第八話 宰相の決断
宰相のシュトラウス公爵に面会を求めたのは、薔薇が再び咲き始めた日のことだった。
返事が来たのは、その翌日。異例の速さだった。
「お会いしましょう。ただし——お一人で」
一人。フェリクスもエレノアも同席できない。
「罠の可能性がある」
フェリクスの声が硬い。
「分かっています。けれど——」
「俺が行く」
「駄目です。宰相は『お一人で』と言っています。約束を破れば、信頼を失います」
「信頼より命が大事だ」
「命は大事です。でも——この機会を逃したら、もう宰相に会えないかもしれない」
フェリクスは黙った。長い沈黙。
「……分かった。だが、これを持っていけ」
一人。
フェリクスもエレノアも同席できない。
「罠の可能性がある」
フェリクスが懸念を示した。
「あるかもしれません。でも、宰相に直接話す機会は二度と来ないかもしれない」
「リーゼ」
「大丈夫。証拠は私が持っていきます。万が一に備えて、写しはフェリクスに預けます」
フェリクスは黙った。
それから、古い懐中時計を差し出した。
「これを」
「時計?」
「護身用の魔道具だ。蓋を開けると、登録した相手に位置を知らせる。何かあれば開けろ」
「フェリクスの登録で?」
「ああ」
時計を受け取った。古い銀の時計。温かい。
「ありがとう」
「無事に帰れ。お茶を淹れて待っている」
「……お茶を淹れられるんですか」
「馬鹿にするな。辺境の男爵はなんでも自分でやるんだ」
少しだけ笑えた。
フェリクスの手が、一瞬だけ私の手に触れた。
懐中時計を渡すときよりも——ずっと、短い接触。
「必ず帰れ」
「帰ります。お茶の約束がありますから」
フェリクスは小さく笑った。
笑顔は初めて見た。
不器用で、ぎこちなくて——けれど、温かかった。
「待ってる。何時間でも」
「大げさですよ」
「大げさじゃない。本気だ」
視線が合った。
長い一瞬だった。
言葉はなかった。
逸らさなかった。どちらも。
それだけで——充分だった。
「……そうだな」
◇
宰相の私邸は、王宮の裏手にある古い屋敷だった。
装飾は質素だが、壁の厚さが尋常ではない。防音と防諜の結界が張られている。
シュトラウス公爵は書斎で待っていた。
白髪の老人。背筋が伸びている。
夜会で見た印象よりも——ずっと、疲れた顔をしていた。
「ヴァレンシュタイン夫人。話とは」
「単刀直入に申し上げます」
証拠を並べた。
義父の財務記録。クラウスの手紙と王太子の命令書。公式の派遣命令書の写し。
そして——国王の処方薬の分析結果。
シュトラウス公爵は、一枚一枚を丁寧に読んだ。
表情が変わらない。けれど、手が——かすかに震えていた。
「これが——すべてか」
「はい。二代にわたるヴァレンシュタイン家の男たちが命をかけて集めた証拠です。そして——私が知らなかった真実です」
「知らなかった——とは」
「夫が何を守ろうとしていたのか。何のために沈黙を選んだのか。この手紙を読むまで、私は何も知りませんでした」
「それで——手紙を読んで、どうするつもりかね」
「真実を明るみに出します。夫の名誉のためだけではありません。国王陛下を——毒から救うためです」
シュトラウス公爵はしばらく黙った。
「夫人。私はこの国に五十年仕えている」
「はい」
「王太子の異変には、気づいていた」
「えっ」
「気づいていた。だが——証拠がなかった。疑惑だけで王太子を告発すれば、宰相の座を追われ、後任は王太子の傀儡になる。それでは——」
「それでは何も変わらない」
「そうだ。だから——証拠が揃うのを、待っていた」
公爵の目に光が灯った。
「ヴァレンシュタイン夫人。いや——リーゼロッテ嬢」
「はい」
「あなたの夫は勇敢な男だった。父上もだ。
「あなたの夫は勇敢な男だった。父上もだ。二代の男たちが果たせなかったことを——あなたが成し遂げようとしている」
「三代目は女ですが」
「だからこそだ。王太子は男の敵を警戒する。辺境の男爵も、魔法局の監察官も。けれど——未亡人の伯爵夫人が動いていることには、まだ気づいていない」
「気づかれる前に」
「ああ。今夜、国王陛下に直接上奏する。処方を変えれば——陛下は回復する」
「今夜——そんなに急に」
「時間がない。王太子がエレノアの文書庫潜入に気づくのは時間の問題だ。気づかれたら——すべてが潰される」
「分かりました。証拠をお預けします」
「三代目は——女ですが」
「だからこそだ。王太子は男の敵は警戒する。だが、未亡人の伯爵夫人が動いていることには——まだ気づいていない」
「気づかれる前に」
「ああ。今夜——国王陛下に直接上奏する。私の権限で。陛下はまだ意識がある。判断力も——処方を変えれば回復する」
「今夜——」
「時間がない。証拠を預からせてもらえるか」
「はい」
書類を渡した。
「一つだけ確認させてくれ。この証拠をすべて公にした場合、あなたとあなたの周囲に危険が及ぶ。それでも構わないか」
「構いません」
「即答だな」
「夫も——即答したと思います」
シュトラウス公爵は立ち上がった。
老いた体に、確かな力が戻ったように見えた。
「行動に移す。あなたは屋敷に戻り、安全を確保しなさい」
「分かりました」
「リーゼロッテ嬢。一つ——伝えておく」
「はい」
「私はこの五十年、多くの貴族を見てきた。権力に溺れた者。正義を掲げて倒れた者。沈黙を選んだ者」
「宰相は——どちらでしたか」
「沈黙を選んだ側だ。それが——正しかったのかどうか。今も分からない」
「でも今、動いてくださいます」
「ああ。あなたたちが証拠を揃えてくれたおかげでな」
「証拠がなければ動けなかったのですか」
「動けなかった。いや——動かなかった。自分の無力を認めるのが怖かっただけかもしれない」
公爵の目に、長年の後悔が滲んでいた。
「はい」
「クラウス伯爵が残した手紙は、あなたへの遺書であると同時に——この国への遺書だ。あなたがそれを届けてくれた」
胸が熱くなった。
屋敷に戻った。
フェリクスが茶を淹れて待っていた。
本当に淹れていた。少し濃かったが、温かかった。
「どうだった」
「宰相が動きます。今夜」
「今夜か。早いな」
「証拠が揃っていたからだと思います。宰相も——待っていたんです」
「待っていた?」
「証拠を。ずっと」
フェリクスは茶碗を置いた。
「リーゼ」
「はい」
「よくやった」
短い言葉だった。
けれど、フェリクスの目が——穏やかだった。
初めて見る表情だった。
「まだ終わっていませんよ」
「ああ。けれど——一番難しいところは越えた」
「宰相が動いてくれるなら」
「動く。あの老人の目は本気だった」
「分かるんですか」
「辺境の人間は、相手の目を見れば嘘か本気か分かる」
「便利な能力ですね」
「能力じゃない。経験だ。嘘つきの多い世界で生きてきた分だけ」
少し沈黙があった。
「ああ。けれど——一番難しいところは越えた」
窓の外で、夜風が薔薇を揺らしていた。
今夜、宰相が国王に上奏する。
明日には——すべてが動き出す。
けれど、最後のどんでん返しが待っていることを、この時の私はまだ知らなかった。




