第一章 The Gong of Rebirth
怪異――。それはこの世界に於いて人間や動物の体内に潜む実体がなく、宿主か怪異自身の意志で分離が可能で、その際に怪異は人間や動物のように実体を持つ存在になるという今までの科学が一切通用しないもののため科学的にその存在を完璧に証明できず、未だ多くの謎が解明されていない生命体。基本は宿主やその他の生物に攻撃することはなく、人間社会での共存も可能とされていたが、現在ではその可能性は大きく減少している。
西暦二〇三〇年、確認されている中で初めて怪異が人間を襲う事件が日本国内にて発生。被害者の命に別状は無く、迅速に当該怪異の排除は遂行されたもののこの事件は人類に怪異の危険性を知らしめ、怪異を滅ぼす目的で設立された違法組織や中立的な怪異の保護のために政府や警察でも怪異特殊事例対処班――通称 MSCDG――や、無害怪異保護団体――通称 HMPG――の設立を余儀なくされた。
そんな中、有害な怪異のみを討伐し、生態系や社会環境の保護を目的とする非政府組織――日本怪異狩人団体が二〇三五年に設立。しかし、自らの利益のみを優先する内部の人間による報告書改竄や、その報告書によって無害な怪異を討伐してしまうという、組織の本来の目的に反す事例が相次いで発生。一般市民からの評価はどん底に落ちていた。
革命が起きたのは二〇三七年、当時団体の長であった伊藤光春がテロ組織と思われる人物に暗殺され、当時二十歳の代理団長であったアージ・バロンが長となった。これによって利益を搾取していた団員は次々に解雇、または自主脱退し民衆の評価を取り戻した。さらに、再び不正な事例が発生しないようアージによって怪異狩人内の法律ともいえる「怪異狩人規定」が制定された。後にこの革命は「狩人の反逆」と呼ばれるようになった。
革命から三年後――。二〇四〇年の徐々に温かくなってきた立春の頃だった。
日本の小さな繁華街の裏道にて、再び怪異が人間を襲う事例が確認された。今回の事件で被害にあったのは未成年の男女二名。男性の政田隼人は右腕、後頭部に傷を負うも命に別状は無し。女性の檜木香織は腹部、両腕、両足を切り裂かれ、駆け付けた救急救命士がその場で死亡を確認。日本国内で約半年ぶりに怪異による殺人事件が発生した。
その一週間後。日本怪異狩人団体本部最上階にて――。
「団長、今回起きた事件の報告書ができました」
微かにジャズの音色が流れる質素な部屋で、時々ズレる黒色の眼鏡を目元に抑え、黒色のショートヘアから寝癖が出ていないかを気にしながら数枚の資料に書かれた文面を確認するのが、先述した日本怪異狩人団体現団長、アージ・バロン。
「成程……つまり今回討伐した怪異は、本来あのような狭い場所には現れないと?」アージが報告書を作成した長髪の女性団員に視線を向けながら問う。女性団員は目に被さる前髪を耳元になびかせながらアージに説明する。
「はい。本来あのような危険性の高い怪異は大都会または人間の手が加わっていない山でしか発見報告を確認していません。そのような怪異があの場所に現れたとなると、一部区域で更に凶暴な存在によって生態系の破壊が行われているか、何者かが意図して怪異を呼び寄せたかのどちらかしかあり得ません。そして調査班は今回の事例は後者の原因であると結論を出しました」
「ふむ……怪異のこととは別に聞きたいことがあるのですが、何故被害者である男子――政田隼人がここの留置所に留置されているのですか?」
その質問に女性団員は口を少し塞いだ後、少々震えた声で話す。
「それは……申し訳ありませんが答えられません…………」
「…………分かりました。その点については私が対処しましょう。貴方は少しここでお茶でも飲んでいてください。私の姉がお茶を淹れ、暇であれば貴方の話し相手になってくれるはずです」
苛立ちを隠しつつアージはそう言い残し、しなやかな動きで団長室を離れた。彼はなぜあの女性団員が震えた声で話していたのか、ある程度の予想がついていた。
そしてその人物が何をするのかも、とっくに見当がついていた。
日本怪異狩人団体本部、地下一階の留置所。ここには本来、怪異を使った犯罪行為を行った人間が裁判による判決が出されるまで留置されている。そして、ここでは重大な怪異犯罪を犯した人間の死刑を執行するための施設でもある。
「いい加減言ったらどうだ? 自分で怪異を呼び寄せ、自分の彼女を殺したと」
「何回も言ってるだろ……。俺はやってねぇ」
死刑執行用の器具が常備されている小さな尋問室で、代理団長の役に就いている七十五歳の宮本昌晃が怪異由来のエネルギーで両腕を縛られ椅子に座らされている十六歳の隼人に恐喝のような尋問をしていた。
「先週も言わなかったか? 俺はもうお前と話す気はないって。それでもこうやって尋問してるよな?」
「犯罪者は追い詰めれば本音を吐くからな。それに死刑執行まで持っていけば莫大な利益を得る事が出来るのだよ」
「…………本当に最低なクズだな、お前」
「そんな事を言えるのも今日で終わりだぞ、隼人よ」
昌晃はそう言いながら部屋のドアまで歩き、小窓から人を誘う仕草をした後にまた隼人の前に戻ってきた。
「言い忘れていたが、今日がお前の命日になる」
「…………は?」
その瞬間、ドアが開き一人の男が部屋に入ってきた。隼人よりもほんの少し年上で、灰色のハイネックジャージを着ている。左耳にかかるおくれ毛は一部分が白くなっている。
「彼は今村佑人、君の死刑執行人だ」
優しいような、小さな餌を見つめるような目つきで佑人は隼人を見る。彼の右手には小さな拳銃が握られているのを見て、隼人は迫りくる死に震えた。
「儂は金のことが好きだが人の血は嫌いなものでね。このあたりで帰らせてもらおう」
昌晃は勝ち誇った表情で部屋を去った。震えあがる隼人に、佑人は徐々に近づく。彼が近づくほど、自分の心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。目の前で彼女が惨殺されるのを見て、生きる気力はとっくに消え去ったはずなのに、それでも早くなる心臓の鼓動。彼の本心はまだ生きていたかったのだ。
「あー……自己紹介ちゃんとしてなかったな、あのオッサンに軽く言われただけで。」
佑人は立ち止まり、銃を腰のガンホルダーに取り付け、隼人に話し始めた。
「俺は今村佑人、厳密には怪異狩人じゃないんだけど、ここの団長のアージさんに無理言ってこの本部にいるんだ。今は現職の狩人の補佐とか、教育係とかをしてる。んでホントたまになんだけど、こんな感じで死刑の執行もしている」
佑人は少しずつ声色を変え、ガンホルダーに取り付けていた銃を取り出し、銃の撃鉄を起こした。
「俺は身分が低いからあんまり上のやつの命令に逆らえないんだよね……だからごめん、君が冤罪だとしても俺は君の命を奪わなくちゃいけないんだ」
佑人は銃口を隼人の額に向け、重いトリガーに指を添えた。隼人は目の前に迫った死に、ただただ涙を流し震えることしかできなかった。
「最期に何か言いたいことがあったら言って。ちゃんと待つからさ」
隼人は涙でぐちゃぐちゃになった顔で言葉を途切らせながら自分の思いを話す。
「俺…………まだ生きていたいです……やってないって証明して、あいつの分も生きていたいです…………」
「…………そうか」
佑人はトリガーに添えてあった指を動かし、銃弾を撃った。
…………。
部屋に響く銃声、火薬の無くなった薬莢が地面に転がる音。そして、地面に現れた銃弾の痕跡。
「え…………俺、生きて……」
「これで三人目だな……この偽装工作は」
佑人は銃を再びガンホルダーに取り付け、混乱している隼人に話しかける。
「言い忘れていたことがある。あの事件のことだ。あの場所には確かに本来繁華街のような場所に現れることのない怪異の痕跡があった。だがそれとは別に、あの周辺で本来存在するはずのない怪異、多分ソイツがあの怪異をおびき寄せたんだろうけどとにかくその痕跡らしきものが見つかった。特に君の彼女さん、檜木香織さんの近くにね」
佑人は話しながら隼人の腕を縛り付けていた拘束機に人差し指を当て、ロックを解除した。
「恐らくソイツは特定の人物に反応する。だがどうにも反応する人間を見つけられなくてな。てなわけで殺さなかった代わりに頼みを聞いてくれないか?」
「…………はい?」
「頼みたいことは簡単、君には第二の人生がてら怪異狩人になってもらう。そして謎の怪異の適正人物なのか確かめさせてくれ」
「え?」
唐突な展開に、隼人の混乱は深まるばかりだった。もう少し細かく説明しとくべきだった。佑人は多少の後悔をしつつ話を続ける。
「返事は二週間以内でいい。今後の人生に関わることだしな。それにけっこう疲れてるだろ? 部屋は手配しとくからそこで旨い飯でも食ってゆっくり休め。細かい説明はそれからだ」
隼人は佑人が予め呼んだ心理士にされるがまま留置所を離れ、佑人が手配していた部屋に連れていかれた。
「今回ばかりは見逃せんぞ、佑人よ」
入れ替わるように、尋問室に昌晃が入る。
「儂は警告していたぞ、次死刑執行を放棄したらこの場でお前と被執行者を殺すと」
「は? お前そんなこと言ってた?」
佑人はキョトンとした表情で昌晃を見るや否や、昌晃は裾に潜めていた折り畳み式ナイフを右手に握った。
「仏の顔も三度迄……低い身分のお前には、後のことを考えれば儂を殺すことはできん事くらい分かっておろう。故に儂はお前を簡単に殺せる」
「何言ってんだお前? ナイフごときじゃ死なないぞ俺は?」
佑人の声も耳にせず昌晃がナイフの刃を突きつけ、佑人の胸にナイフを突き刺そうとしたその瞬間だった。
「やはり三年前の革命の時に貴方も消せば良かったですね」
ナイフを持つ昌晃の腕が、ナイフの刃が佑人に刺さる寸前で静止している。昌晃は腕を動かそうとするが静止した腕は昌晃の思い通りに動くことはなく、それはまるで催眠術をかけられたようだった。
「御無事ですか、佑人さん」
「ええ、まぁあんなので刺されても大してケガなんてしないですけどね」
部屋にはアージがいる。彼はドアの音や足音も鳴らさず、当たり前のように存在する空気に擬態するかのように気づいた時にはそこにいた。
「さて、宮本昌晃さん。あなたには今から選択肢を与えます。どちらを味わうか御自身で決断してください」
「な…………何を言っている……」
困惑する昌晃を横目に、アージは淡々と話を続ける。
「ひとつ。この留置所で永遠に暮らし、犯した罪を生きて償うか。ふたつ。今すぐこの場で死に、あの世で罪を償うか」
「どちらも御免じゃな。命や時間を捧げるくらいなら今まで稼いだ金を全てくれてやる」
アージはこの期に及んでまだ自らの命という利益を得ようとする昌晃の態度に呆れ、佑人に自身へ拳銃を貸すよう促し、その銃の撃鉄を起こして動けない昌晃の喉元に銃口を向けた。
「ならば仕方ありません。これより、怪異狩人規定第二十八条に基づき宮本昌晃の死刑を執行します」
「ま……待て! 金はやると言っておるではな――」
昌晃の最期の言葉を待たず、アージは彼の喉元を的確に撃ち抜き、的確に彼の命を奪った。先ほども聞こえた銃声と薬莢が落ちる音に加え、血の滴る音が部屋に流れる。
…………。
ひと時の静寂が流れ、アージは佑人に拳銃を返した後、彼に聞いた。
「隼人さんのこと、どうするおつもりですか?」
佑人は躊躇いもせず答えた。
「あいつは俺が立派な狩人にします。あいつは大切なものを目の前で失う痛みを知っている。これほど強い武器は無いですよ、アージさん」
拒否されたらお終いですけどね、と佑人は笑いながらアージに話す。
昌晃の死は本部内でテロ組織による暗殺ではないかと噂となった。だが昌晃の人間性の低さが災いしたのか、気づいた頃には誰も昌晃のことを話さなくなった。
其れから二週間後――。
「改めて、本当にありがとうございます。性的搾取が怖くてずっと話せなかったんですが、団長とあなたのおかげで助かりました」
団長室にはアージや佑人、二週間前にアージへ報告書を提出したあの女性団員、アージの姉と思しき人物、そして隼人が集まっていた。
「あなた自身への被害が未然に防げて良かったです。念の為労働環境の確認として一ヵ月以内に貴方の部署へ訪問しますので、その旨を貴方の同僚にお伝えください」
「はい、伝えておきます」
用事を終えた女性団員は足早に団長室を去った。四人だけになった部屋の中で、再びアージが口を開けた。
「隼人さんとは初めてお話をするので改めて自己紹介をしておきましょう。私はアージ・バロン、ご存じの通りここの団長です。そして私の隣にいるのが――」
アージの隣に立っていた焦げ茶色のロングヘアで、ネクタイのようにスカーフをつけた人物が、隼人に近づき食い気味で話し始めた。
「アンタが隼人かぁー! 佑人に似ていい顔してるじゃん! あ、名前言っとかないと……。ウチはライ・バロン。あんまり表に出ることはないけどこれでもコイツの姉よ」
ライと名乗る女性は、親指でアージを指差す。
「姉様…………いくら貴方の性格を考慮してもさすがに初対面の人にも食いつくのは失礼なんじゃないんですか?」
アージが呆れながら話すのを見て、ライはアージに喧嘩腰で話す。
「何よ? あっ……もしかしてウチがそんなに他の男と話してるの嫌なの? シスコン?」
「…………私はシスコンじゃないです」
「いやいやシスコンだってぇ! アンタ昔ウチに言ったこと忘れた? 大きくなったら姉様と――」
「それ今言ったらいくら姉様でも容赦しませんよ……!」
アージが少しずつ痺れを切らしている所に、ライがとどめの一言を放つ。
「まーでも? 私は年齢差プラマイ五年辺りしか興味がないから百五十五歳で恋愛未経験のアンタは私を口説けないわよ?」
一瞬アージが黙り込み、冷たい空気が流れる中で、アージも負けじと言葉の攻撃を始める。
「貴方も私と二十年ほど年の差があるのによくそんなことが言えますね……!」
「はぁ? アンタ私を百七十五歳の未婚ババアだって言いたいわけ!?」
誰も細かい歳のことは言ってないし何なら未婚ババアなんて一言も言ってないだろ、と火元から離れている二人は思った。
段々ヒートアップする姉弟喧嘩を横目に何が起こっているのか分からない隼人に佑人が声をかける。
「あの二人はいつもああだからな……。それはそれとしてあれからどう? 結局何も説明してやれなかったけど怪異狩人になるか決めた?」
隼人は佑人をじっと見つめた後、一瞬顔を曇らせ右下を向き、また佑人のいる方を見つめ、瞬きを数回した後に、答えた。
「……はい、俺ちょっと迷いましたけど決めました。怪異狩人になりたいです」
断るかと思っていた隼人の決意に、佑人は少し口角を上げた。それと共に、佑人は隼人に対する少々の緊張も解け、彼もまたひとつの決意を掲げた。
「…………分かった。ならその前にやって欲しいことがある」
「例の怪異の話ですね?」
「ああ、この二人は放っといてあの繁華街に行こう。トラウマを蘇らせるようで申し訳ないけどな。下手したら両方死ぬかもしれないくらいヤバいものだ。気を張れよ」
「分かりました。先輩」
俺は先輩じゃないんだけどな。佑人はそのことを言おうと思ったが何故か先輩と言われるのが気に入り先輩じゃないと言えなくなった。
「あれ? もしかして早速仕事に連れて行く気?」
喧嘩が終わったとみられるライが佑人に話しかける。
「隼人じゃないとできないようなことなんです。わざわざ研修用の怪異を消費するよりも効率的だと思ったんですが……」
「あー。まぁ確かに。ならその件は佑人に任せるわ。いいよね? アージ」
いつの間にか何食わぬ顔で自分の椅子に座っていたアージが先程まで読んでいた海外のものと思われる本を閉じて答えた。
「構いませんよ。そのかわり報告書は我々上層部ではなく現場の監修をする佑人さんに作ってもらいます」
「分かりました。んじゃ行くか、隼人」
そうして佑人は隼人を連れて事件の起きた繁華街へ足を運んだ。あの姉弟がどうやって喧嘩を終わらせたのかは佑人でさえも良く分かっていないようだった。
「なんだか久しぶりにこの町の空気を吸う気がします」
「そうだな…………一ヵ月くらい帰ってこれなかったもんな」
そこは隼人にとっては故郷と言ってもいいほど長らく住んでいた町だった。かつて――事件の起きる前――は一日に数百人が通行し、買い物を行う少し賑わいのある町だった。だがあの事件以降は呪いの繁華街として恐れられ、全ての店のシャッターが閉ざされて、いわゆるシャッター街と言われるようになった。
「静かですね……。前までは人がいたのに…………」
「一度いわくがついたら皆恐れて来なくなる。こういうところは野生化した怪異にはうってつけの住処だ。見えるだろ? 路地裏に住み着いてる怪異が」
そう言われ路地裏に振り向くと、そこには大きい猫のような黒い物体がごみ箱を荒らしている姿が見えた。まるで本物の野良猫のように、ごみ箱に入っている腐敗した食料を求めている。
「もしかしてあの怪異、猫が宿主だったりして…………」
「おっ、解ってるね隼人。その通り。ああいう野生の怪異……特に無害なやつはかつての宿主の生態を真似することが多い。ここの治安的にごみ箱を荒らす人間はいないだろうから、あれは野良猫に宿っていた怪異と見ていいだろうね。……というか何で怪異に宿主がいるって知ってるの?」
「前にニュースで怪異の基本知識みたいなのをほんの少し見て、それ以外のことは何にも分かんないです」
「事前知識でそのくらい分かってたら上等だと思うよ俺は」
話をしているうちに、二人は事件現場の路地裏に辿り着いた。そこにはまだ血のシミが床や壁にへばりついている。佑人は足早に路地裏の壁を見つめる。隼人は何も感じないが、佑人には異常な何かが見えているらしい。
「佑人先輩? そこに何かがあるんですか?」
「ああ……間違いない。痕跡が増えている。しかもついさっきできたやつが」
「……え? ついさっき?」
佑人は数秒黙り込み、まずいかもなと呟きながら隼人に緑色のマフラーを託した。
「マフラー? 今春ですよ?」
「もしとてつもなくヤバい奴が現れてお前に襲い掛かったらそれを盾にしろ。そのマフラーは怪異が放つエネルギーや攻撃を吸収する効果がある」
「ただのファッションじゃないんですね…………」
佑人の今までにない真剣な表情から、これ以上声をかけるのはやめておこうと隼人は思い、何かが来てもおかしくない為、不器用ながらも戦闘態勢を整えた。
数十秒の静寂が路地裏に流れる。急に凍える背筋。突然のしかかる圧力。二人はいつの間にか背中を合わせ、敵の襲来に備えていた。
「来るぞッ!」
隼人が両腕で守りを固めたその一瞬にして、二人の周囲は緑色の炎で囲まれた。上空から聞こえる龍の咆哮。上からの攻撃に備えようとした刹那、突然横から殴りかかる風圧に耐えられず、二人は路地裏から一気に店のシャッターへ叩きつけられてしまった。
「こいつ……一瞬で…………」
「痛ぇクソ…………頭から血が出た……」
隼人は頭の打ちどころが少し悪かったのか、頭を抱えながら立ち上がる。佑人も即座に立ち上がり、刀身の少し長いナイフを持ち戦闘態勢を立て直した。だが目の前に現れた翡翠色の炎で形成された龍の放つ圧力の重さと耳の鼓膜が破れそうなほど大きな咆哮に、彼の全身から戦意が抜けていった。
「ダメだ……こればっかりは死ぬ! 逃げるぞ隼――」
隼人と共に逃げようとしたが、龍は佑人めがけて緑色の炎を吐き、それを命中させた。
「なんだこれ!? 熱――」
緑色の炎は瞬時にして佑人を包み込み、まるで熱い鉄板でステーキを焼いているかの如く佑人を燃やしていく。命の危険を察した佑人は炎を振り払おうとしたが、それは彼に纏わり付いてしまい、到底振り払えるものではなくなった。頼みの綱であった佑人が緑色の炎に囚われている中、龍が次に標的としたのは隼人だった。
「嘘だろ……ゲームじゃあるまいしどうやってこいつから逃げれば――」
考える暇もなく、龍は緑色の炎を隼人に吐いた。隼人は迫りくる炎から逃れるために、炎の軌道に入っていない道路へ素早く移動した。だが龍は再び炎を隼人に向けて大量に吐き出した。どこへ避けようとしても避けたその場所にまた炎が着弾してしまうせいで、避け道がない。そのまま彼も燃やされ、全滅するかに思われた。
だが、隼人のマフラーが緑色の炎に吸い付くように近づき、その炎を文字通り吸い込んだ。
「は? なにこれ?」
突如として起きた謎の減少に、彼はただ呆然とするしかなかった。だがそんな暇もなく龍は隼人に向け緑色の炎を放つ。すると再びマフラーは炎に近づいて、同じように吸い込んだ。
――そういえばさっきまでの炎とあの龍、なんか似てるな……。もしかしてこれ、あの龍にも…………。
隼人はマフラーの力を試すために、マフラーを両腕に縛るように巻き付け、そのまま龍のいる方向へ走り出した。龍はより火力の高い炎を打ち込むも、マフラーは何ともないかのようにその炎を吸収する。
「くたばれ畜生がぁーーーッ!」
一心不乱の突進は龍に命中し、彼の思惑通り龍はマフラーに少しずつ吸い込まれていく。龍は身の危険を感じ、マフラーに守られていない無防備な隼人の頭に炎を吐いた。しかし隼人は押し込む力を弱めることなく、必死に龍をマフラーに吸い込ませていく。
「嫌がってないでとっとと入りやがれぇぇーーー!」
力を振り絞るも、龍の抵抗力が隼人の底力よりも勝っており、徐々に隼人は後ろへ追いやられていく。後十秒ほどしたら壁にめりこんでそのまま圧死してしまう。じりじりと迫りくる壁、のしかかる負荷に悲鳴を上げる脚。とうとう限界まで来ようとしたその時、龍の体はマフラーの中に入り切った。
「やっと……終わった…………」
疲労がのしかかり、隼人はその場に倒れた。龍が封印されたと同時に炎の束縛も解け、灰色の服が焦げて黒に近い色となった佑人も隼人のそばに戻った。
「お疲れ隼人。悪いな、全く役に立てなくて。あ、そのマフラーくれないか? その中に入ってる怪異を解析する必要があるからさ」
そう言われ、隼人は躊躇うことなく佑人にマフラーを渡した。
「……というか、このマフラーに守護能力以外のものがついていたとはな…………。何世紀も前に生成された怪魔具らしいし何かあの怪異と関係性があったのか?」
「怪魔具? 何ですかそのファンタジー的な響き?」
佑人がマフラーを見ながら呟いた独り言に仰向けで倒れている隼人が反応した。
「怪魔具ってのは基本怪異狩人としての実戦経験が少なかったり怪異をうまくコントロールできない狩人のサポートとして作られているものだ。中にはこのマフラーみたいに何世紀……下手したら紀元前から作られてるものもあるが、大抵のものは使うのに命を懸けないといけないからあんまり使われてないんだ」
「なんでそんな危険なシロモノが当たり前に存在するんですか?」
佑人は言葉を詰まらせながらも、マフラーを見つめながら答えた。
「怪異のこともだが、怪魔具も正直言って分からないことが多い。解明にはまだ多くの時間を必要とするだろうな……」
「んで……結局何だったんですかアレ…………」
「ここまでの異端性だと、恐らく神族に該当する怪異だ」
「シンゾク? 先輩の親族なんですかあれ?」
「いやいや違う。神の種族と書いて神族だ。現段階でも古い書物でしかその存在を確認できない奴らで、怪異の中でも極めて強く、原初の地球の管理者とかはたまたかつての世界の支配者とか考察が進んでるが真実は何も分かっていない都市伝説的存在の怪異だ。実際神族やそれに近い怪異の確認例は存在しない。ってそうだ、これをあいつに解析させないとな……。えーっとどこしまったっけか…………」
佑人は少々手間取りながらもポケットからスマホが主流の時代である現代では珍しい白色のガラケーを取り出し、慣れた手つきで番号を入力し、ガラケーを右耳に添える。
「ガラケー? 誰に電話してるんですか?」
「仕事仲間、それも怪異の解析とかに詳しい奴……おっ、繋がった」
佑人がガラケーで仕事仲間と対話している間、隼人には束の間の静寂が流れた。かつて繁栄していた町の中心とも言える繁華街が、今となってはコンクリートの抜け殻のように隼人は改めて感じた。それと共に、どこか心の中で穴が開いたような感覚もした。隼人の脳内には、かつての楽しかった頃の記憶が流れていた。ふと近くのシャッターに目を向けると、そこは昔学校の帰りに必ずと言っていいほど立ち寄っていたコロッケ屋だった。香織と食べていたコロッケの味を思い出し、少し泣きそうになった後、今は思い出に浸っている場合じゃないと自分に言い聞かせ、視界からそれを無理矢理排除した。
――隼人…………。
自分の耳元に、名を呼ぶ声が聞こえた。あの時守ることのできなかった、愛しき想い人の声だった。声のする方に急いで振り向いたが、誰もいない。隼人は昔に浸りすぎて香織の声が聞こえたのだろうと、勝手に思うことにした。そうでないとおかしいし、自分の隣に彼女がいるわけでもないから、そう思うしかなかったのだ。だがきっとどこかで香織は見守ってくれている。そう思うと隼人の中にあった微かな悩みは消えていった。
ふと佑人の方に目を向けると、丁度通話が終わったような雰囲気だった。
「悪いな、少し話が長くなっちまった。このマフラーは本部に持って行って、俺の仕事仲間に解析してもらう。今まであんまりしてなかったマフラーの性能解析も兼ねて……な。それにしてもあんなバケモノをいともたやすく封印できたこのマフラー……恐らく俺が封印を試みても失敗してただろうな。無意識とはいえ封印が出来たとなると、やっぱりお前が適正人物みたいだな」
「そう…………なんですね……。佑人先輩でも抑えられないようなバケモノに認められるってなんか変な気分するな…………」
隼人が安堵のため息をした直後、彼の身体はふわっと浮かんだ。それもそのはず、活力を取り戻した佑人が右腕一本で隼人を担いだからだ。
「えっ!? 何なんですかいきなり! というか俺重くないんですか!?」
「力はある方だからな。怪異の細かい調査は俺のダチに任せて、これから怪異狩人になるお前は俺が教育係をしている部署に行かないとな!」
「えぇ!? いくら何でも今から行くのはちょっと――」
隼人の静止も聞かず、佑人は原付バイクに近い速度で本部まで突っ走っていった。もちろん右腕に隼人を担いで落とさないようにしながら。
「わぁぁぁーーーっ!? 待って待って速いです速すぎますって佑人先輩! ただでさえも今きついのに風圧で俺の体グチャグチャになります!」
「なんて? 風の音で何言ってるか聞こえないんだが?」
絶叫する隼人を目にもせず、佑人は怪異狩人団体本部へ走って到着した。
「ふう…………毎日のトレーニングの代わりにはなったかな……」
「やばい…………吐きそう……」
汗をかきながら爽快な表情をする佑人と、冷や汗をかきながら今にも死にそうな表情をする隼人は、まさに正反対であった。
時は少し遡り佑人が走り出してわずか数秒が経った頃。シャッター街に残るのは、炎で焦げた床と静寂な空気のみになった。ただある一点を省いて――。
「もう消えたか…………少し出るのが遅かったな」
静寂のシャッター街に、一人の男の影があった。その周辺には、貪り食われた怪異の肉片や骨と、男を囲うように黒い鱗粉を吹き散らしながら舞っている五百円玉サイズの黒色の蝶が点在している。
「今村佑人と政田隼人だったか……。あの方のためにも、必ず仕留めなくては…………。特に我が弟である、佑人だけは……」
誰もいないシャッター街で、ぽつりと言葉を残し、謎の男もまたシャッター街を後にした。何匹かの黒蝶が散っている肉片に向かい、その肉片を食べた後、宿主と思しき男の元に戻った。