声の記憶
その声を聞いた瞬間、神原の世界は一度、止まった。
2年生の春
日差しが差し込む教室で、転校生の少女が自己紹介をしていた。
何の変哲もない挨拶。だが、言葉の抑揚、語尾の丸み、どこか微笑むような声の震え――。
なにより顔が…
それは、
まるで、かつての妻の声だった。
(……嘘だろ)
何かが胸の奥で軋んだ。
何十年も前に聞いたはずの声が、今ここにあった。
「こんなことあるのか…」
神原は息をひそめる。
そのまま顔を上げられずに、じっと机の木目を見つめていた。
少女の名は「瑞希」という。
どこにでもいそうな名だった。
だが、神原の記憶にある亡くなった妻の「瑞穂」という名と、あまりに響きが似ていた。
神原は無意識で彼女を目で追っていた。
「見てはいけない」と思いながら、目は止まらない。
やがて彼女が誰かと笑いながら話す横顔を見た瞬間、
胸の奥から、ひどく懐かしい痛みが込み上げてきた。
(……俺は)
(俺は、もうこの世界に未練なんて持たないはずだったのに)
自分の決意が揺らいでいた。
自分は彼女を、誰かと重ねて見ている。
それが間違っていることも、ずるいこともわかっている。
だが――
(もし、もう一度会えるなら)
そんな考えが頭をよぎるだけで、神原は目を閉じて、静かに心を叱った。
それでも、その夜、彼は何度も、彼女の声が耳の奥で響くのを止められなかった。
「似ていた」
瑞希の笑顔が、また教室を照らす。
何でもない会話の中に、柔らかい気配が溶け込んでいる。
神原は、気づけば目で追っていた。
廊下でも、教室でも。
そのしぐさ、声、佇まい、どれもが記憶に触れるたびに胸の奥がざわめいた。
ある日、瑞希とすれ違ったとき、神原は思わず小さく会釈をした。
瑞希は少し驚いたように、それでもにこやかに頷き返した。
それだけの、ささいな出来事。
けれど、それを見ていた者がいた。
「……あの子のこと、知り合い?」
放課後、静かな空き教室で、雨宮が不意に切り出した。
神原は瞬間的に顔を強張らせる。
瑞希の名を伏せたまま、彼女のことを聞かれるとは思っていなかった。
「……どうしてそう思うんだ?」
「だって、会釈してた。しかも、妙に……丁寧だった。いつもの神原くんじゃなかった」
鋭い。さすが雨宮だった。
神原はごまかそうとしたが、言葉が出てこない。
目をそらした。
(落ち着け、神原……)
「昔の、幼馴染に……ちょっと似ててさ(笑)」
言葉にしてしまったとき、神原は軽く舌打ちしたい気分になった。
だが、それ以上の言い訳が思いつかなかった。
天宮は少し黙って、神原の横顔を見つめる。
静かな空気。けれどその内側は、煮え立つような疑問が渦巻いていた。
「ふぅん……幼馴染、ね」
天宮は唇をかすかに歪めた。
どこか棘を含んだ言い方だった。
「そういうこと、言えるんだ」
「……ん?」
「自分から、そんなにパーソナルなこと、話すんだ。珍しいね」
その言葉には、疑念と苛立ちと、自分でも説明のつかない感情が滲んでいた。
雨宮自身、どうして自分がこれほど胸をざわつかせているのかわからなかった。
ただ――悔しい、と感じていた。
神原はそれ以上、何も言わなかった。
普段なら軽くいなすところだが、この時ばかりは、まるで言葉が届かないかのようだった。
天宮は机に置いていたペンを拾い上げながら、ふとため息をついた。
「……あの子のこと、好きなの?(笑)」
一瞬、空気が止まった。
神原は、それに答えられなかった。
それが答えだった。




