第五話 義母の木箱
義母のヘルミーネは、屋敷の奥の部屋から滅多に出てこない。
クラウスの葬儀の日以来、顔を合わせたのは二度だけだ。
その義母が、私を呼んだ。
「お義母様。お話とは」
義母は窓辺の椅子に座り、庭を見ていた。
白い髪が夕日に透ける。老いた手が膝の上で組まれている。
振り向かないまま、義母は言った。
「あの手紙を、読んだのですね」
「はい」
「愚かなことを」
義母の声は厳しかった。
けれど、震えていた。
「お義母様。なぜ止めようとしたんですか」
「あの手紙の中身を知っているからです」
「ご存じだったんですか」
「クラウスが書斎に隠したことは知っていました。中身は——読んでいません。けれど、何が書かれているかは想像がつきます」
義母がようやく振り向いた。
「私の夫——クラウスの父も、同じものに気づいたのです」
「同じ……北方の違法採掘ですか」
「先代の伯爵は外交官ではなく、宮廷の財務に携わっていました。帳簿の——いえ、金の流れの異常に気づいた」
「それで?」
「追放されました。宮廷から。理由は冤罪です。横領の疑いをかけられ、爵位は辛うじて残りましたが、すべての職を剥奪された」
「追放されました。宮廷から。理由は冤罪です」
「冤罪……」
「横領の疑いをかけられました。北方からの税収に不審な点があると報告したところ、逆に『帳簿を操作した』と告発されたのです」
「報告した側が罰せられた」
「ええ。真実を語る者が追放される——それがこの国の仕組みです。爵位は辛うじて残りましたが、すべての職を剥奪されました」
(……追放。クラウスの父も、同じ目に。)
「義父は、その後?」
「失意のうちに亡くなりました。クラウスが十二のときです」
義母の目に涙が光った。
「だから——あの子にも同じ道を歩いてほしくなかった。クラウスが外交官になると言ったとき、止めました。父と同じことになると」
「クラウスは知っていたんですか。お父様のことを」
「ええ。だからこそ——父の無念を晴らすために外交官になったのです。私が止めても聞かなかった」
胸が痛んだ。
クラウスは、父の仇を討つために王宮に入った。
そして——父と同じように、消された。
「お義母様。私に何もするなとおっしゃるんですか」
「……」
「二代続けて、この家の男が真実を追って命を落とした。三度目はない——それが、お義母様の願いですか」
「リーゼロッテ。あなたは若い。まだやり直せる。手紙を燃やして、この屋敷を出て、別の人生を——」
「リーゼロッテ。あなたは若い。まだやり直せる」
義母の声が震えた。
「手紙を燃やしなさい。この屋敷を出て、遠くへ行って。別の名前で、別の人生を始められる。あなたにはまだ時間がある」
「お義母様——」
「私は夫を失い、息子を失った。あなたまで失いたくない。お願いだから——」
義母が泣いた。
この屋敷に来て三年、義母が泣くのを初めて見た。
「できません」
「なぜ」
「夫が遺した手紙には、私の名前が書いてありました。私宛の手紙です。私に託されたものです」
義母は黙った。
「お義母様。義父を追放した者と、クラウスを殺した者は——同じですか」
長い沈黙。
「……ええ。同じ血筋です。先代の王太子と、今の王太子」
「つまり——王家が、二代にわたってこの家を——」
「そうです。だから逆らえないのです。王家に逆らえば、爵位どころか命が——」
「お義母様」
私は義母の手を握った。
冷たい手。細い指。震えている。
「私は逃げません。でも、無謀なこともしません。証拠を集めて、正しい手順で真実を明らかにします」
「正しい手順?」
「エレノアさんとフェリクスさんが力を貸してくれます。一人ではありません」
義母の目が、初めて——ほんの少しだけ——安堵を見せた。
「その二人は——クラウスが信じていた人たちですか」
「はい」
「……なら。私にも、できることがあります」
「お義母様?」
義母は立ち上がり、部屋の奥の棚から古い木箱を取り出した。
「先代の伯爵——クラウスの父が残した書類です」
義母の手が震えていた。
けれど、箱を差し出す意志は揺らいでいなかった。
「追放される前日の夜、夫は書斎にこもって、重要な書類を選び出していました。焼くつもりだったのかもしれません。けれど——私が止めました」
「お義母様が?」
「焼いてしまったら、本当に何もなくなる。夫の三十年の仕事が、すべて嘘だったことにされてしまう。だから——隠しなさい、と」
「お義母様が、証拠を守ったんですね」
「守った、というほど大げさなことではありません。ただ——箱に入れて、棚の奥にしまっただけ」
「二十年間」
「ええ。二十年間」
「それは——」
「二十年分の金の流れの記録です。北方からの資金がどこに消えたか。誰に流れたか。すべて記されています」
手が震えた。
二十年分の記録。
クラウスの父が命がけで残した証拠。
義母が二十年間、守り続けた箱。
「お義母様。使わせてください」
「使いなさい。けれど——」
義母が私の手を握り返した。
「生きて帰りなさい。必ず」
「約束します」
義母が微かに笑った。
泣きながら、笑った。
「あなたは——クラウスより強いかもしれないわね」
「強くはありません。ただ——もう、知らないふりができないだけです」
◇
部屋に戻り、木箱を開けた。
中には束ねられた書類と、一枚の手紙。
手紙は義父からクラウスへの遺書だった。
「息子へ。この記録を、正しいときに、正しい人に渡してほしい。私にはできなかった。けれどお前なら——」
クラウスは、父の遺書を受け取って——エレノアとフェリクスに出会い——そして、私に手紙を遺した。
二代にわたる真実のリレー。
バトンは今、私の手の中にある。
義父からクラウスへ。クラウスから私へ。
二十年以上の歳月をかけて繋がれた真実のリレー。
義父は追放された。
クラウスは殺された。
三代目の走者は——伯爵家の嫁。
(……二人の男が守れなかった真実を、私が届ける。)
重い。けれど——手放す気はない。
フェリクスとエレノアに連絡を取った。
義父の記録を見せると、二人とも目を見開いた。
「二十年分の記録——これがあれば、資金の流れが完全に追える」
「クラウスの手紙と合わせれば、状況証拠ではなく物的証拠になる」
「次は?」
「文書庫だ。公式の命令書を手に入れれば、三つの証拠が揃う」
フェリクスに連絡を取った。
「義父の財務記録が見つかりました。二十年分です」
「二十年——それがあれば、王太子の手紙と合わせて全体像が見える」
「次の作戦は?」
「王宮の文書庫だ。外交任務の正式な命令書を手に入れれば、三つの証拠が揃う」
三つの証拠。
義父の財務記録。王太子の私的な手紙。そして——公式の命令書。
点と点が、線になりつつある。
三人の目が合った。
初めて——希望と呼べるものが、見えた気がした。
夫が遺した手紙から始まった旅が、ここまで来た。
けれど——文書庫への道は、まだ開けていない。
その突破口は、思いがけない場所から——王宮の夜会の招待状という形で、やってくることになる。




