八節・深部
啜り泣きが聞こえる。
体の感覚がない。
どこを見ても暗闇。
そうか、死んだのか、と思う。
では誰かが自分のために泣いているのだろうか。
「僕が情けなかったばっかりに」
「なら、次にその反省を活かしなさい」
眠くなるような声色。これはカデンファのものではない。誰だろうか。見当もつかない。泣いているのは、きっと、恐らく多分──クロヴィだ。
「泣かないで。貴方、男でしょう……?」
そうか、彼は男だったのか、と今更になってわかる。
起き上がろうとして、エスカリヴィオは呻き声をあげた。全身に痺れるような痛み。雷にでも打たれたのか。或いは、血の巡りが悪いのかもしれない。薄く目を開けて、天に向けられた手の甲を見る。深く刻まれた回路に流れる血。
外側の血管。
力を引き出す秘密。
ふと、回路が途切れたらどうなるのだろうと思う。そうなったら、あの獣じみた馬鹿力は出せなくなるのだろうか。
いや、生前──狩人として働いていた祖母は平気そうに振る舞っていた──だから、何ともないのだろう。それにきっと、傷と共に回路もたちどころに修復されてしまうのに違いない。
重たい頭を半ば無理矢理に持ち上げる。空は目蓋の裏と同じ色。降り注ぐ雪が白く光って見えた。手元には弓と矢筒、鋸に一本の槍が並べ置かれている。また後になって、真横には焚き火があるのだと気がついた。そこに、二人の男女──クロヴィともう一人、知らない女が切り株に座って佇んでいる。
青みがかった長い髪。前髪は綺麗に目元で切り揃えられている。思案気に目を瞑っては、手足を組んでいた。彼女の傍らには、大狼の首を刈り取るためだろうか──規格外の鎌が木に立てかけられている。
空から、白い雪が降り出した。
この真っ暗闇の中、光って見える。
雪は枝葉に遮られて、濡れることはない。
「お目覚めだね」と、女が口を開く。
クロヴィがお湯の入ったカップを手渡した。エスカリヴィオはこれを受け取り、一口啜る。
「貴方のことはクロヴィから聞いている。ドムトローラと戦ったそうだね」
「仕留め損なったけれど」エスカリヴィオは素直に頷いた。
「私はルミレエーナ。青教を立ち上げた。いわばリーダーをしている」
改めてルミレエーナを観察する。袖から露出した肌には、回路があった。つまり、元々は赤ずきんだった、ということ。
視線に気付いてか、ルミレエーナはくすっと笑い、
「そう。私は赤ずきんだった。赤教の裏切り者ということだね」
「そう」
知ったことではない。興味を失ったが、礼儀として返事はする。ルミレエーナは口角を持ち上げてみせた。恐らく、赤教を裏切ったことに対して、エスカリヴィオが反発しなかったのが、彼女にとっては意外だったのだろう。対立せずに済んだ、という事実が嬉しいのかもしれない。
ルミレエーナはさてと言い、
「貴方の目的は、稲妻の大狼を狩ることだそうだね?」と確認するように訊いたので、
「そうよ」
エスカリヴィオは首肯する。しかしそれ以上の説明はしない。必要ないからだ。知ってどうすると言うのだろう。
「私はドムトローラを狩りたい。もちろん、ミレイリオたちもだ。彼女らは大狼でこそないが、それほど変わりない。そこで……協力して欲しい」
「それより先に訊きたいことがある」
「何?」
「カデンファとデムトーリオの安否は?」
この場に居ないことから、駄目だろうことは薄々感じている。エスカリヴィオはクロヴィを見る。彼は悲しそうに首を振った──目に涙を滲ませながら。
「そう……」とエスカリヴィオは呟く。そして、空を見上げ、黙祷した。
あらゆる生命は、死神と契約して生まれ、そして死んでいく。生も死も残念なことではない。ただ、そうあるように出来ているだけのこと。
いずれは自分も行く道だ。それがいつになるか、それだけの違いを残して、世界は平等に振る舞おうとする。運命は何と冷酷なのだろうか。いや、酷かったことなど一度だってない。こちらの心持ち次第なのだ。
或いは、心を捨て去ってしまえば良い。心は体の痛みを拭うための緩衝材。心が痛むならば、体にとって邪魔で、不必要だ。
だから、エスカリヴィオは心を押し込める。傷付くほどの心など持ち合わせていないと唱えて。いくつもの理不尽、いくつもの別れ、いくつもの終わりを見届けて、弔うために。そして今、ハスバリーテだけが、生きる苦しみに喘いでいる。
だからエスカリヴィオは、この運命を受け入れた。彼女を助けるために、この役割を果たすために、生かされたのだと。
「私は大狼を狩るだけよ」と、ルミレエーナに遅れて返事した。
「それで充分だ」ルミレエーナは、控えめに微笑む。
「私はどれくらい眠っていた?」
「二日」とクロヴィ。「もう目覚めないかもしれないと思った」
二日も眠っていたのか、とエスカリヴィオは嘆息する。ならば、もう、ハスバリーテはこの付近に居ないかもしれない。
「そう落ち込むこともない。ドムトローラが居る。貴方のお目当ても、あの腐敗した大狼に釣られて、現れる」
ルミレエーナの言葉に、
「腐敗……ドムトローラのこと?」エスカリヴィオは疑問に思って訊ねた。
ルミレエーナは曖昧に頷く。
「特殊な血のせいで、触れたものを腐らせるんだ」クロヴィが補足した。「毒なんだよ。でも、女性だけは、血に対する耐性があるから、回路を施せば大丈夫」
ルミレエーナがそう、と相槌を打つ。
「どういう理屈なのかは知らないけどね。ミレイリオたちが編み出したんだ。傷を治す仕組みはわからないが、効果があるから、薬草を使うのと同じようなものさ」
「そういうものかしら」とエスカリヴィオは首を傾げた。
「そういうものだとも」とルミレエーナが首を曲げる。
「二人はここで何を?」
「僕たちは報告を待ってるんだ」クロヴィは言い終えると、口を閉ざした。
エスカリヴィオは顔を顰める。
「説明が足りないわ」
「今、神殿まで偵察に向かわしていてね」ルミレエーナが口元に手を当てて、伏し目がちに微笑した。「どうやら、貴方たちが荒らしたことで、ミレイリオが各地から集まってきている。お陰で計画が狂った」
「それは悪かったわ」
「そうでもない」ルミレエーナは目を細め、「元々は各地に散らばるミレイリオを、同時に撃破する予定だった。奴らは皆、意識が繋がり合っているからだ。どこかがほつれたら、すぐに気付かれてしまう。だからそのために、我々は一ヶ所にまとまるのではなく、ミレイリオと同じように各場所へと散った。そして、時期がくれば、伝書鳩で報せるつもりだった」
「最初からドムトローラを狙おうとは思わなかったの?」
「狩れるならば既にやっていたよ。だがね、そうもいかない理由があった。第一に、ミレイリオが各村に点在している。村人が人質になっていたわけだ」
「それに奴らは時々、少女を誘拐して、大狼に変えようとしていたんだよ」クロヴィが横から口を挟む。「村から離れちゃったら、僕らはそれを阻止できない」
「そうね」とエスカリヴィオ。
「ドムトローラを狩れば、ミレイリオが何をしでかすかわからない。だから、手を出せずにいた」ルミレエーナは両手を広げて降参のジェスチャ。
「それで、もう一つの理由は?」
「確実ではなかったから。ドムトローラを前にして、倒す術が見つからなかった。それに奴は他の大狼を惹きつける。立ち向かってみて、全員仲良く犬死に──なんて可笑しなことでしょう?」
エスカリヴィオは特に反応をしない。ルミレエーナは肩を竦めた。
「けれど貴方の祖母──稲妻の大狼──が居れば、話は違う。これは利用できる。しかも、ミレイリオも神殿に集まっている。これは素晴らしいことだよ、エスカリヴィオ」
抑揚なくルミレエーナは言った。
エスカリヴィオは鼻を鳴らす。「それで、貴方の計画は?」
「いつもと同じ。大狼退治だ。具体的に言えば、ドムトローラに稲妻の大狼をぶつける。できるだけ、ミレイリオも巻き込みながら……ね。ドムトローラさえ倒せれば、ミレイリオも全員が倒れるだろうから」
「その根拠は?」
「意識上で死を追体験するからだ」
「そう」エスカリヴィオは話を咀嚼した。「続けて」
「後は貴方の祖母を退治する。方法は後で説明する」
「そう簡単に上手くいくと思う?」
「さあね」ルミレエーナは口元を綻ばせる。「上手くいけば良いと思う。だからどれだけの範囲に、どれだけのミレイリオが現れるか偵察させているし──」それに、と付け足して、「準備も済ませている」
「準備?」
「それはね」クロヴィが説明しようとして、遮られた。
五名の男女が現れたのである。彼らはルミレエーナの前で止まると、膝立ちになった。
ルミレエーナは、「これも後で話そう」と言って、押し黙る。五秒ほどの報告に寄れば、各地から赤ずきんも来るようだ。それは、
「ドムトローラを護衛するため──というよりは、神殿に入れさせないつもりなんだろう」そう解釈したルミレエーナは不敵に笑う。
「なら、この計画はご破算ね」
エスカリヴィオの言葉に、ルミレエーナ首を振って否定した。
「そうでもない」と。
それは、神殿の地下へと通ずる、秘密の通路だった。坑道のようになっていて、ふとした瞬間に崩れてしまいそうに見える。一応、木の柱や梁などによって支えられてはいたが、些か心許ない。階段を降りていくと、更に気温が下がったように感じる。回路に流れる血のお陰か、そこまで寒さは感じない。だが、クロヴィはしきりに鼻を啜っている。
ここから神殿の内部へと侵入できるらしい。以前、対峙した時に崩壊して、入り口が塞がれていたとしても、赤ずきん二人の力であれば、何とかできるだろう。
「秘密と言えば、この通路もそうだが」とルミレエーナは口を開いた。「神殿の地下にこそ、特大の秘密がある」
「そう楽しいものでもないのでしょうね」エスカリヴィオはつまらなそうに言う。
扉を前にして、ルミレエーナが立ち止まった。奥からは、獣の声が漏れ聞こえる。
「さあ、これが秘密だ」
扉を開けると、地下牢が広がっていた。いずれも鉄格子が嵌められており、しっかりと施錠もされている。中にはそれぞれ、一匹ずつ、痩せ細った大狼が入れられていた。変異種はいない。皆、苦しそうに涎を垂らしながら、もがいている。
そのうちの一匹は、床に倒れたまま一つとして身動ぎしない。亡くなってしまったのだろうか。そう思った次の瞬間、大狼の頭部から背中にかけて亀裂が走る。筋肉が裂けて、体毛は抜けていった。と、やがてその中から頭が現れる。人間だ。
人間が生まれている。
大狼の体内から、人間の指が出て、背中を掴んだ。よじ登るべく、力を込めている。腕が伸ばされた。次いで、頭が出る。向こう側を向いていて、その顔は見えない。一糸纏わぬ姿で、彼女は脱皮するかのように、かつての体を脱ぎ捨てた。
その人はこちらへと振り返る。
エスカリヴィオは息を呑んだ。
「カデンファ……」と、その名を呼ぶ。
カデンファに良く似ていた。だが、ミレイリオだ。カデンファではない。生まれたばかりの彼女は、穏やかな表情でエスカリヴィオに首を傾げてみせる。が、次第に表情が歪み、涙を流した。
エスカリヴィオは絶句する。
「知り合いなの?」ルミレエーナは訊いた。「だとすればお気の毒──彼女はもう、その人じゃない。ミレイリオになった。人間を辞めて、大狼になり、また人間に戻る。ドムトローラにより近い存在として、ね。彼らからしてみれば、大狼はミレイリオに至るための蛹みたいなものなんだ」
カデンファは、痛みに耐えるかのように頭を抱え、その場で蹲る。言葉を忘れたのか、喃語のような呻き声。そして、恍惚とした顔を浮かべたかと思うと、すっと立ち上がり、その顔から感情が消え失せる。
「おはようございます、エスカリヴィオ様。ルミレエーナ様」固い表情筋を解きほぐそうとするかのように、微笑みを作ろうとした。「私たちを殺しに来たのですね?」
ルミレエーナは彼女にクロスボウを差し向ける。
「ああ、そうだ。大狼退治に来たよ」まるで友人に対するような親密さで。
「それはとても残念なことです。もっとお話しませんか?」
「嫌だよ。だって、皆も見ているんだろう? 私たちを……」
カデンファはくすくすと笑い、首肯した。ルミレエーナは僅かに顔を歪める。
「先に行ってなさい」
ルミレエーナは、偵察隊の五人とクロヴィに向けて言った。五人のメンバは言われた通りに従う。クロヴィはついて行こうにも躊躇いに足を止めて、こちらを向いた。ふと、その黒髪に赤いものが付着する。
血だ。
クロヴィが髪に手をやり、血を拭いとる。彼の背後には一人の女。赤ずきんだ。エスカリヴィオにも見覚えがある。
「エメリエッサ」
「あんた、だったか.エスカリヴィオ……。見損なったよ。まさか、青教なんかと一緒だなんてね」
エメリエッサの足元には先ほどの男女が倒れている。悲鳴をあげる間もなかったようだ。顔体が潰れていて、絶命している。
「私はただ、大狼退治に来たの」
「ミレイリオが大狼だって?」エメリエッサはミレイリオを見て、怪訝な表情を浮かべた。「あんた……カデンファか?」
「元はね。でも、今は違う」とルミレエーナ。「あそこの皮を被っていたの。わかる? 大狼だったのが、羽化してミレイリオに生まれ変わった」
赤ずきんは大狼になり、やがてミレイリオへ転生する。ルミレエーナはこの一連の流れを説明した。エメリエッサは唖然とし、しかし自棄になったのか、頭を強く掻きむしると、
「そんな話信じられるかよ」
「そうですエメリエッサ様。青教の話を信じてはいけません」カデンファはそう言った。「彼らは作り話が得意なのですから」
エメリエッサはクロヴィを越えてルミレエーナに飛び掛かる。大槌を胴体に打ち込もうと、大きく振るった。ルミレエーナは壁に足を突いて空中へ跳躍する。と、大槌を交わしてカデンファの元へ。
クロスボウを鉄格子の隙間に挟み入れ、引き金に手をかけた。そのまま躊躇いもなく一撃。カデンファ──否、ミレイリオの頭は貫かれて絶命した。その場に倒れ込む。
エメリエッサが目を見開らかせた。段々と、その顔に怒気が込もっていく。
「お前……なんてことを。子どもに手を……かけやがったな」
「人間ではないからね。彼女らは人間に擬態した、大狼だもの」
わかりきったことを訊くな、と言うふうにルミレエーナは答えた。エメリエッサは歯を見せてますます怒り顔。
「それでも元は人間だったはずだろ? 気に入らねえな……。エスカリヴィオもだ! あんたも、こんな奴の話を信じるのかよ」
「私は私の見たものしか信じない」エスカリヴィオは冷たく言い放つ。
「何を見たってんだ!」
「そこの大狼からミレイリオが生まれたこと。良く似ているけれど、あれはカデンファじゃない。カデンファは既に死んでいたのよ」
「ああクソっ。何がどうなってんのか……」
現実を受け入れられず、困惑したように苛つくエメリエッサを前に、クロヴィが怯えた表情で、壁に背を預けてへたり込んでいた。今なら、隙を見せる赤ずきんにも一撃を与えられるだろうに──彼は彼の得物であるクロスボウから手を離している。
その代わり、クロヴィは言葉を扱った。
「嘘なんかじゃ、ありません」絞り出すように、半ば悲鳴のような言い振りで、「誰かがやらないと、赤ずきんは皆、ミレイリオにされてしまうんです。そうでなくても、大狼にされる……。だから、だから──」
「ドムトローラも大狼だった」と、エスカリヴィオが後を引き継ぐ。
「まさか……」エメリエッサが鼻で笑ったので、エスカリヴィオはむっとした。
「信じられないなら、実際にその目で見ると良いわ」
「そう。それが早いね」
ルミレエーナは冷たい笑みで同意する。