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追放された夫が遺した手紙には私が知らない真実が記されていた  作者: 渚月(なづき)


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2/10

第二話 封を切った日

義母の手は冷たかった。


葬儀が終わり、屋敷に戻ってからも、あの指先の温度が手首に残っている。



「それを開けてはなりません」



あの言葉が、頭から離れない。



夫の書斎に戻った。


二重底の引き出しは、まだ開いたままだ。



手紙以外にも、いくつかの書類が残されていた。


外交官としての報告書。王宮への嘆願書の下書き。そして——。



一枚の地図。


王都から北へ二日の距離にある、名前のない村が赤い丸で囲まれていた。



(……クラウスは、なぜこの村を?)



書斎の扉が叩かれた。



「奥様。お客様です」



使用人のマルタが告げた。


マルタは夫が生まれる前からこの屋敷にいる古参で、義母より長くこの家を知っている。



「誰?」



「お名前はおっしゃいません。ただ、旦那様のお知り合いだと」



客間に向かった。



椅子に座っていたのは、葬儀で見かけた女性だった。


金の髪。深い紫の瞳。喪服の代わりに、濃紺の旅装束を纏っている。



「はじめまして。エレノア・クラーレンスと申します」



声は低く、落ち着いていた。



旅装束の裾に泥がついている。


王都の外から、急いで来たのだろう。



その目には——何かを伝えなければという焦りがあった。


遠くから来たのだろう。背筋は伸びているが、どこか張り詰めた空気を纏っている。



「ヴァレンシュタイン伯爵夫人ですね」



「はい。あなたは——」



「クラウスの知人です。それ以上は、今は申し上げられません」



「ヴァレンシュタイン伯爵夫人ですね」



「はい。あなたは——」



「クラウスの知人です。それ以上は、今は申し上げられません」



「では、なぜ私を訪ねたのですか」



「手紙の件です。それと——あなた自身の安全に関わることだから」



「安全?」



「今は詳しく話せません。けれど、クラウスがあなたに手紙を遺したことを、知っている人間が他にもいます。その人間たちが、あなたの元に来る前に——私が来る必要がありました」



声は落ち着いていたが、目は周囲を警戒していた。


窓の外を一度確認してから、声のトーンを落とした。



「この屋敷は安全ですか」



「使用人は信頼できます」



「壁に耳がないとは限りません。手短に話します」



「夫とはどのようなお知り合いで」



「外交の仕事で。クラウスは私に命を救われた——と、彼は言っていました。実際は逆ですが」



エレノアは微かに笑った。


笑顔なのに、目の奥が暗い。



「本題に入ります。クラウスの手紙をお持ちですね」



心臓が跳ねた。



「なぜそれを」



「クラウスから聞いていました。もし自分に何かあったら、妻に手紙を渡してほしいと」



「夫がそんなことを——」



「ええ。北方に発つ前に。あの人は——自分が戻れない可能性を、覚悟していました」



胸が詰まった。



あの晩。「行ってきます」と言った夫の目。


あれは——別れの目だったのか。



「どういう意味ですか」



「あの手紙を読めば、あなたの人生は変わります。元には戻れません」



「それでも読みます」



「そう急がないでください。まず、一つだけ聞かせてほしい」



エレノアが身を乗り出した。



「あなたは、クラウスがなぜ死んだか、知っていますか」



「病だと聞いています。外交の任務中に体調を崩し——」



「嘘です」



エレノアの声が鋭くなった。



「クラウスは殺されました」





部屋の空気が凍った。



「殺された……?」



「正確には、殺されるように仕向けられた。外交の任務は罠でした。クラウスを国境の紛争地に送り込み、事故に見せかけて——」



「誰が」



「それを知るために、あの手紙が必要なのです」



手が震えた。


怒りと恐怖が混じった震えだった。



エレノアは立ち上がった。



「手紙を読む前に、知っておいてほしいことがあります」



「何ですか」



「クラウスは、あなたを守るために沈黙を選びました。手紙を渡さなかったのも、この屋敷に真実を持ち込まないためです」



「守る? 何から」



「王宮の闇から。クラウスは外交官として、あることに気づいてしまった。それが彼を殺した」



エレノアは扉に向かった。



「明日、もう一度来ます。それまでに覚悟を決めてください」



「待ってください。あなたはクラウスの何なんですか。知人だけでは——」



エレノアが足を止めた。



「クラウスは——私にとって戦友でした。同じ敵を追い、同じ真実を見た。それ以上でも以下でもありません」



「戦友——」



「彼が守りたかったのは、あなたです。それだけは確かです」



「覚悟?」



「手紙を読んだら、あなたも標的になる。クラウスがあなたを守ろうとした沈黙を——破ることになります」



エレノアが去った後、客間に一人残された。



手紙を取り出した。


封蝋にはヴァレンシュタイン家の紋章が押されている。


クラウスの筆跡で、私の名前。



(……クラウス。あなたは何を隠していたの。)



義母の言葉が蘇る。


「それを開けてはなりません」



エレノアの言葉が重なる。


「手紙を読めば、あなたの人生は変わります」



三年間の結婚生活を思い出す。


食卓での穏やかな会話。庭の薔薇の手入れ。書斎から漏れる灯りを見て、まだ仕事をしているのだと安心した夜。



けれど——あの安心は本物だったのか。


夫が書斎にこもっていた時間。あれは仕事ではなく——真実を記録する時間だったのかもしれない。



何も知らなかった。


何も気づかなかった。


隣にいたのに。



エレノアは「クラウスはあなたを守ろうとした」と言った。


義母は「開けてはならない」と言った。



二人の言葉に共通しているのは——私を真実から遠ざけようとしていること。



けれど、真実から遠ざけられたままでは——夫の死を、ただの病死として受け入れるしかない。



それは——嘘を受け入れるということだ。



嘘の上に築かれた平穏を、私は選べない。



三年間の穏やかな日々は、夫が命がけで守った嘘の上にあった。


その嘘を壊すことは、夫の努力を否定することになるのかもしれない。



けれど——嘘のまま生きることは、夫を知らないまま弔うことと同じだ。


穏やかな日々。優しい言葉。けれどときどき、夫の目に浮かんだ——あの暗い影。



私はあの影の正体を、一度も聞けなかった。


聞かなかった。


聞くのが怖かった。



けれど、もう夫はいない。



怖がっている場合ではない。



封蝋に指をかけた。



手紙の封を——切った。



中から出てきたのは、便箋一枚と——もう一通の、別の手紙だった。



便箋には、クラウスの字でこう書かれていた。



手が震える。



便箋を広げた。クラウスの字。


丁寧で、几帳面で、けれどところどころインクが滲んでいる。


書きながら——手が震えていたのかもしれない。



便箋には、クラウスの字でこう書かれていた。



「愛するリーゼロッテへ。この手紙は、私が知った真実と、あなたが知らない秘密について記したものです。同封した手紙は、私を追放した者の正体を示す証拠です。どうか——」



最後の一行で、便箋が途切れていた。



もう一通の手紙の差出人を確認した。



震えが止まらなかった。



差出人は——王太子ルートヴィヒ。



差出人の名を、三度読み返した。



王太子ルートヴィヒ。


夫の親友であり、この国の次の王。



その手紙には、夫を殺した命令が記されていた。


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