耳には届いたらしく、チェシャ猫は怪訝な表情をする。
どうしていつも、会いたくない時に限って、現れるの。……いや、会いたい時なんてないけど。
でも今は、特別会いたくなかった。こんな泣きそうな顔を、見られたくなかった。
「……何しに来たの」
語尾が上がらない。いつもより声が低くなる。
――早く消えて。
そう願った。祈りに近いかもしれない。
――だって、これ以上一緒にいたらわたしはきっと八つ当たりしちゃう。
お願いだから、そんな格好悪い真似だけはさせないでよ。
それでも、わたしの思い通りになんてならない。いつだって現実は残酷だ。相手が悪いというのも、もちろんあるのだろうけど。
彼は固かった表情を壊し、くすりと笑った。なぜ笑われたのかが理解できない。ただ、不愉快だった。
そんなわたしの心情を読み取ったのか、チェシャ猫は笑みを張り付けたまま言う。
「ご機嫌斜め? いや、どっちかって言うと泣きそうな顔だけどね」
「……ッ」
「あは、そんなに睨まないで。そういう反抗的な目されると、余計いじめたくなっちゃうじゃない」
そんな軽口を叩きながら、彼はわたしの隣に座り顔を寄せてくる。コロンでもつけてるのか、甘い香りが仄かにした。
「ね、なにがあったの? なんで泣きそう顔してるわけ?」
嬉々として尋ねてくるチェシャ猫。
……こいつにデリカシーというものはないのだろうか。さっきまで落ち込んでいたけど、今は怒りの方がそれに勝りそうだぞ。
「アリス、変な表情してないで答えてよ」
悪かったな変で! っていうか本当にムカつくんだけど!
わたしは怒鳴りたい衝動を抑え、チェシャ猫の顔を押し返す。
「別にアンタには関係ないでしょ」
冷静を装ったつもりが、苛々が声に表れていた。
その言葉に、チェシャ猫はわたしの腕を掴んで先程よりも更に顔を近づけてくる。鼻先が触れ合うほどの至近距離に、わたしは目を見張った。
金色の瞳。細い瞳孔は、獲物を前にした肉食獣のようだ。背筋に悪寒が走る。
「泣けばいいのに、何をそんなに我慢してるの?」
視線とは裏腹に、憂いを帯びた声色にひどく戸惑った。そして、怒りを感じた。
――無責任なこと言わないで。
気付けば無意識に彼の胸板を強く押していた。
「そうだよ、今にも泣きそうだよ! でも、このくらいで泣いてちゃ駄目じゃん! この理由で、泣いちゃ駄目じゃない!」
言葉とは裏腹に、わたしの声は涙ぐんでいた。それでも、止まらない。
「わたしは、白うさぎくんも女王さまも大好きだよ。でも、大好きだからこそ、わかってほしいって思うの」
たとえそれが、彼の幸せを壊すことになるとしても。
もしかしたら、もう笑いかけてくれないかもしれない。追い出されるかもしれない。
それでも、彼は優しいから、わたしが止めてとすがりついて泣き喚けば、きっと止めてくれる。そしてわたしはきっと、そんな彼の優しさに甘えて……いや、つけ込んでしまうのだろう。
それを自覚してる自分に、ひどく絶望した。
チェシャ猫は、何も言わない。ただ何もかも見透かしているような瞳で、わたしを見てくるだけ。
居心地の悪さに耐えかねて、わたしは再び口を開いた。
「……笑ってよ。綺麗事だって言ってよ」
励ましや、慰めなんていらない。同情なんかもっとごめんだ。
「冷たくして、突き放して、嘲笑って……!」
「止めてよアリス」
チェシャ猫の抑揚のない声に肩が揺れた。
「興醒めする」
予想してた言葉とは違い、そして予想以上に冷たい響きに息を呑んだ。
手がカタカタと震え、呼吸さえも忘れる。胸を鈍器で叩かれたような衝撃だ。
優しいとか酷いとか、そんな問題じゃない。幻滅したような声、無関心の瞳。
期待してた言葉は、なに?
「……ばかだなぁ、貴女は」
途端、空気が和らいだ。彼の腕がわたしの頭に伸び、そのまま抱き寄せられる。わたしの髪が揺れ、チェシャ猫が息を吐いたのが分かった。
状況が、理解できない。なぜわたしは今、彼に抱きしめられているのだろう。
停止した思考回路を、必死に起動させる。それでも浮かぶのは疑問だけ。
そんなわたしをよそに、チェシャ猫は呆れたような、それでいて笑ったような声色で言う。
「ほら、泣きたいだけ泣いて、大丈夫、アリスは俺の言葉のせいで泣くんだから」
なにが大丈夫だというのだろう。全然、大丈夫なんてことはない。
でも、彼の胸はあたたかくて、緩んでいた涙腺がどんどん壊れていく。
「アリスはさー、周りをもっと利用しなって。ひとりで悩むなんて損だよ。なにがあったか知らないけど、その理由で泣けないなら他に理由つけて泣けばいいんだから」
「……チェシャ猫は、利用されていいの? 普通嫌じゃん……」
「んー、まぁ利用って言うと聞こえ悪いけど、それくらいの価値はあるってことじゃん。それは喜ばしいことじゃない?」
違う?と言って笑う彼。ずるい、こんなのずるいよ。
「……ッバカ」
震えた声で言い、わたしはチェシャ猫の服を強く握った。
きっと、後で死にそうなくらい恥ずかしくなる。そんなことは予想できたけど、涙は止まらなくて。
彼の胸に顔をうずめて、わたしは静かに泣いた。
「……ちょっと、どこに手つっこんでんの」
「え、いやほら、ムード的に」
「……」
前言撤回。わたしの涙は、みるみるうちに引っ込んだ。
とりあえず城事情編はここで終わりで、次回からはまた日常編に戻ります!