第一話 夫の書斎の二重底
夫が死んだ、と告げられたのは、薔薇が咲き終わる季節のことだった。
喪服の裾を踏みながら、私は一通の手紙を握りしめていた。
夫の名はクラウス。
ヴァレンシュタイン伯爵家の当主で、王宮の外交官だった。
結婚して三年。
穏やかで、優しくて、いつも少しだけ寂しそうな目をしていた。
書斎にこもる時間が長い人だった。
外交官の仕事が忙しいのだと思っていた。
夜遅くに帰宅して、食卓に座るとき、ふと遠い目をすることがあった。
何かを言いかけて、飲み込む——そんな仕草を、何度も見た。
聞かなかった。
聞けなかった。
踏み込めば、壊れてしまいそうな均衡があった。
夫はよく庭の薔薇の手入れをしていた。
深紅の品種が一番好きだと言っていた。
「薔薇は正直だよ。手をかけた分だけ、花で返してくれる」
あの言葉を思い出すたびに、胸が痛む。
夫は薔薇に向ける目と、私に向ける目が——少し違った。
薔薇には安堵の目。私には——守りたいものを見る目。
何を守ろうとしていたのだろう。
何から。
夫が北方へ発つ日、玄関で見送った。
振り返った横顔に、いつもの寂しさとは違う——覚悟のようなものが見えた。
あのとき私は、それを「仕事への責任感」だと思った。
今なら分かる。あれは、戻れないかもしれないと知った人の顔だった。
夫は旅支度を整えながら、書斎に一度だけ戻った。
何かをしまう音がした。
引き出しが閉まる音。
あれが——二重底に手紙を隠した瞬間だったのだろう。
私には笑顔だけを残して、真実は引き出しの奥に閉じ込めた。
優しい人だった。
優しすぎた。
けれど、もう守られる側ではいたくない。
手紙を胸に抱えて、目を閉じた。
夫の匂いがかすかに残る枕の横で、決意が静かに固まっていった。
そして翌日——見知らぬ女性が、私の前に再び現れることになる。
その出会いが、すべてを動かす。
夫が遺した手紙と共に。
眠れない夜の向こうに、答えが待っている。
夫は優しい人だった。
けれどその優しさの裏側に、何が隠されていたのか。
私は知ろうとしなかった。
手紙は夫の書斎の、二重底の引き出しから見つかった。
封は切られていない。宛名は——私。
二重底の存在自体、知らなかった。
書斎は夫の聖域で、私が足を踏み入れることはほとんどなかった。
遺品の整理をしなければと思い立ち、初めて引き出しの奥まで手を伸ばした。
底板がわずかにずれた。
指先に、紙の感触。
封蝋にはヴァレンシュタイン家の紋章。
夫の筆跡で、丁寧に書かれた私の名前。
いつ書いたものだろう。
なぜ渡してくれなかったのだろう。
書斎の机の上には、万年筆が一本。
インクは乾いていた。最後に使われたのは、夫が北方に発つ前の晩だったのだろう。
あの晩のことを思い出す。
北方への出発を告げられた日の夕食。
夫は私の好きな料理を作ってくれた。
外交官なのに、料理が上手い人だった。
「どうしたの。今日は随分張り切って」
聞くと、夫は少し笑った。
けれどその笑顔が——いつもより一拍遅かった。
食後に二人で庭に出た。
薔薇がちょうど蕾をつけ始めた頃。
夫が私の手を取った。
冷たい手だった。春なのに。
「リーゼ。何があっても——君はここにいてくれ」
「どこにも行かないわよ。何の話?」
「……なんでもない」
手を離された。
あのとき引き留めていれば。もっと問い詰めていれば。
後悔は、薔薇のとげのように——触れるたびに血を流す。
窓辺に座り、庭を見下ろした。
月光に照らされた薔薇園。
あの薔薇を植えたのは、結婚して最初の春だった。
夫と二人で、土を掘り、苗を植えた。
私は土いじりが下手で、手袋を汚してばかりいた。
「大丈夫。薔薇は強い花だよ。少しくらい雑に扱っても、根さえ守れば咲く」
夫はそう言って笑った。
あのとき、夫が「根さえ守れば」と言った意味が——今なら分かる気がする。
夫が守ろうとしたのは、この家の根。真実という根。
土の上に咲く花は散っても、根は地中で生き続ける。
だから手紙を遺した。
根を——私に託した。
いつもより長く、私の顔を見ていた。
何か言いたそうだった。
けれど、何も言わなかった。
「行ってきます」
それが、最後の言葉だった。
(……なぜ、渡してくれなかったのだろう。)
葬儀の列に並ぶ人々の顔を眺めた。
王宮の重臣たち。外交官の同僚たち。黒い服の海。
その中に、見覚えのない女性がいた。
金の髪に、深い紫の瞳。喪服なのに、まるで夜会に来たかのような佇まい。
彼女は棺の前で一瞬だけ足を止め、何かを唇で呟いた。
その横顔は——泣いているのか、笑っているのか、私には読み取れなかった。
葬儀の列は長かった。
夫が多くの人に慕われていたことを、改めて知った。
同僚の外交官たちが口々に言った。
「誠実な方でした」「惜しい人を亡くした」「国の損失です」
どの言葉も本心だったと思う。
けれど、誰も——夫が何を抱えていたのかは語らなかった。
葬儀が終わり、参列者が去っていく。
黒い服の波が引いていく。
残されたのは、私と、庭の薔薇と、懐の手紙だけ。
手紙の封を切ろうとした。
けれど——その瞬間、義母が私の手を掴んだ。
「それを開けてはなりません」
義母の目は、悲しみではなく——恐怖に染まっていた。
義母ヘルミーネは、普段は穏やかな人だ。
屋敷の奥の部屋で静かに暮らし、庭の花を愛で、使用人のマルタと茶を飲む。
そんな日々を、何年も繰り返してきた人。
その義母が、震えている。
手紙を見た瞬間、顔色が変わった。
何を知っているのだろう。
この手紙に、何が書かれているのか。
問い詰めたかった。
けれど、義母の震えが——私の手を止めた。
義母の手首を握り返そうとした。
けれど、その力の強さに驚いた。
老いた指とは思えない力で、私の手を押さえている。
必死だった。何かを止めようとする、必死さだった。
手紙は未だ、封を切れないまま、私の懐にある。
夫が私に遺した手紙。
そこに書かれた、私が知らない真実。
それを知ったとき、私の人生は——もう一度、壊れることになる。
夜になった。
屋敷は静まりかえっている。
寝室の窓から、庭の薔薇が月に照らされているのが見えた。
夫が植えた薔薇。毎年、一番に咲くのは深紅の品種だと教えてくれた。
ベッドに横になる。
隣は空だ。もう三ヶ月前から、空のまま。
手紙を胸の上に置いた。
封蝋の凹凸が、肌に食い込む。
明日にでも読もう。
いや——読めるだろうか。
義母の恐怖。葬儀の見知らぬ女性。夫の寂しそうな目。
すべてが、この一通の手紙に繋がっている気がする。
眠れない夜が、始まった。
窓の外で薔薇が風に揺れた。
月明かりに照らされた花弁が、白く光っている。
ベッドの隣、クラウスの枕にはまだかすかに彼の匂いが残っている。
万年筆のインクと、庭の土と、石鹸の匂い。
その匂いが薄れていくのが怖い。
いつか完全に消えてしまうのが怖い。
けれどもっと怖いのは——夫を知らないまま、この匂いだけが残ること。
手紙を握りしめた。
明日、読もう。何が書かれていても。
そして翌日——見知らぬ女性が、私の前に再び現れることになる。




