第四話 剣ダコの男爵
フェリクス・ヴァン・オーレンドルフは、想像とまるで違う人物だった。
辺境の男爵と聞いて、年配の堅物を想像していた。
現れたのは、私と同じくらいの歳の青年だった。
栗色の髪を無造作に束ね、着古した旅装束を纏っている。
貴族とは思えない風体。けれど、目だけが異様に鋭い。
「リーゼロッテ殿。お会いできて光栄です」
声は穏やかだった。けれど、握手をした手には剣ダコがあった。
「エレノアから事情は聞いています。クラウスの手紙のことも」
「あなたも——夫と同じように、王宮の不正を追っていたと聞きました」
「ええ。北方の魔力資源の違法採掘。利益の流れ。関与している貴族の名前。クラウスと私は、別々のルートで同じ結論に辿り着いていました」
「別々のルート?」
「クラウスは外交官として北方の現場を見た。赴任先の村で、鉱山が秘密裏に操業されているのを目撃した。公式には閉鎖されたはずの鉱山が、夜間だけ稼働していたと」
「夜間だけ——」
「採掘された鉱石は、正規の交易路ではなく裏の輸送網で王都に運ばれる。私は辺境の男爵として、その裏の輸送網の末端を見た」
「二人の証言が合わされば——」
「全体像が見える。けれど、クラウスはそれを報告する前に消された」
「クラウスは外交官として北方の現場を見た。私は辺境の男爵として、採掘された資源が流れてくる末端を見た」
フェリクスは地図を広げた。
クラウスの書斎にあったものと同じ——あの赤い丸の地図だ。
「この村が中継地点です。北方で採掘された魔力鉱石が、ここを経由して王都に運ばれる。表向きは合法な交易品として」
「証拠はあるんですか」
「輸送記録と鉱石の成分分析。けれど、それだけでは弱い。王太子が直接関与している証拠がない」
「王太子の手紙があります」
フェリクスの目が光った。
「見せていただけますか」
手紙を渡した。
フェリクスは一字一句を読み、地図と照合した。
「これは——帰還は不要、という文言だけでは暗殺の命令とは断定できません。外交官を任地に留めるという解釈も成り立つ」
「でも、クラウスは死んでいます」
「ええ。だからこそ、この手紙だけでは証拠として弱い。状況証拠にはなりますが、王太子を告発するには——もう一枚、決定的なものが要る」
(……やはり、簡単にはいかない。)
「その決定的な証拠は、どこにあるんですか」
「王宮の文書庫です。外交任務の正式な命令書が保管されている。クラウスの北方任務の命令書に、王太子の署名があれば——」
「それと手紙を合わせれば、証拠になる」
「はい。けれど文書庫は王宮の最奥にあり、立ち入りには王族か宰相の許可が要ります」
エレノアが口を開いた。
「魔法局員の私なら、業務上の理由で文書庫に入れます。ただし——」
「ただし?」
「閲覧記録が残ります。誰が何を見たか、すべて記録される。私が不審な動きをすれば、すぐに露見する」
三人で沈黙した。
◇
庭に出た。
クラウスの薔薇が、夕日に照らされて赤く光っている。
フェリクスが隣に立った。
「クラウスは——良い男でしたよ」
「知っていますか」
「一度だけ会いました。辺境の視察で。畑仕事を手伝ってくれた外交官は、後にも先にも彼だけです」
少し笑った。泣きそうな笑いだった。
「リーゼロッテ殿」
「リーゼでいいです。夫もそう呼んでいましたから」
「……リーゼ。一つ、聞いてもいいですか」
「何ですか」
「クラウスは——あなたとの暮らしを、どう話していましたか」
予想しなかった質問だった。
「どう、とは」
「幸せだったかどうか、です。あの男は——任務のことしか話さなかった。けれど一度だけ、遠い目をして言ったことがある。『帰りたい場所がある。それだけで十分だ』と」
涙が出そうになった。
「……クラウスは、よくそう言っていました。任務から帰ると、玄関で靴を脱ぐ前に深呼吸するんです。『ただいま』の前に」
「そうか」
フェリクスは何も言わなかった。
けれど、視線が少しだけ柔らかくなった。
「何ですか」
「なぜ戦おうと思ったんですか。手紙を燃やして、何も知らないふりをすることもできた」
「できました。でも——」
言葉を探した。
「三年間、隣にいたのに何も分からなかった。夫が苦しんでいたのに、気づけなかった。それが——一番悔しいんです」
「だから、今度は自分の目で見たい」
「はい。夫が見ていた真実を、私も見たい。それを知った上で——もう一度、あの人を理解したい」
フェリクスは何も言わなかった。
けれど、視線が少しだけ——柔らかくなった気がした。
「分かりました。力を貸します」
「ありがとうございます。けれど——なぜ危険を冒してくれるんですか」
「クラウスのためだ。あの男は——俺の数少ない友人だった」
「友人……」
「辺境の視察で一度だけ会った。畑仕事を手伝ってくれた外交官は、後にも先にもあいつだけだ。泥だらけになりながら笑ってた」
「……クラウスらしいですね」
「ああ。あの男の笑顔を、もう見られないのかと思うと——腹が立つ。だから動く」
フェリクスの目に、静かな怒りがあった。
それは——私と同じ種類の怒りだった。
「ありがとうございます」
「お礼は早いです。これから先は、危険なことばかりですから」
「覚悟はできています」
「覚悟だけでは足りません。戦略が要ります」
フェリクスは再び地図を広げた。
「まず、王宮の文書庫にアクセスする方法を三つ考えましょう。一つ目は——」
三人の作戦会議が始まった。
エレノアが文書庫の見取り図を描いた。
フェリクスが警備の交代時間を割り出した。
私は二重底の引き出しから見つけた地図と照合した。
三つの情報が重なると、一つの道筋が見えてきた。
「夜会の夜が最適です。警備が手薄になる」
「夜会?」
「宰相主催の追悼夜会が近く開かれます。その混乱に紛れれば——」
「エレノアが文書庫に入れる」
夕日が沈む。
薔薇の影が長く伸びる。
私はメモを取りながら、ふと思った。
クラウスも、こうして誰かと作戦を立てていたのだろうか。
一人で抱え込んだのではなく——誰かと肩を並べて。
(……エレノアと。そしてフェリクスと。)
私が知らない夫の世界が、少しずつ見えてきた。
フェリクスは帰り際、庭の薔薇をじっと見ていた。
「きれいな庭だ。クラウスが手入れしていたのか」
「ええ。毎年、春になると嬉しそうに剪定していました」
「あいつらしいな。丁寧な男だった」
フェリクスの背中が門を出ていく。
その歩幅が、少しだけゆっくりだった気がした。
マルタが茶を運んできた。
「奥様。お疲れでしょう。甘いものを用意しました」
「ありがとう、マルタ」
「旦那様が好きだったお菓子です。お客様にもお出ししましたよ」
フェリクスにも出したのか。
マルタは——誰に対しても分け隔てがない。
この家の温もりは、マルタが守っている。
クラウスもそう感じていたに違いない。
けれど——まだ、義母のことが引っかかっている。
彼女はなぜ、あれほど怯えていたのか。
その答えは、思ったより早く——明日の夕刻に判明することになる。




