「あの頃と、いま」
まなみの家の台所には、三人分の足音と湯気と、にんじんの甘い匂いが満ちていた。
鍋のふたがコトコトと揺れ、卵焼きの香ばしい香りが広がる。
「……は、早っ……」
まなみが、思わず息をのんだ。
神原がリズミカルにまな板の上で包丁を走らせている。野菜はあっという間に揃った大きさに切り揃えられ、煮込み用の鍋に美しく並べられていく。
「なんか……テレビで見る料理人みたいだね……」
詩が思わず漏らす。
最初はまなみと詩に任せていたが、とても見られたものではなく…怪我されても大変だし、なにしろ食材が無駄になるのが耐えられなかった(笑)結局、神原がほぼ全部やることに…
「……いや、そんな大層なもんじゃないよ。毎日やってりゃ、自然とこうなるだけ」
神原はそう言って微笑むと、手を止めずにフライパンを振る。手際よく味を調え、火加減を見ながらふたりに少しずつ指示を出していく。
「まなみさん、そっちの味噌とってくれる? 詩さん、こっちの皿にお箸を並べておいてくれるかな」
ふたりとも素直に動きながら、やがて顔を見合わせた。
「……まるで主婦だね、これ……」
「……うん、ほんとに」
やがて食卓に湯気が揃った。豚汁、ほうれん草のおひたし、卵焼きに、炊きたてのご飯。
どれも派手さはないが、心がほどけるような香りが漂っていた。
「いただきます」
三人そろって手を合わせる。
会話ははじめ少なかったが、まなみも詩も、次第に自然に笑い、話し、よく食べた。
食後、まなみが「私、洗うね!」と立ち上がろうとした時、神原が制した。
「大丈夫、僕にまかせて。……二人はゆっくりしてて」
そう言うやいなや、神原はすぐさま台所へ立ち、まるで計算された動きのように洗い物を始める。
湯の温度、洗剤の量、すすぎの順番。まったく無駄がない。
まなみと詩は、ソファ越しに顔を並べて、ただ唖然とそれを見ていた。
「……すごい」
「ほんとに、主婦……ていうか、慣れてるっていうか……」
神原は水の音の中で、ふと小さく息をついた。
そして、誰にも聞こえないような声で、ぽつりとつぶやいた。
「……俺も……がんばってたんだなぁ……あの頃」
それは思い出だった。
子供達を保育園に迎えに行き、小さな手を引いてスーパーへ行き、熱の出た夜は一晩中看病した。
朝は眠気をこらえて弁当をつくり、夜は食器を洗ってから、子どもたちの寝顔を見てひとりで泣いた。
誰にも言わなかった。言えなかった。
「寂しい…」とは…
誰かに「大変だったね」と言われたかったわけじゃない。ただ、わかってほしいとも思わなかった。ただ、そうするしかなかっただけだ。
神原の手は、静かに最後の食器を布巾で拭きあげた。
まなみが小さな声で言った。
「……ねぇ、今、なんか言った?」
詩も同じように首をかしげる。
神原は振り返り、ふたりを見て、にこりと笑った。
「ん? ……いや、なんでもないよ。さあ、デザートにアイスでもある?」
その笑顔は、どこか懐かしさを帯びていた。
そしてふたりはそれ以上聞かず、ただ小さく笑って、冷凍庫へと向かった。




