第九話 玉座の前で
宰相が国王に上奏した翌日、王宮が動いた。
けれど動いたのは——私たちが望んだ方向ではなかった。
王太子ルートヴィヒが、先手を打った。
「ヴァレンシュタイン伯爵家を、国家反逆の嫌疑で拘束する」
フェリクスが屋敷に駆け込んできたのは、その命令が出た直後だった。
「リーゼ。逃げろ」
「逃げる?」
「王太子が動いた。宰相の上奏を察知して、先に潰しに来た。伯爵家の財産凍結と——お前の拘束命令が出ている」
血の気が引いた。
「宰相は?」
「無事だ。けれど上奏は中断された。国王の意識が——また薄れた」
「薬を増やされたんだ」
「おそらく。王太子は宰相の動きを察知した瞬間に、医務官に指示を出したのだろう」
エレノアが裏口から入ってきた。
「マルタが時間を稼いでくれています。兵が来るまであと半刻ほど」
「証拠の写しは」
「フェリクスとエレノアの手元に。原本は宰相に渡してある」
「なら——私が捕まっても、証拠は消えない」
「捕まるつもりか」
フェリクスの声が鋭くなった。
「逃げても隠れても、王太子の権力からは逃れられません。
「逃げても隠れても、王太子の権力からは逃れられません」
「だから——自分が囮になると?」
「囮ではありません。正面から受けて立つんです」
「リーゼ——」
「フェリクス。聞いてください。証拠は三カ所にある。あなたの手元、エレノアの手元、そして宰相の手元。私が捕まっても、証拠は消えない」
「それはそうだが——」
「だから重要なのは、私が捕まっている間に国王の処方を変えること。陛下が回復すれば——」
「国王自身が王太子を裁ける」
「そう。私一人を守ることより、国王を治すことを優先してください」
フェリクスの拳が白くなるほど握りしめられていた。けれど——証拠が複数の場所にある限り、私を消しても真実は消えない」
「リーゼ——」
「フェリクス。お願い。宰相に伝えて。国王の処方を変えれば、陛下は回復する。陛下が回復すれば——」
「国王自身が王太子を裁ける」
「そう。だから——国王の処方を変えることだけに集中して。私のことは後でいい」
フェリクスは拳を握りしめた。
「必ず助ける。約束する」
「約束は——全部終わってからにしてください」
フェリクスとエレノアが去った。
◇
屋敷の門に、王宮の近衛兵が現れた。
義母が私の隣に立っていた。
「お義母様。中にいてください。危険です」
「いいえ。ここにいます」
「でも——」
「二十年前にも、同じ光景を見ました。兵が来て、夫を連れていった」
義母の手は震えていなかった。
あの日から二十年。この人は、ずっとこの瞬間を予感していたのかもしれない。
「あのとき私は何もできなかった。ただ見ていた。夫が連れていかれるのを」
「お義母様——」
「今度は違います。ヴァレンシュタインの女として——立ちます」
「お義母様。奥にいてください」
「いいえ。ここにいます」
義母の手は震えていなかった。
「二十年前にも、同じ光景を見ました。兵が来て、夫を連れていった。あのとき私は何もできなかった」
「お義母様——」
「今度は——私も立ちます。ヴァレンシュタインの女として」
近衛兵の隊長が進み出た。
「ヴァレンシュタイン伯爵夫人リーゼロッテ殿。国家反逆の嫌疑により、王宮への出頭を命じる」
「承知しました」
静かに答えた。
連行される馬車の中で、懐の手紙に触れた。
クラウスの手紙。もう何度も読んだ便箋。
便箋の最後の一行は途切れていた。
「どうか——」
その先に何が書かれるはずだったのか。
目を閉じた。
(……クラウス。あなたが守ろうとした真実は、もう私の中にある。手紙を開けるなと義母は言った。開けたらもう戻れないとエレノアは言った。その通りだった。私の人生は壊れた。けれど——壊れた先に、新しい道が見えた。)
王宮に着いた。
裁きの間に通された。
玉座の前に、王太子ルートヴィヒが立っていた。
「ヴァレンシュタイン夫人。反逆の嫌疑について弁明を」
「弁明の前に、一つだけ確認させてください」
「何だ」
「この裁きの場に、国王陛下はおられますか」
王太子の顔が一瞬、強張った。
「陛下はご病気で——」
「ご病気の原因を、殿下はご存じですか」
広間が静まった。
「何を言っている」
「国王陛下の処方薬に、クラーゼンの根と眠り草の抽出物が含まれていることを確認しました。長期投与により——」
「黙れ!」
王太子の声が裏返った。
けれど——その瞬間。
広間の奥の扉が、開いた。
車椅子に乗った国王が、宰相に付き添われて現れた。
「——続けなさい、リーゼロッテ」
国王の声は弱かったが、目は——はっきりと開いていた。
処方が変えられていた。
宰相が——フェリクスとエレノアが——間に合わせたのだ。
国王の目は弱々しかったが、意志の光があった。
車椅子の背もたれに寄りかかりながらも、広間を見渡す目は——王の目だった。
「続けなさい」
私は震える声で、しかし一言一言を選んで話した。
「陛下。ヴァレンシュタイン伯爵クラウスは、北方の違法採掘を発見し、それを報告しようとして命を落としました。先代の伯爵——クラウスの父もまた、同じ不正を告発しようとして追放されました」
「二代にわたって——」
「はい。そしてその不正を命じたのは——」
王太子の顔から、すべての色が消えた。
「陛下。すべての証拠はここにあります」
宰相が書類を広げた。
義父の財務記録。クラウスの手紙。
公式の命令書。処方薬の分析結果。
国王はすべてに目を通した。
長い沈黙。
国王はすべてに目を通した。
宰相が補足した。
「陛下。処方薬の分析結果もご確認ください。クラーゼンの根と眠り草の抽出物が検出されています」
国王の手が震えた。
「これは——私の薬に」
「はい。長期投与により判断力を鈍らせる効果があります」
国王は目を閉じた。
長い沈黙。
「ルートヴィヒ」
「父上——」
「お前は——私の息子を殺し、私を毒で弱らせ、国を私物化した」
「違います! これは陰謀です!」
「陰謀ではない。証拠がすべてを語っている」
国王の目に涙が浮かんだ。
「クラウス伯爵は——私が信頼した忠臣だった。その父もだ。二代にわたって忠義を尽くした家を——お前は潰した」
王太子は崩れ落ちた。
裁きは、淡々と進んだ。
叫びも泣きもしない。
書類が読み上げられ、証拠が照合され、事実が認定される。
王太子は最後に一言だけ言った。
「父上。私は——この国のためだと思っていました」
国王は答えなかった。
長い沈黙の後、目を閉じた。
それが裁きの終わりだった。
広間を出るとき、フェリクスが廊下で待っていた。
壁にもたれ、腕を組んでいた。
目が合った瞬間、表情が——ほどけた。
「終わったか」
「ええ。終わりました」
「よくやった」
「フェリクスのおかげです。みんなの」
「お前がやったんだ。最初から最後まで」
その言葉が、胸に沁みた。
戦いの間、ずっと張り詰めていたものが——少しだけ、緩んだ。
涙が一筋、頬を伝った。
戦いの涙ではない。安堵の涙だった。
フェリクスは何も言わず、隣に立っていた。
それだけで——充分だった。




