4-9 彩香の活劇
読んで頂いてありがとうございます。
誤字脱字のご指摘ありがとうございます。
彩香は、嘉陽学園大学の触媒回路工学科の4年生だから22歳の最上級生である。彩香の学科は、触媒回路で世界の最先端をいく大学の実用化を担うという位置づけである。だから、触媒回路工学科の教授はT大からやって来た水上省吾という人物で、真柄教授の元同僚であり極めて優秀である。
そして、触媒回路工学科には、R情報の生き字引である彩香がいるので、成果が上がらない訳がない。今や触媒回路工学科には研究室が4つあって、学生12人、院生25人がいて、内3つはそれぞれにドクターを持つ准教授が主宰して、毎年いくつもの発見や開発品を生み出している。
そのため、嘉陽学園大学工学部は1学年300人であるが、触媒回路工学科は100人を占めている。そして、留学生の枠が半分の50人で実際は55人という異様な構成になる。国内組は内部生が10人、外部生が40人であるが、その枠は競争率15倍の国内最難関学科である。
彩香がいる間にそんな風になってしまった訳だが、彼女が入学した時には定員50人で、内部生が20人だった。その後、研究室から様々な発見・開発が生まれるにつれ、外務省の圧力で留学生枠ができ、内部生枠も減らされた。
彩香は、しかし触媒回路だけに係わっている訳ではない。電子・電気、メカトロニクス、応用物理、化学等の工学科すべてについて、R情報の伝道者として係わっている。具体的には、各学科にR情報からこのような方法がある、あるいはこのような物の製作が可能との話を持ち込んでいる。
これは、涼の示唆によるものであるが、そのほぼ全てが、『画期的』と言える成果に結びついた。だから、彼女と話をしたい、また繋がりを付けようとする者が多いのは当然である。そのため、大学では2年生から彼女に部屋を与え、専属の秘書をつけている。
2035年の9月のある日、彩香は水上教授から呼ばれた。その会議室には、大学の工学部長結城と3人の訪問者がいるが一人は知っている。理化学研究所の、物性理学部助教授である水門由紀である。
「あら、水門助教授いらっしゃい」
思わず声をかけると相手から返ってくる。
「ええ、日向さん。お久しぶりね」
そこに、こほんと咳払いをして水上が話を始める。
「ええと、日向君、君について、文部科学省から来られた参事官の田上さんだ」
50年配に中背で細身の男性が、頭を下げて挨拶しながら名刺を出す。
「どうそよろしく、大学教育が担当の参事官の田上と申します」
「触媒回路工学科の日向彩香です」
戸惑いながら彩香は名刺を受け取る。さらに、他の2人は理化学研究所の副所長の長瀬良治氏と水門助教授である。
「まあ、どうぞ皆さんお座りください」
水上教授が言い、全員が腰かける。
最初に話を始めたのは、田上参事官であった。
「今日伺ったのは、日向彩香さんの卒業後のことです。まあ、言ってみれば理化学研究所からの貴女へのリクルートなのです。ですが、これはわが国の科学技術にとって重要なことになりますので、私も同行させて頂きました」
「ええ!私のリクルート?でも私はまだ学部の学生ですよ。確か、理学研究所は院卒しかとらないはず」
それに対して、研究所の長瀬副所長が温和な顔で答える。
「ええ、まあ原則はそうです。普通は学卒では、研究に入るのにまた教育が必要ですから。でも、貴女は違いますよね。この大学から出た、大変多くの研究と開発で主導的な役割をしている。多分、殆どあるいはすべては、いわゆるR情報に元づくものだろうと思っています。
しかし、それを貴女は消化して自分のものにして、その応用までできている。おそらく貴女はこの世界の科学的常識よりR情報の常識に染まっているのだと我々は想像しています。だから、次から次へと研究というか開発の種が出てくる。その貴女の存在を私共の研究所に欲しいのです」
長瀬は、最初はにこにこしていたが、最後の方は真剣な顔になっている。それを、水門がしきりに頷いて聞いている。そこに、大学の結城工学部長が口を挟む。
「うーん。しかし、我が学部には日向君が必要なのです。彼女は院に残ってくれると聞いていますし、なにしろ、彼女がいればこそ在学している研究者もいますから」
それに対して参事官の田上が反論する。
「ええ、貴学のその状況は把握しております。ですから、私が参った訳です。私も大学教育が担当ですから、貴学が大いに業績を上げていることは喜ばしいことです。しかし、客観的にみて、日向さんの能力をどちらが生かせるかと言えば、理化学研究所だと思います。
貴学では開発したものの試作などに苦労されているようですが、その点で研究所は試作所や多くの民間企業の伝手があります。そして、実用化しての量産にしても有利です。まあ、この点は小牧経産大臣と中神文科大臣に言われたことですが」
それに加えて、長瀬副所長が付け加える。
「もし、日向さんと絡んだ研究をしている方だったら当研究所で受け入れますよ」
そこで、水上教授が再度咳ばらいをして言う。
「うん、私としては君に院生として残って欲しい。まあでも、それは我々の研究のためだ。学生は卒業して去って行くものではあるからね。この件は君の意向次第だ。君が残りたいと思えば残るし、行きたいと思えば行けばよい」
またそこで、水門が手を少し上げて言う。
「すこし、彩香さんにある件で協力してもらった私から話をさせて下さい。私は彩香さんの最近の仕事を追いかけてみました。それで感じたのは少し行き詰まっているのじゃないかなって。まあ貴女は学生だから、特段業績を挙げる必要はないから、行き詰まるというのはおかしいけれどね。
でも、うち(研究所)に来れば変わると思う。無論大学の先生方は十分な研究者だけど、研究者の集まりのうちに来れば、また違った世界が見えると思う」
「うーん。そうですね。学生は卒業したら、去っていくものですよね。私は、一生の仕事として研究者になりたいかと言えば、そうでもないような気がします。でも、この3年の内の2年位は楽しかったし、やりがいもありました。でもそこが薄れてきたことは確かですね。
じゃあ、結城工学部長と水上教授には大変申し訳ありませんが、リクルートに応じようと思います」
彩香はそう言って結論を出した。彼女は涼に似ていて、余りものごとに悩まない。
―*-*-*-*-*-*-*-*-
「そうですか、彩香様は理化学研究所ですか。私は大学に残ると思っていましたが、違ったのですね。随分がっかりしている方も多いようですよ」
彩香が運転するスカイカーの助手席に座っている綾小路奈美恵がおっとりと言う。
「うん、まあマンネリだったしね。同じ学校に7年いれば十分よ」
彩香は、奈美恵と一緒の時でもお嬢様言葉は使わないし、奈美恵も気にしない。2人はそういうスタイルが身についてしまったのだ。彼らは今、綾小路家の別荘に向かっている。高度は1,000mで速度200㎞で街並みから離れて田園風景の上を飛んでいる。奈美恵はお嬢様だから免許は取らせてもらえない。
「どうなの、康之様は?」
康之は城田財閥の御曹司であり、奈美恵の幼いころからの婚約者である。政略結婚の相手であるが、そういう世界で育った奈美恵に不満はない。また、彼等は互に気に入っており、相思相愛の間柄と言っていいだろう。彩香も康之に何度か会っているが、中々の好青年である。だが、大学の成績はトップクラスだったらしいし、流石に鋭い所も垣間見える。
「ええ、大変らしいですわよ。会議には沢山出席する必要があるし、それもあって仕事はたまるし、夜遅くまで働くことも多いようですね。でも、毎晩短時間でも連絡を取り合っているのよ。『奈美恵の顔を見て声を聴くと元気がでる』のですって」
そう言って、両手で赤らめたほおを包む奈美恵に、砂糖を舐めた思いの彩香であるが話を合わせる。
「まあ、帝王教育よね。上に立って、大組織を率いていくのが判っているのだから仕方がないわね」
「ええ、私はそういう康之様を支えていかなくては」
そう言って拳を握る彼女に感心する彩香だったが、聞かれたくないことを聞かれてしまった。
「私は大学を卒業すると結婚式を挙げますけど、彩香様はまだお相手はいないのですか?」
「ええ、残念ながら、いないわ」
「多くの方々が貴女を追いかけているのに、皆大変な美男子ですよ。特に外国の人が多いような」
「ええ、ちょっとピンとこないのよ。それにだいたい美男子という存在は胡散臭くてねえ」
「胡散臭いですか?うーん、そうですかねえ、よくわかりませんが………」
実のところ、ブサ面の父と兄に慣れている彩香は、美男子に苦手意識があり、それが胡散臭いという口実になっている。そして、主として外人の美男子に追いかけられている彩香に、自信のないブサ面の若者は委縮して近づけない悪循環が起きている。
さて、彩香の運転するスカイカーは、綾小路家の別荘の発着場に着地する。流石に西洋風の5つの客室を有する立派なこの別荘は、5機のスカイカーを収納できる。スカイカーから降りる2人に、使用人が2人で迎え、荷物を受け取る。
さらに、玄関には3人の使用人が迎え、声を揃えて言う。
「「「お嬢様いらっしゃいませ。日向様もいらっしゃいませ」」」
この日は、別荘の近くのリンドウの群落を見るということでやってきたのだ。スカイカーなら1時間を要しないこの別荘に、彩香と奈美恵はちょくちょくやって来る。スカイカーは日向家が有する3機のうちの1機である。
ちなみに、日向家はすでに防衛省の家からは出て、村山市の元の家に近い場所に新しい家を建てて住んでいる。敷地は1000㎡あり、家は2階建ての延べ面積500㎡ほどある。都内へも駐機場がある所だと、通勤はスカイカーで行えるので、そうしている者も増えている。日向家はまさにそうだ。
その日は、別荘のコックの作ってくれた夕食を食べ、夜のガールズトークを楽しんだ2人は、翌日はお目当てのリンドウの群落を目指した。護衛代わりに2人の男と女性が一人付いてくる。うっそうとした森を抜けようとした時、2人の男が飛び出していて、使用人の2人をこん棒のようなもので殴り倒す。
さらに、女の使用人は首筋に手刀で失神させる。
「きゃあー」
奈美恵が悲鳴を上げる。彩香は驚きに息が詰まる思いはしたが、『冷着』モードに入る。そして、背負っていた小さなリュックから短い警棒と『それ』を取り出して、警棒は片手に掴み『それ』は腰にぶら下げる。奈美恵は少し普段よりラフではあるが、スニーカーにふんわりしたドレスである。
彩香はジーンズにパーカーで足元はスニーカーであり、背にはリュックを背負っている。長く護衛付きの生活をしていた彩香は、何があってもいいように、屋外を歩く時は動きを阻害しないような服装であり、原則として持つのはハンドバックでなくリュックである。
「ほお!こいつビビッていないな」
2人のマスクをつけた男の一人が、こん棒を持って彩香に向く。もう一人は、奈美恵に向かっているが、彼女は目を見張って凍りついている。
彩香は、警棒から仕込まれた粉を取り出し右手に握り、サッと投げつけた。だが男はこん棒で払った。しかし、運動量を持った粉は、男の目に入り思わず彼は目を閉じた。彩香は右手に握り変えた警棒をしっかり握って男の頭を思いっきり殴った。
「ゴン」という音と共に男は倒れたがそれを見もせずに、彩香は奈美恵に掴みかかろうとするもう一人に駆け寄り、その首すじを警棒で殴りつけた。男は勢いよく倒れて動かない。
しかし、彩香に油断はない。警棒を落とし、腰の『それ』を取り上げながら叫ぶ。
「誰!そこに隠れているのは?」
その声に5人の男がでてくる。先頭の男以外は、マスクで顔を隠している。たくましい体つきと油断のない動きからその種の仕事に手慣れていることが判る。
「梶田様!な、何でこんなことを!?」
口を手で覆って奈美恵が叫ぶ。
「お前が欲しいからだよ。お前を俺のものにしてやる。俺無しで生きていけないようにしてやるよ。そこの女はお前らにやるよ。中々可愛いいじゃないか」
三白眼のその男は、口をゆがめて奈美恵に向かってそう言い、次に彩香を舐めるように見て言う。それに男たちから下卑た笑いが起きる。
「おい、女。おとなしくしろ。こいつらはそこの間抜け共とはわけが違うぞ。おとなしく可愛がられるんだな」
そう言って、梶田という男は後ろにいる男たちに向かって顎をしゃくる。
しかし、彩香は、『それ』の安全装置を外し、ONのボタンを押て叫ぶ。
「馬鹿ども。甘く見るな!」
かすかなブンという音と共に、男たちがけいれんを起こして崩れ落ちる。まさにスタンガンで感電したような様子であるが、『それ』は高圧電流を放射する装置だ。10m以内であれば、致死性ではないが人間には耐えられない。大っぴらには使わないようにと、公安筋の了解を得て持っているものだ。
「ああ、彩香様!♡♡」
奈美恵があこがれの目で彩香を見る。
彩香は、奈美恵のその表情を見て顔を顰めながらも、スマホで警察を呼ぶ。それから、倒れた襲撃者の様子を確認し、倒された使用人の介護にかかる。その間、奈美恵は赤くなった頬を両手で包んでテキパキと動き回る彩香を見ている。
その後、警察が来て7人の男たちをパトカーに収容して連れて行き、使用人は救急車で病院に運ばれた。その時点では女性の使用人は目を覚ましたが、首筋の痛みを訴えていた。結局、別荘に最近臨時で雇った男が、奈美恵が来るという情報を漏らしたらしい。
その情報から、かねてから奈美恵に懸想していた、梶田グループの総帥の2男梶田良太郎が、付き合いのある暴力団の力を借りて犯行に及んだものであった。その日の夕刻、梶田グループの総帥である梶田竜太郎は日本最大の城田財閥から呼び出しを受けた。
その時点で、梶田竜太郎は息子が暴力の現行犯で逮捕されたことを知っていた。それもある令嬢を攫おうとしたと聞いている。力関係から言って、城田財閥から呼び出されたら断れない。戦々恐々として行った先には険しい顔をした総帥と、その孫である康之が待っていた。さらに、加えて皇室に近い綾小路康磨がいた。
竜太郎は、息子のやったことを聞かされた。流石に映像はないが、音声はばっちり彩香が録ってあった。1万人の部下に号令する彼が、膝をついて崩れ落ち土下座をして謝るしかなかった。
「これはいささか質が悪すぎるよね。奈美恵の友達が超人的な働きをしてくれたから助かったけど、そうでなければ、私の婚約者の奈美恵が貴方の薄汚い息子の奴隷になる所だったよ。あなたの息子は薬を使うのが得意らしいじゃないですか?」
康之が普段からは信じられない冷たい声で言う。
その件は、報道されることはなかった。そして、梶田グループは完全に城田財閥の傘下に入った。また、懲役2年の刑を終え出所した良太郎は、行方が分からなくなり消息を全く断ってしまった。良太郎など、身に合わない名前をつけるものではないということが囁かれた。




