廃転移門 feat.羅生門
転移門は、壊れていた。
男はその前に立って、ぼんやりそれを見上げていた。石造りの巨大な門だ。かつては魔法陣が刻まれていたらしい柱の溝に、今は雑草が根を張っている。アーチの要石は崩れ、上半分が失われていた。それでも門の形だけは残っていた。どこにも繋がらない、ただの石の枠が、廃都の夕暮れの中に立っていた。
男はふと、右の掌を見下ろした。何かを確かめるような動作だった。しかし掌には何もなかった。いつもそうだった。
男がこの世界に来たのは、三年前だ。
転移門といえば、本来は何かの始まりを意味するはずだった。元の世界で男が読んでいた話では、そうだった。異世界に召喚された者には力が与えられ、役割が与えられ、物語が与えられた。転移門はその入口だった。
男の場合、気づいたときには廃都の外れに一人で倒れていた。
後から知ったことだが、王国はその頃、戦力として異世界人を召喚していた。魔王軍が辺境に侵攻を始めて二年、人間諸国の連合軍は押され続けていた。王国の魔術師たちは転移門を使い、別の世界から兵を補充しようとした。召喚された者たちは転移の瞬間に持っていたものごとこの世界に来た。服を着たまま、荷物を抱えたまま。
男は召喚されたのではなかった。
転移門が酷使で限界を超えていた時期に、何らかの理由で誤作動した。その余波が別の世界まで届いて、男を弾き出した。意図された転移ではなく、制御を失った門が偶然引き起こした漂着だった。だから男には何もなかった。召喚された者たちが手にしていたような、元の世界の持ち物が何一つなかった。
それでも男は最初の半年、待っていた。
力が与えられると思って、待っていた。物語が始まると思って、待っていた。何も来なかった。
その後、魔王軍との戦争が本格化した。ギルドが王国と契約を結び、加盟する冒険者を戦場へ送り込んでいた。金と食事と引き換えに、断れない仕組みだった。男も送られた。三年前から一年前まで、前線と補給路を行き来した。魔王が討伐されたのは二年前だ。
王国は戦争に勝った。
しかし王国の財政は既に崩壊していた。ギルドへの資金供給が止まり、ギルドは組織を解散した。男の登録は自動的に失効した。誰も何も言わなかった。書類が一枚届いて、それで終わりだった。
雨が降り始めた。
男には行くべき場所がない。四日前から、そうだった。いや、正確には三年前からずっと、そうだった。
塔へ続く石段が目についた。上なら雨をしのげる。上にいるとしても、どうせ死体ばかりだろうと思った。
塔の内部は暗かった。
壁際に松明の燃えかけを見つけ、火をつけた。光が広がった。
死体があった。予想より多かった。鎧をつけたものとそうでないものが、無造作に重なっている。腐乱した臭気が充満していたが、男は戦場でそれより酷いものを嗅いできた。一体ずつ踏み越えながら、横になれる場所を探した。
足が止まった。
死体の一つが、手に何かを握っていた。薄く、長方形で、角が丸い。画面は割れていた。
男はしゃがんで、それを手に取った。
スマートフォンだった。
電源は入らなかった。当然だ。しかし男はしばらく、それを持ったまま動けなかった。召喚された者は、転移の瞬間に持っていたものを携えてくる。つまりこの死体は、この手にこれを持ったまま、この世界に来た。
男は無意識に、右の掌を見た。
何もなかった。三年前も、今も、変わらず空のままだった。死体の手とを見比べるつもりはなかった。ただ、見た。
周囲を見渡した。
別の死体の傍らに何かが落ちていた。拾い上げると、学生証だった。日本語で名前が書いてあった。写真の顔は、十代に見えた。
さらに別の死体。懐から財布が半分はみ出していた。中を開けると、コンビニのポイントカードが入っていた。
男は松明を持って、一体ずつ確認していった。
多かった。
死体の中に、転生者がいた。この世界の人間ではない者たちが、ここに積み重なっていた。鎧をつけていた者もいた。王国に召喚され、戦場に送られ、ここへ来た者たちだ。男と同じように使われ、男と同じように捨てられた。ただ男と違うのは、彼らは意図して召喚された者たちだったということだ。勘定に入れられた上で、消耗した。
男は最初から、勘定にも入っていなかった。
最後の一体の前で、男は立ち止まった。
比較的新しかった。男と同じくらいの年齢に見えた。手帳を握っていた。
開くと、日本語でびっしりと書いてあった。最初の一行だけ読んで、男は閉じた。
「転生したのに何もなかった。ずっと待ってたのに、何も来なかった」
松明の火が、小さく揺れた。
転移門が約束の場所だという話と、この死体たちの話は、どちらも本当のことなのかもしれなかった。あるいはどちらも嘘なのかもしれなかった。男にはわからなかった。三年前もわからなかったし、今もわからなかった。ただ、自分がこの死体たちと同じ側にいることだけは、はっきりしていた。
いや、同じ側ですらなかった。
彼らは少なくとも、召喚された。この世界が必要として、引き寄せた。男は誰にも必要とされず、ただ落ちてきた。
男は長い間、その場に立っていた。右の掌を、また見ていた。
「随分、念入りに見とるのう」
声がして、男は振り返った。
死体の山の向こうに人間がいた。くすんだ茶色のローブを着た、痩せた老婆だった。いつからそこにいたのか、男は気づかなかった。傍らには小さな袋があり、中に装備や武具が詰め込まれていた。
男は短剣の柄に手をかけた。老婆は動じなかった。
「死体泥棒か」
「そっちこそ」と老婆は言った。「若い者が夜中に死体を漁っとる。何を探しとった」
男は答えなかった。老婆は男の手元を見た。男がまだスマートフォンを持っていることに、気づいたらしかった。
「また余所の世界の者か」
老婆の声に、驚きがなかった。
「知っているのか」と男は言った。
「何度も見た」老婆は言った。「そういう板を持った死体を、ここで何体も見た。読めない文字の書かれた紙を持った者もいた。見慣れない布の服を着た者もいた。みんな同じような顔をして死んどった。お前と同じ世界の者たちだろ」
「なぜここに」
「さあ」老婆は首を傾けた。「最近は多い。魔王討伐の前後から、ぽつぽつ来る。若いのが多い。来てみたら何もない。言葉も通じない。力もない。そのうちギルドが拾って、戦場へ連れていく。運がよければ生き残る。運が悪ければ、ここへ来る」
老婆はそう言って、傍らの袋を軽く叩いた。
「その死人どもの装備を売るのか」
「売る」老婆は素直に認めた。「武具屋に持っていけば金になる」
「死体泥棒だ」
「そうよ」老婆は言った。
男は老婆の顔を見た。悪びれた様子が、どこにもなかった。その平然さが、男の中で何かに火をつけた。戦場で死んでいった者たちの顔が浮かんだ。補給が尽きて飢えながら死んだ者、名前も知られずに土に埋められた者。その死体から装備を剥いで金にする——それが許せなかった。
「恥ずかしくないのか」
老婆は少し間を置いた。それから、静かに続けた。
「この死人どもを、よく見たか」
男は答えなかった。
「英雄様のご一行よ」老婆は言った。「最後の決戦とやらで英雄の隣に立っとっただけで、王国から村ひとつ分の恩賞をもらった連中よ。実際に戦っとった者が、今ごろ飢えとる。お前と同じ余所の世界の者たちも、戦って、死んで、何も払ってもらえんかった。わしはただ、この死人どもが余分に受け取っとった分を、回収しとるだけじゃ。世界がまだ払っとらん借りを、な」
男は、その話を聞きながら、左手で短剣の柄を握り、右の掌を見ていた。
老婆の言葉が正しいとは思わなかった。しかし、間違いだとも言い切れなかった。英雄の隣に立っていただけの者が恩賞を受け取り、実際に戦った者が何も得られなかった——それは男も見ていた。そしてこの塔に積み重なった転生者の死体たちも、同じ構造の中で死んでいた。
男は手帳の一行を思い出した。
「転生したのに何もなかった。ずっと待ってたのに、何も来なかった」
待っていた者が、ここで死んでいた。
男も待っていた。三年間、何かが来ると思って待っていた。力が、役割が、物語が。来なかった。それでも男は死体から物を盗らなかった。その一線を守ることで、まだ待っている自分でいられた。英雄譚の主人公がどこかに存在するなら、自分はその手前にいる誰かだと思っていられた。
しかし今、この塔の中で、男はわかった。
手前などなかった。英雄譚の外側で待っている者のための物語は、どこにも存在しなかった。転生者の死体たちがその答えだった。召喚された者も、漂着した者も、等しくここへ来た。
男が守ってきた線は、倫理ではなかった。
自分がまだ別の物語の中にいると信じるための、最後の根拠だった。
老婆はまだ男を見ていた。返答を待っているのではなく、ただ見ていた。肉食鳥のような眼だった。
「きっと、そうか」
男は低く言った。自分に確認するような声だった。
右の掌から、視線が離れた。
男は一歩前へ出た。老婆の胸元を見た。魔石のペンダントが揺れていた。磨かれた石が松明の光を受けて、淡く青く光っていた。老婆が持っている中で、一番金目のものだと一目でわかった。
「では俺が奪っても、恨むなよ」
老婆は何も言わなかった。
「俺もそうしなければ、野垂れ死ぬ身だ」
鎖を引きちぎった。老婆がよろめいた。男は老婆を押しのけて、石段へ向かった。
男は廃転移門をくぐった。
雨はまだ降っていた。
どこへも繋がらないその門を背にして、男は歩いた。転移門が約束の入口だったのか、消耗の出口だったのか、あるいは最初から何でもなかったのか——その答えは、門の向こうにもなかった。
どこにもなかった。
右の掌の中に、魔石があった。かすかに光っていた。
男の行く先に何があるか、この世界のどの物語も、届かなかった。




