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君に捧げる愛

作者: ふわ
掲載日:2026/04/20

 この物語の結末は最初から決まっていた。

 それでも私は彼を愛してしまった。

 それさえなければ、楽だったはずなのに。










「飲み物持ってきて」


 ベッドに横になり、点滴や心電図をとるためのチューブがあらゆるとこに繋がっている。腕をうごかすと数本のチューブが生々しく揺れる。


 冷蔵庫から麦茶を一本取り出し、手の温度で結露するそれを嶺緒(れお)さんの手に預ける。


「ん。ありがと。」


 私は16の頃から、嶺緒さんの「専属世話係」としてお父様に雇われた。


第一章 嶺緒との出会い



 私は小さい頃両親を電車の脱線だったかで亡くした。私は保育園に預かられていたのでその時、私は両親とはいなかった。


 今でも覚えている。

 両親のお葬式にはたくさんの親戚が来てなにやらこそこそと冷たい視線を浴びせられたこと。「うちはお金ないから」だとか「そんな時間ない」だとか。小さいながら、あの記憶は無くせない。

 結局私は養護施設に入れられて小学、中学と進学して、15歳、卒業の頃。


 そんな私に一通の手紙が届いた。


 内容は衣食住の免除、毎月7万の手取りでの仕事の案内だった。


 あきらかに高収入すぎる。わかってはいたが、遅かれ早かれ高校卒業でこの施設を出なければならない。でも、出た後の私に衣食住ができるようなそんなお金もあてもない。


 施設はお風呂の時間は決まっているし、1人の時間なんてろくにない。スマホの利用制限なんて当たり前だし、食事も好きに食べられない。正直今すぐにも出たかった。だから、私はその手紙の話を聞くことにした。


 行った先の何やらすんごい屋敷に行き着いた。すごく大きくて高級感が漂う。あたりに他の住宅はなく静けさがやけに不気味だった。

 明らかに怪しいと言うのが正直な感想だった。そこで出会った40代くらいの男性に連れられ、一つの個室に入った。男性の声は低く落ち着いていて不安を煽った。


 そしてそこで出会ったのがその時小学5年生の嶺緒さんだった。


 出会った時の嶺緒さんは痩せていて、色白で血色も大してなく、無口で、言うならば、人間のレプリカ、というのが一番しっくりくるかもしれない。


 40代の男性、と言うのは嶺緒さんのお父様のこと。前提として嶺緒さんは心臓病で学校に通えていないと。お父様からそう説明された。説明は淡々としていて、そこから感情を読み取ることは難しかった。


 嶺緒さんは、さらさらの黒髪が目にかかっていて、白い肌に鼻筋が通っている、普通に歩いていたら振り返ってしまうだろう。嶺緒さんはそれくらい美しい見た目をしていた。


 私はそんな嶺緒さんの「世話係」として嶺緒さんの父親に雇われた。


 病室は質素なものじゃなく、テレビが備え付けられ、1人だけの個室。一括りにVIPといってもかなり高級感があった。それこそ嶺緒さんはその設備に目もくれていなかったが。


 まぁもちろん、単なる世話係な訳ではなかったし、「私」にその手紙が来たのも、もちろんそれなりの理由があってのことだった。

 でも、私は、この人と出会った時、嶺緒さんを一目見た時この人の笑顔を見てみたいと、少しでもこの人と仲良くなりたいと思ってしまった。


 その仕事を引き受けると決めてから、お父様とはしっかり契約を結んだ。

 それから二週間、健康診断や手続き、引越しを進め、月初から働くことになり、嶺緒さんに挨拶をしに行った。


 初めて仕事を引き受ける日。私は茶色のウッド調のドアを軽く3回叩き、横に移動させ、嶺緒さんの病室に足を踏み入れた。


「失礼します。嶺緒くんですか。」


そう問いかけて、返事はない。


沈黙が部屋に流れた。続く言葉を慌てて探すがうまく言葉が見つからない。

嶺緒くんはゆっくりと口をひらき、風みたいな声で、私に言った。


「だれ?」


 まだ声変わりのない高く幼い声は小さいはずなのに、私には殴られるように突きつけられたその問いが綺麗に腑に落ちた。


 言われてふと気づいた。私はまだ嶺緒さんに名乗ってすらいなかったと。少し姿勢を整え、口を開いた。


「すみません!申し遅れました。これから嶺緒くんの身の回りのことを勝手ながら、やらせていただけることになりました。暁月(あかつき)(みどり)です。」


 すこし嶺緒くんに向かって頭をさげた。

 しばらく沈黙が広い部屋に流れ、永遠のように感じた。嶺緒さんは口をゆっくりと動かした。


「あっそ。そういうの、いいから。大体あんたなに暇なの?学校は?」


 心配するのはそこなのかと少し驚いたが一つ一つの言葉が的確でグサグサと刺さる。


「学校は通っていません。通う必要のある年でもないので。最初の間は不快な思いをさせることがあると思うのですが、何卒よろしくお願いします。」


 嶺緒さんは、はぁ、とため息をついてから、布団を頭の上までかけた。

 人生ってほんと何があるかわからないとつくづく感じる。


これがまぁ、だいたい四年前の話。


 わたしは、世間一般的に大学一年生の年齢になって、嶺緒くんは高校一年生になった。嶺緒くんは未だ、病気と戦っている。発作はもうしばらく起きていないが、その分いつ起きてもおかしくない。


 嶺緒さんは150㎝ほどだった身長ももう180近くまで成長した。相変わらず色白の細身。髪は目にかかる、シースルマッシュ、と言うのが一番近いだろうか。相変わらず絡まりがなく、艶があった。


 外見で決定的に変わった、と言うのは身長くらいでこれと言ってないはずだが、荒れのない肌や、切れ長の黒い瞳に綺麗な形をした桜色の唇は誰が見ても美しいと感じるだろう。


 ある日の午後、もう慣れた仕事を淡々としていた。でも、今日はいつもと違った。


「翠。俺さ、外行きたい。」


 嶺緒さんの四年前の面影が微かに感じるような低く、透き通る綺麗な声が弱々しく病室に響いた。


 四年も一緒にいれば相手のことなんてある程度はわかるようになるし、伊達に仕事をしているわけでもないけれど、そんな言葉を言ったのは四年も一緒にいて初めてだった。「外に行きたい」なんて許させることじゃゃないと、きっとずっとそうやって心に蓋をしてきたのだろう。


「外?」


 嶺緒さんは一ヶ月に一回外に出れるか出れないかで、出れたとしても、いつも同じ健診への道を淡々と歩いていくだけだった。


「俺さ、翠と外行きてぇ。」


 そういう嶺緒さんとは目こそ合わなかったが、本気だってことだけは、ひしひしと伝わってきた。

 初めてだっただから。彼がそう言うのは。


「お父様とお医者様に許可をとってみますね。」


 そうじゃなくて、と声がしたが、なんでもないとベッドに潜った。



 いつからだっただろう。

 嶺緒さんが私に心を開いてくれるようになったのは。


 びびるくらい冷たくて無口だった彼が、私を頼ってくれるようになったのは。



 一緒にいたいと、そう思うようになってしまうだけなのに。


 私は嶺緒さんの世話係として雇われた。

 そして私は、嶺緒さんの緊急ドナーとして、お父様と契約を結んでいる。





第二章 きっかけ


「発作です!」


 私のその声が響くと共に、嶺緒さんの病室には医師と看護師が数名入ってきた。


「状態は?」


 看護師が点滴量を多くし、薬を足す。嶺緒さんの顔を伺いながら、凡人の私には理解の到底できない言葉を淡々と並べる。ただ一つわかることは、危ない状態だと言うこと。


「さっき食事を持ってきたとき、苦しそうで、」


 どうしても声に動揺を隠すことはできなかった。私は嶺緒さんと処置をする医師たちを見ることしかできなくて。そんな自分が今更ながら嫌になった。


 バイタルが異常を示す緊張を煽る音や、緊迫し声を張り上げる医師や看護師を目の当たりにすること、いやそれすらもできなかったかもしれない。怖くて。一番怖いのは本人で、本人は、その状態を見てみぬふりはできないのに。


「大丈夫ですかー?聞こえますかー?どこが苦しい?」


 医師はなれた手つきで嶺緒さんの肩をトントンと規則的に何度もたたきながら声かけを続ける。


「血圧回復しません!」

「処置室運ぶぞ。急げ。」


 担架に乗せられ運ばれる嶺緒さんを呆然と眺めることしかできなくて。ただただ、嶺緒さんの命があることを願うしかなかった。


「血圧回復してきました」

「了解。しばらく輸血しとけ。」


 私は嶺緒さんのいないベッドを呆然とみていた。数分後に立ち上がり、業務を再開した。私にできることは嶺緒さんの身の回りのことしかないのだから、少しでも、嶺緒さんの役に立てるように動くことしかできない。


 それは嶺緒さんの命を助けられるほど大きな仕事ではないし、誰でもできるのだから。私には特別なんてない。


 でも、結果的に私は嶺緒さんの特別になれるのかもしれない。それがどんな汚い形であっても。


 翌日の朝、嶺緒さんは何事もなかったかのような顔で病室に帰ってきた。きっと、そう見えるだけで、私が想像できないくらいずっとずっと苦しかったはずなのに。


「おはようございます。嶺緒さん。」


 これと言っていつもと変わらない朝の挨拶。毎朝、タオルと水を届けるために嶺緒さんにお会いする。聞きたいことは数えきれないほどある。正直一年半この仕事をしていても、嶺緒さんの何一つ掴めていない。でもそれを聞いても、嶺緒さんの傷をえぐることしかできないと思った。


「ねえ、あんたさ、人に興味ねぇの?」


 まともな会話を持ちかけられたのはこれが初めてだったと思う。その問いは私の耳を通って頭に留まることなく抜けていった。


「どうしてですか?」


 答えることもできず、質問に質問を返した。


 嶺緒さんはポケットに手を入れて私の顔をまっすぐ見ながら口を動かした。


「俺が何してようと何も聞いてこねえし、ぜってーなんか聞いてくると思ってたのにおはようございます、って。興味ねぇにもなさすぎだろ。」


 嶺緒さんが私について聞いてくるのは初日、だれ?と聞かれて以来初めてだった。人に興味ないのかと聞かれて私は「そんなことない、興味がある」そう言える自信は正直なかった。施設ではお互いになぜここにきたのか干渉しないのは暗黙の了解だったし、友達、と言ってもそんな信頼関係なんて所詮おままごとでしかなかった。


 私の入った施設は人間関係にうるさくて、男女が関わりを持つ場なんてほとんどないに等しかったし、お互いに踏み込んだ話がしないのがお決まりだったから。


 普通の人から見れば人への興味は薄い方だったのかもしれない。


「いや俺さ、あんたがくる前になんかいっつもくっついてくるメイド?みてぇなやつがいて。そんときはうぜぇくらいいろんな質問されて、発作起こした時なんか心配にも程があるくらい干渉されてさ。」


 嶺緒さんが過去のことを私に話すことは初めてで、こんな踏み込んだ話は初めて嶺緒さんと交わした。私は何と答えるのが一番嶺緒さんにとっていいのかわからなかった。でもわからないなりには言葉を選んで、嶺緒さんの問いに答えた。


「ない、わけではないです。ただ、ある、と胸を張って言える自信はありません。嶺緒さんの負担にならないように聞かなかったことはもちろんですが、それ以上に知ることは業務上必要なかったので。」


 事実を淡々と話した。私の過去は乗せない。必要のない情報だから。隠してるわけでもないけれど、嶺緒さんは聞いたところできっとそんな話耳に入って抜けていくだけだろう。


 部屋に沈黙が落ちてすぐに破られた。嶺緒さんが、へーといって私から視線を外したと思えば、言葉を続けた。


「つまんねぇ生き方してんだな。」


 言葉を切って、部屋には沈黙が落ちた。私にとって施設が今までの人生だったから、確かに人よりはつまんねぇかもななんて妙に納得して。ベッドに腰掛けた嶺緒さんはもう一度口を開いた。


「なぁ、名前なんだっけ。」


「暁月翠と申します。」


 嶺緒さんに向かって一年半ぶりに言う私の名前はどこか浮いていた。そんな呑気な思考は一気に白く塗りつぶされた。いや、塗られたというより、大量の絵の具が入ったバケツをひっくり返されて無理やり上書きするみたいに。


「翠、ね。じゃあさ、俺の話し相手になってよ。」


 一体どんな心境の変化か。私には理解が到底できない。あんた、と私を呼ぶのさえ珍しかった嶺緒さんが翠、と名前を呼んでいる。学校にまともに通うことのなかった嶺緒さんにとって名前を呼ぶと言うのは別に特別なことではないだけかもしれないが。




———多分、これがきっかけだったと思う。



 嶺緒さんは毎日ぼーっと飯食って健診して生きてる心地がしない、つまんねぇ人生だったと、私にそういった。だから、話し相手になれと。私が話すことなんてほとんどないんだけどさ。


「話し相手と言いましても、私は面白い話できませんよ。」


 嶺緒さんは少し考えてから口を開いた。


「別に期待してねぇよ。俺に向けられてればそれでいい。」


 その一言がなぜだか頭から離れなかった。


「翠のことについて、教えてよ。俺、何もしらねぇじゃん。」


 嶺緒さんが人に興味を持った歴史的瞬間といえば凄さが伝わるだろうか。それくらい、前の嶺緒さんからは考えられないような言葉だった。


「私も嶺緒さんのこと大して知りませんよ。」


 俺のことはいいの、とはぐらかして、淡々とした質疑応答が始まった。


「何歳?」


「もうすぐ17です。」


「誕生日は?」


「11月13日です。」


「一ヶ月後じゃん。えーと、家族構成」


「両親は亡くなって一人っ子」


「地元は?」


「地元っていうのかわかりませんが施設が栃木にあったので栃木です。」


「何でこんな仕事してんの?」


「お父様からのスカウト」


「なんで?」


「知らない」


「へー、俺翠のこと何もしらねぇんだな」


 質問をやめ、感嘆していた。まともに会話を交わさなかった私たちの間にお互いの知識もくそもないだろう。両親を亡くして施設暮らしだった、ということに反応せずに質問を続けるところが嶺緒さんらしい。


 何の音もない病室にふと嶺緒さんの声が響いた。


「人と話すのってわるくねぇんだな。17だっけ?勉強教えてくんね?この教師意味わかんなくて。」


 嶺緒さんは基本リモートで授業を受けているのもあって質問もできる状況ではない。ただ嶺緒さんの成績がいいのは何となく聞いたことがあった。


「あーえと、二時間後に休憩あるのでその時でよければ。」


 ああ、と返事をしていつものようにベッドに横になった。


 部屋を出ようとして足を止めた。


「どうして、私と話そうと思ったんですか。」


 その一つの問いがずっと引っかかっていた。なぜ急に言葉を受け取ってくれたのか、言葉を返してくれたのか。


「あんたは楽そうだったから。」


 前に話してくれたメイドの話が脳裏に浮かんだ


———うぜぇくらいしつこくて。


 私はそんなしつこさがないとでも思ったのか。なんともいえない気持ちになった。『必要以上には踏み込むなよ』といわれている気がして。


「そうですか。では、また後ほど。」


 いつものように掃除、洗濯、ご飯の準備、お父様への状況報告を済ませる。でも今日は少しいつもより足が軽かった。


「失礼します。」


 病室にはいると机に教科書とノートを広げた嶺緒さんが映った。なにやらペンをカチカチと鳴らしていてイライラしているようだった。


「このさ、なに、きもちわりぃグラフ。ここから座標出せとかいみわかんね。絶対必要ないでしょ。」


 入試レベルの応用問題。中1の段階では解く能力なんて必要ないに近いだろう。


 嶺緒さんの机の向かい側に座り、身を乗り出した。ここなんだけどさ、とペンで指を指す。嶺緒さんのこんな近くに来たことは初めてで、白く、細いのにゴツゴツとした男らしい手だということを初めて知った。


「えーとまず、このわからん座標を仮にaと置いて、aをこの式に代入すると、」


 ふと、頭がぶつかった。さらさらの黒髪がすぐそこに垂れていて、シャンプーの香りがした。


「すみません。えーと、そうするとx座標が、」


 嶺緒さんの手の動きがぎこちなくなったのはきっと気のせいだ。


 何やかんや入試レベルの問題を10問ほど解かされたところで就寝時間になった。


「じゃあそろそろ。おやすみなさい。」


「明日も教えてくれる?次は英語。」


 そう言って嶺緒さんはベッドに潜った。








第三章 終わりのない幸せ



「嶺緒さん。外出の許可が下りました。」


 まじで?!と嶺緒さんの声が病室に響く。こんなに元気そうな嶺緒さんはいつぶりだろう。許可が降りた条件は、激しい運動をしないこと、3時間以内の外出にすること、半径15kmより遠くにいかないこと。


「どこにいきたいですか」


 外に行く計画を立てる。嶺緒さんにとってどれほど特別なことなのかは手に取るようにわかる。自分から外に行きたいなんて初めてだから。


「公園で弁当食うとか。水族館も行ってみたい。」


 嶺緒さんが楽しそうに話す声で病室が満たされていく。


「でも、翠がいるならそれでいい。」


 嶺緒さんの耳がほんのり赤い気がしたのは気のせいだろうか。いつの日か、嶺緒さんは私とよく話すようになって、よく笑うようになった。そんな嶺緒さんをみているうちに、そんな嶺緒さんを知るうちに。


 多分私は、嶺緒さんに惹かれていた。


 嶺緒さんはきっと、好きとかそういうのじゃないとわかっている。だからこそ、私の心をえぐる。これ以上惹かれないように、いつでも手放すことができるように、と。


「水族館、私も行ったことないです。」


 19歳で水族館に行ったことのない人間はどれほどいるのだろう。水族館に行く機会など、生まれてから存在したことがない。彼氏はもちろん、好きな人でさえまともにできなかった私がデートの定番水族館なんて行くはずもない。


「水族館にしよう。」


 そういう嶺緒さんはどこか楽しそうにしていた。そういう嶺緒さんを見るたびに胸がきゅっと締め付けられるのはきっと私の気のせいだ。


 半径15kmの中にある、一つの水族館のチケットを3枚用意した。


 嶺緒さんと、私、そして付き添いの医師のもの。


 予定の日は3日後。その3日という数字が、今までとは比べ物にならないほどやけに長く感じた。服はなににしようとか、なにを食べようとか。柄にもなく考えて。自分でも驚くほど浮かれていた。ただの外出に。


 嶺緒さんが逆ナンされたらどうしようなんて意味のわからない心配を心に留めながら、ゆっくりと時間が流れた。


 当日。嶺緒さんは珍しい服装をしていた。というのも、いつもどこかしらチューブで繋がれていて、どこか痛々しかったのが、今日はない。「嶺緒さん」という人間だった。服装は、灰色のtシャツにジーパン、黒の上着を羽織っていた。180㎝の身長が映える。


 太陽の光に黒髪が照らされ、白い肌が透き通るように綺麗だった。きっと、今の嶺緒さんはどこにいても異様な雰囲気を漂わせるだろう。だってきっとこんな美しい人間はそういないだろうから。


 もちろん、医師がついてくる。嶺緒さんも外出なんてそうないのだから、なにが起きるかなんて予想がつかない。


 でももし、今日彼が発作を起こしたら。


 考えたくなくても、考えなければならない。


「行こ。」


 嶺緒さんは私の目の前でそういう。160㎝の私からみた嶺緒さんは壁みたいだった。


 電車で、と言いたいところだが、そうも行かず、車に乗せられていく。きっとその分、水族館では動けるようになるのだろう。そういうことにしておく。


 30分ほど車に揺られ、嶺緒さんと車を出る。念願の水族館がもう目の前に見えている。ああ、今日は特別な日になるんだろうな。手に取るようにわかった。


 隣にいるのに触れることもない距離が煩わしい。ただ、いつもよりずっと近い距離に思えた。


「4年分思い出作る」


 綺麗な肌にシワを作って笑みを浮かべる。私はきっと、こうやってどんどん未練がましくなってしまうんだ。嶺緒さんの笑顔を見れるだけで、もうそれだけでいいんだって。思ってしまうんだ。わかってる。2人でいられる未来がないことくらいは。でも、そんな未来を浮かべるたび苦しいほど胸が痛くなる。


「そうですね。たくさん作りましょう。」


「暁月さん、ちょっと。」


 医師に呼ばれ、嶺緒さんに会釈しその場を離れる。


「嶺緒さんはいつ発作を起こしてもおかしくありません。少しでも異変を感じたらすぐに連絡お願いします。私は休憩でもして出口の近くで待っているので。」


 淡々とした医師の説明はどこか壁を感じた。


「わかりました。注意深くみておきます。」


 礼をして、嶺緒さんのところへ戻る。遠巻きから見ると、すれ違う人達の視線が少し長く注がれていることがいやでも伝わった。そりゃあそうだろう。水族館特有の青いライトに白い肌が照らされて随分と様になっている。


「行きましょうか。」


 嶺緒さんに声をかけまずは、なんとも言えない魚を見る。


「なにこの魚。」


 嶺緒さんが見ている魚はきっとあの銀色の鱗をした小さめの魚だろう。でも、私は目の前の綺麗にライトアップされた魚よりも、楽しそうに口角を少し上げた嶺緒さんの横顔から目が離せなかった。


「翠?」


 その言葉と共に目が合った。もうとっくに気づいていた。引き返せないくらい嶺緒さんに惹かれてること。もうとっくに離したくないと、一緒にいたいと、思ってしまっていること。


「はい!」


 声が上擦った。嶺緒さんの透き通るようなその綺麗な目が、私を離してくれないから。


「なに張り切ってんの」


 くすくすと声を出して笑う嶺緒さんを一生頭に焼き付けておきたかった。


「みて!あっちくらげだって」


 楽しそうにそういう声は、いつもの何倍も生き生きとしていた。そういう新しい嶺緒さんを見るたびに好きがまた積もっていく。ただの世話係だったら、どれほど楽だっただろう。


「クラゲですか。私も好きです。」


 言われるがままにクラゲの展示へと連れて行かれる。そこは他の場所より暗くて、水槽だけが白く照らされ、光るクラゲがすごく綺麗だった。


「翠楽しそう。」


 そう私を見ながら口角を上げる嶺緒さんが目に映るだけで、今の距離でいいとそう思わせる。嶺緒さんも私と同じ気持ちなんじゃないかって錯覚する。


「クラゲは猛毒なんですよ。綺麗なものにはいつだって棘があるものですね。」


「綺麗なものは遠くで見るから綺麗に見えるんだよ。」


 嶺緒さんの言葉一つ一つに胸を踊らされる私をいっそバカだと言ってほしい。


「嶺緒さん?」


 終わりが近づく音が、館内に響いた。





第四章 バカみたいな約束


「嶺緒さん!!」


 目の前にあるのは、浮かれたものじゃなくて、もっと物々しい現実だった。その場に座り込み息を荒くする嶺緒さんだった。


___綺麗なものにはいつだって棘があるものですね。


 ああ、本当にそうかもしれない。


「翠さん、嶺緒さんの容態は。」


 静かなはずの水族館に嶺緒さんに視線を向けコソコソと話す声があるのに、私の耳には自分の鼓動と嶺緒さんの呼吸をする声しか届かなかった。


 この瞬間も、私の心臓は生き生きと、その場の状況を裏切るように脈打つ。




「体調、どうですか。」


 深夜2時くらいだったと思う、嶺緒さんは目を覚ました。いつもの病室は、どこか空気が重苦しくて息を吸うのも躊躇うほどだった。


「ごめん。外行きたいとか」


 自嘲する嶺緒さんの笑いがやけに大きく響いた。


「私は嶺緒さんと少しでも思い出ができてすごく楽しかったですよ。」


 この日を楽しみにしてたのは嶺緒さんよりも私かもしれない。でも、私は知った。よくわかった。嶺緒さんが苦しい時、辛い時に私はなにもしてあげることができないってことが。痛いほど伝わってきた。


「もっと、もっと、元気な体で生まれたかった。」


 今にも消えそうなほど弱い声でつぶやいたその声は消えるには痛いほど、重く冷たかった。でも、もし、嶺緒さんが元気に生まれてきていたら?私は、嶺緒さんと出会っていなかったのかもしれない。いや、出会うことはなかった。


「そしたら、私は嶺緒さんと出会っていないかもですね。」


 確かに、と少し笑ってから言葉を続けた。


「だったら、少しはこの体で良かったって思えるかも」


 ふっ、と笑い、少し口角を上げた。


 そういう嶺緒さんの言葉に振り回される。これ以上ないくらいに。


「時間も時間ですし。今日は失礼します。おやすみなさい。」


 私がドアに手をかけようとすると背後から声がした


「翠。」


「どうかしましたか」


 何か言おうと口を開けては閉じる。沈黙が部屋を包んでから、結局なんでもない、おやすみ、と私に言って、嶺緒さんはベッドに潜った。




「暁月さん。お話があります。」


 翌日の昼にお父様から、そう声をかけられた。私はやけに広い応接室に足を運んだ。ノックをして部屋に入ると静けさと、その空気の重さが私を包んだ。


 お座りください、と席を指差した。机にはお茶が置かれている。


「嶺緒の状態が悪くなっている。」


 沈黙を破る最初の一言で私の脳内は埋め尽くされた。


「手術の日程が決まった。」


 そしてその言葉で私の頭の中は白紙にされた。もうなにも考えられないと私の脳が訴える。避けられない現実がそこにある。


「いつですか」


 重い口を必死に持ち上げ、その声を発する。


「一ヶ月後、11月13日だ。暁月さんには__」


 その後に続く長ったらしい説明は頭に入らなかった。なんという屈辱だろう。誕生日の日に、それも20歳の誕生日に。手術が行われる。


 私の人生は、その日に幕を閉じるなんて。



 4年前、私は初めてここに来た。


そこで告げられた内容はざっくりまとめるとこうだ。


・嶺緒さんの身の回りの家事をしてほしい


・嶺緒さんのメンタルケアをしてほしい


・衣食住は保証する


・毎月七万円の給料を支払う


・嶺緒さんの手術の際、ドナーとなること。



 嶺緒さんの場合、心臓病だ。移植するのは心臓。私は、嶺緒さんのドナーとなる時点で生きることはできない。健康になった嶺緒さんの未来に私はいることができない。


 そのことは4年間頭の中にずっとあったはず。あったはずなのに、現実味を帯びて、私を蝕んでいく。


 この仕事を引き受けた時、私は嶺緒さんに惹かれるなんてこれっぽっちも思ってなくて。稼げて、最低限のことをしていれば楽に生活できて。私はそれで死ねるなら。誰かを助けられるなら本望だとも思った。


 私の元に手紙が届いた理由はこれだ。血液が適合していた。それだけ。


 私の世界に、この瞬間音はなかった。ただ、嶺緒さんのために嶺緒さんとの未来を手放さなければならない。


「最後に、契約書にサインをしてほしい。」


 ドナーの同意書。きっと、もしここでサインしなかれば、私はきっと、嶺緒さんを見殺しにすることに値する。私のおかげで、嶺緒さんが生きられるのなら、それが本望だと思った。


 私はその契約書にサインをした。


 当たり前のように紙に書き込まれるインクが憎かった。


「嶺緒には隠しておけ。あいつは暁月さんと過ごした時間が長すぎた」


「はい」


 震える声で返事をして応接室から出た。



 熱く吐きそうなほどの何かを堪えて深呼吸をした。それから、いつもの業務に戻る。嶺緒さんに手術の話をするのは今日の昼らしい。嶺緒さんは喜ぶかな。学校に行けるとか、好きに遊べるって。結局、病気じゃなくなってからの嶺緒さんの未来に私が存在することはなかっただろう。



 午後7時。いつものように私は嶺緒さんの病室に夕飯を届けにいく。


 そう、いつものことなのに。

 今日の嶺緒さんは生き生きしている。なんでだろう、考えなくても手に取るようにわかるのは「治るという事実がある」こと。



「俺さ、もうすぐ手術するんだって。もうすぐで元気に生きられるようになるんだって。」


 目をキラキラさせながら、でも何かを惜しむようにそういった。


「学校とか、友達ができたら翠ともあんまいられなくなるのかな」


 嶺緒さんが学校に行ったら。きっと友達に囲まれて、告白されて、付き合って。そんな姿を想像するのなんてすぐにできてしまう。嶺緒さんの隣で笑う女の子を想像したら、少し胸がチクリと痛む。


 でも、嶺緒さんが笑っていたらそれでいいんじゃないかって思う。私の心臓を胸の中で鳴らして、笑っていればいいと。


 ある意味、私は誰よりもメンヘラなのかもしれない。


「きっと私を忘れるくらい楽しいと思いますよ」


 嶺緒さんにそう言って、自分の言葉に少し胸が締め付けられる。


「俺は、学校より何より。手術が11月13日だから、手術が終わったらまず、翠と誕生日祝ってさ。この前全部見れなかった水族館を回りきって、一緒にお昼ご飯とか食べて。笑いたい。それが治ってからの一番の夢。」


 ほら、また私は嶺緒さんのいう一字一句に振り回される。


「翠、約束しよう。治っても、俺に勉強教えて。」


 あーあ。もうだめだ。もう。


「もちろんです。でもきっと嶺緒さんの周りには頭が良くて、面白い子たくさんいると思いますよ。」


 そうかもねと言ってくれれば私はもうそれで楽だった。私の存在を消してくれるようだったから。


「俺は翠がいい。」


 バカみたい。


「嬉しいです」


 笑顔を必死に作った。私はその場から走り去りたかった。


「翠?」


「いえ。ご飯冷めちゃいますよ。また来るので。」


 私は返事を聞く余裕なんてなくって、不自然なほど足早にそこを離れた。

 ドアを閉め切ったところで、目の奥がじんわり痛くなって、喉が焼けるように熱くなる。それとともに頬に生ぬるい何かが伝った。


 私はもう。そこにはいられない。



 嶺緒さん。ごめんなさい。


「仲良くなりたい」なんて思って。ごめんなさい。






第五章 最期の(ハート)



11月13日。


「翠、誕生日おめでとう。」


 当たり前かのように私を祝う嶺緒さんを見て苦しくなる。


「嶺緒さん、手術、頑張ってください。」


「うん。まってて。」


 最後の会話はこれかもしれない。嶺緒さんは病室を離れて処置室へ連れて行かれた。



「暁月さん。」


 お父様の、秘書。だったか。一通の封筒を渡してきた。


「本来なら、もしも手術が失敗したら渡してほしいと、そう言われていたものです。」


 私はあれから何度夜に1人で涙を舐めてきただろう。ゆるゆるに歪んだ涙腺はもう、こんなことで簡単に崩壊する。


「あの。嶺緒さんにこの手紙、渡していただけませんか。ドナーのことは伏せてある内容です。でももし、嶺緒さんが気付いてしまったら、私の分まで楽しんでくださいとお伝えください。」


「わかりました。」


 その声は淡々としていて、冷たく部屋に響いた。


 私はその封筒の中身を見て倒れるんじゃないかってくらい泣いた。いつの間にか嶺緒さんが私の一部で。嶺緒さんが大好きで。欲張りになった。もっと近くにいたいと。そう思った。


 私の体に麻酔が広がった。















翠へ。


出会いは4年前だったね。

最初の口を聞かなかった一年半を、俺は今、後悔しています。


それくらい。翠といる時間が楽しくて。翠がいるから、こんな人生でもいいって思えました。


水族館。全部回れなくてごめんね。


俺さ、翠のこと好きだったと思う。

勉強を教えてもらってる時も、時々一緒に食べるご飯も。全部が特別で。言葉じゃ全部言えないくらい翠が好きだった。


本当は直接言いたかったけど。


翠が俺にとって一番特別だった。

翠はそうじゃないかもしれないけどね。


翠はまだまだ長い人生を生きるのかな。

だったら、俺よりもっと素敵な人に出会って、幸せになってね。ずっと応援してるよ。


最後に。20歳の誕生日おめでとう。

幸せになってね。


嶺緒



「成功です」

 その言葉と共に俺は目を開いた。


「翠、いる?」


 暁月さんは、もういません。その言葉を聞いて絶句した。俺の生きる意味に翠がいたから。全てを奪われるようだった。


「なんで」


「私たちにも伝えられていなくて。ただ、嶺緒さん宛に手紙を置いて行かれました」


 一通の手紙を受け取って、では。と去っていった。俺の病室には空白の時間が流れた。受け取った手紙の封を切る。俺の手はどこかふるえていた。















嶺緒さんへ


手術成功おめでとうございます。


そして、嶺緒さんとの約束を守れなくてごめんなさい。


私は嶺緒さんが好きでした。

気づいたら、この日々がどうしようもなく愛おしくて仕方なっていきました。嶺緒さんを手放すことが怖くなっていました。


嶺緒さんはバカだなと、どうしようもない自分勝手なやつだと。大嫌いだと。そう言ってください。二度と顔もみたくないよと。言ってください。


嶺緒さんが楽しそうに私との未来の話をすると、どうしようもなく、嶺緒さんの未来に私もいたいと、そう思ってしまいます。どうか私を軽蔑してください。約束を守らなかったクソ野郎だ、と。


水族館、一緒に回りきれなくてごめんなさい。きっと、もっと素敵な方が、嶺緒さんの隣で笑いながら、この魚かわいいとか、イルカショー見ようとか、そんな話をしているはずです。


さようなら。これから、私への当てつけのように楽しく生きてください。

きっと私はいつもそこにいるはずだから。

幸せになってください。















 俺は翠に愛された。それだけで十分で。


 その愛がすごく重くて。

 でも手放せなかった。


 翠の最後に教えてくれたことは、俺を一生縛り付けるんだ。


 ねぇ翠、何を想ってこの手紙を書いたの?


 紙が少し透けたところに滲むインクがどうしようもなく愛おしかった。







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