「帰り道にふたつの声」
「……今日は、ありがとう」
玄関の前で、詩はまなみに小さな声で言った。
その声はわずかに震えていて、かすかに鼻をすする音が混じっていた。
「ううん、こちらこそ。……また、いつでも来て」
まなみが微笑む。
詩はこくんとうなずくと、俯いたまま靴を履いた。
神原もそのあとに続いて玄関を出る。
まなみが小さく手を振ると、詩もぎこちなく手を振り返した。
二人で並んで歩く道は、ほんの少しだけ風が冷たかった。
通りの電灯がぽつぽつと歩道を照らし、虫の声が遠くからかすかに聞こえる。
しばらく黙っていた詩が、ポツリと声を漏らした。
「……あの、神原くん」
神原は歩く速度を少し緩めて、詩のほうを見た。
「……ありがとう。……今日のこと。……その、全部……」
神原は小さく頷いた。
「……うん。よかったね。楽しかったね(笑)」
詩は少しうつむいたまま、吐き出すように言った。
「……お父さんね、たぶん頑張ってるの。……だけど、帰ってこない時間が続くと、寂しいなって思うの……」
神原は空を見上げ、しばらく黙っていた。
「……寂しいと思うよ。そりゃあ、当然」
彼はゆっくりと、詩の横顔に目を向けた。
「でもね、……お父さんも、寂しいと思う。もしかしたら、きっと、君以上に」
詩はゆっくりと視線を向けた。
神原の声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているような響きだった。
「……二人で一緒に乗り切ってほしい。今はきっと苦しいけど、きっと乗り越えられる。……それから、もしまた手料理が食べたくなったら、いつでも作ってあげるよ」
詩は足を止めた。
「え……なんで、そんなにしてくれるの?」
神原も足を止めた。
口元に少しだけ笑みを浮かべて、ほんのわずかに首を傾げた。
「さあね……贖罪、かな」
「……え?」
「……なんでもないよ」
神原は肩をすくめて笑ってごまかした。
詩はしばらく考え込むように黙っていた。
でも、その「贖罪」という言葉が、何かとても深い意味をもっているような気がしていた。
それは今の自分には理解できない種類のものなのかもしれない、とも思った。
神原の頭の中では、過去の光景がひっそりと流れていた。
仕事に追われ、夜に帰ると、子どもたちはもう眠っていた。
朝も弁当を持たせるので精一杯で、会話らしい会話はなかった。
寂しいと言ってくれる時間すら、なかった。
あのとき、自分はただただ日々をこなすだけで、
子どもたちの気持ちにも、自分の寂しさにも、きちんと向き合えなかった。
「父親ってね、……寂しくても、あんまりそれを口に出せないものなんだよ。……特に男親はね」
神原の言葉は、静かだった。
詩は、なにか胸の奥にぽたりと落ちる感触を覚えた。
「……うちの父も、そうかな」
「うん。……きっと、そうだと思うよ」
二人はまた歩き出した。
ゆっくりと、夜の帰り道を。
風がほんの少しだけ、やわらかくなった気がした。




