第三話 帰還は不要
王太子が夫を殺した。
その事実を、私はまだ飲み込めずにいた。
手紙を何度も読み返した。
ルートヴィヒの筆跡は端正で、感情の起伏がない。
まるで公文書のように——冷たかった。
「ヴァレンシュタイン伯爵の北方任務は、計画通り遂行すること。帰還は不要」
帰還は不要。
つまり——帰ってくるな、ということ。
(……なぜ。クラウスと王太子は幼馴染のはずだ。)
書斎の椅子に座り、頭を整理した。
分かっていること。
クラウスは外交官として北方に送られ、そこで命を落とした。
公式には「病死」とされている。
けれど、王太子の手紙は「帰還は不要」と命じている。
分かっていないこと。
なぜ王太子がクラウスを殺す必要があったのか。
クラウスとルートヴィヒは幼馴染だ。
幼い頃から共に学び、共に育った。クラウスはよく、王太子のことを「あいつ」と親しみを込めて呼んでいた。
その親友が、なぜ。
「帰還は不要」——あの四文字が、頭に焼きついて離れない。
クラウスが気づいた「王宮の闇」とは何か。
義母はなぜ手紙を開けるなと言ったのか。
翌日。エレノアが約束通り訪ねてきた。
「読みましたか」
「読みました。王太子の手紙も」
エレノアの表情が変わった。
「中身を見ましたか」
「ええ。『帰還は不要』と書かれていました」
エレノアは目を閉じた。長い沈黙。
「クラウスは、この手紙を証拠として保管していた。自分が殺された場合に——真実が明るみに出るように」
「けれど、私に渡さなかった」
「あなたを巻き込みたくなかったのでしょう。この手紙が表に出れば、王太子を告発することになる。そうなれば——」
「私も標的になる」
「はい」
客間の窓から、庭の薔薇が見えた。
クラウスが植えた薔薇。
深紅の蕾が、ひとつだけ開きかけていた。
それは、希望のように見えた。毎年、丁寧に手入れをしていた。
「エレノアさん。一つ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「あなたは、なぜこの手紙のことを知っているんですか」
「クラウスに託されたからです。もし自分が死んだら、手紙の存在を妻に伝えてほしいと」
「それだけ?」
「……それだけでは、ありません」
エレノアは視線を逸らした。
「私は王宮の魔法局に所属しています。表向きは魔法の研究者ですが、実際には——王宮内部の不正を監視する役割も担っています」
「そんな役職が」
「公式には存在しません。魔法局長が独自に設けた、非公式の監察官です。クラウスは外交官としてその情報に接触し、私と連携するようになりました」
「クラウスが北方で調べていたことと、同じものを追っていました」
「同じもの?」
「王宮が隠している計画です。北方の領地から魔力資源を違法に採掘し、その利益を一部の貴族が独占している。クラウスはそれに気づいた」
「それで——口を塞がれた」
「はい」
(……クラウス。あなたはそんな危険なことを、一人で抱えていたの。)
私は立ち上がった。
「エレノアさん。私に何ができますか」
「えっ」
「夫を殺した者たちを、このまま放っておくつもりはありません。何ができるか教えてください」
エレノアは驚いた顔をした。
「あなた——怒っているんですか」
「怒っています。けれどそれ以上に——悔しいんです。三年間、隣にいたのに何も気づけなかった。夫が一人で抱えていた重荷を、分けてもらえなかった」
「それは——」
「だから今度は、私が動きます。夫が遺した真実を、きちんと届ける」
エレノアの目が、わずかに潤んだ。
「あなたは——クラウスが言っていた通りの人だ」
「夫が、私のことを?」
「ええ。『芯の強い人だ。いつか真実を知ったら、きっと立ち上がる。だからこそ巻き込みたくない』と。矛盾していますよね。信じているからこそ、遠ざけた」
(……クラウス。あなたは私をそう見ていたの。)
「分かりました。ならば——一人では危険です。私が協力します」
「ありがとうございます」
「それと、もう一人。信頼できる人物を紹介します。フェリクス・ヴァン・オーレンドルフ。辺境の男爵ですが、王宮の腐敗を独自に調査しています」
「クラウスも知っている方ですか」
「ええ。三人で——密かに動いていました」
エレノアの目が、わずかに潤んだ。
「分かりました。ならば——一人では危険です。私が協力します」
「ありがとうございます」
「それと、もう一人。信頼できる人物を紹介します」
「誰ですか」
「フェリクス・ヴァン・オーレンドルフ。辺境の男爵ですが、王宮の腐敗を内側から調査している人物です」
「フェリクス・ヴァン・オーレンドルフ。辺境の男爵ですが、王宮の腐敗を独自に調査している人物です」
「男爵が——なぜ」
「彼の領地は北方の鉱山に隣接しています。違法採掘の被害を直接受けている。汚染された水路。枯れた畑。それを告発するために、一人で証拠を集めていた」
「一人で」
「ええ。クラウスと出会うまでは。二人が情報を共有し始めてから、調査は一気に進みました」
「味方がいるんですか」
「多くはありません。けれど、志を同じくする者が——数人」
「数人で、王太子に立ち向かえるんですか」
「正面からは無理です。だからこそ、証拠が要る。圧倒的な証拠を揃えて、王太子自身の言い逃れを塞ぐ。それだけが勝ち筋です」
「観察し、仮説を立て、検証し、証拠を突きつける。クラウスも——そう考えていたんですね」
「ええ。けれどクラウスは、証拠が揃う前に消された。だから——今度は、揃えてから動く」
エレノアが頷いた。
「時間はかかります。けれど、急いで失敗するよりも——確実に」
「はい。急いで夫は命を落としました。同じ過ちは繰り返しません」
窓の外で、薔薇の蕾が風に揺れた。
クラウスが植えた薔薇。
今年は——私が守る番だ。
エレノアが帰り際に振り返った。
「リーゼロッテさん。一つだけ」
「何ですか」
「クラウスは、あなたのことを話すとき——いつも穏やかな顔をしていました」
「少数ですが。クラウスも——その一人でした」
クラウスが、秘密裏に王宮の腐敗と戦っていた。
私の知らない、夫のもう一つの顔。
手紙を懐にしまった。
夫が遺した手紙。
王太子が書いた命令書。
この二通が、すべての始まりだ。
けれど——まだ分からないことがある。
義母はなぜ「開けるな」と言ったのか。
その答えは、三日後に届いた一通の手紙で——さらに深い闇に繋がることになる。
夜、寝室で便箋を読み返した。
「愛するリーゼロッテへ」——その書き出しを、何度も指でなぞった。
クラウスは私を「愛する」と書いた。
三年間の結婚生活で、面と向かって愛していると言ったことはなかった。
けれど、最後の手紙に——書いてあった。
涙が便箋に落ちた。
インクが少し滲んだ。
(……泣いている場合じゃない。これは証拠でもあるんだから。)
涙を拭いて、手紙を丁寧に封筒に戻した。
義母の言葉が引っかかっている。
「開けてはなりません」——あの恐怖は、経験者の恐怖だった。
その答えは、三日後に義母自身の口から——さらに深い闇に繋がる形で語られることになる。




