七節・乱入
エスカリヴィオはすぐに自分の本分を思い出した。祖母を弔う。眼前には稲光に包まれた大狼が居た。何と言う偶然。何と言う僥倖。
すぐさま弓矢を構え、息を止める。
大狼は全身の毛を逆立たせて大きく震え上がった。そのまま、弾け立つ音を鳴らし、光り輝き──輪郭が霞む。目も眩むような発光だ。お陰でどこに目鼻が存在するのか目視出来ない。だから、エスカリヴィオは目を瞑った。
息遣いが聞こえる。他の音は消えた。今は大狼のことしか感じ取れない。
相手の気配と自身の経験を頼りに弓を動かす。
押手を安定させる。
息を止める。
時が止まった。そんな錯覚。
弓矢を引き分けた状態から何秒と経過したかわからない。
ここにあるのはエスカリヴィオとハスバリーテだけの世界だった。
矢羽を離す。矢は回転しながら真っ直ぐに飛び、大狼の元へ立ち向かった。だが、直後に唾も飛んでくるほどの咆哮。強く湿った風を受けたかと思えば、固い音が鳴らされた。微かに目を開けてみれば、大狼の手前に矢が落ちている。
大狼が脚を出して前のめり。筋肉の収縮から、力を込めているのが見て取れる。思い切り飛び出して、体当たりしてくるのだろう、と思われた。エスカリヴィオは思わず後退りする。
けれど彼女の行動は意に反したものだった。
否、とエスカリヴィオは自省する。
観察してみれば、大狼の狙いは常にミレイリオにあった。ハスバリーテは、ドムトローラを守ろうとする少女たちの元へ突進を仕掛ける。思い切り撥ねられた二人のミレイリオが、倒れた拍子にのしかかられて、食べられた。
ハスバリーテの顔が真っ赤に染まる。
祖母が人を喰らった。
彼女は誇り高い人間だった。
「そんなの許さない」
エスカリヴィオは決意と共に呟くと、矢の代わりに鋸を弓に充てがう。きりきりと切ない声で弦が泣いた。
相手が稲妻を纏う以上、近づくのは危険である。だから飛び道具に頼る外ない。矢はか細く、しかしだからこそ芯があるのだが──いかんせん重さが足りないのだ。鋸を手離したところで、肉を断ち切るためのナイフならば腰に差している。
躊躇いもなくエスカリヴィオはこれを放った。
狙いは左脚の腱。機動力さえ奪えられたなら、局面は大きく変わるだろう。果たして鋸は命中した。貫通こそしなかったが、突き刺さっている。
痛みのためだろう──大狼が大きく叫んだ。
エスカリヴィオは悲しくなる。
相手が獣だろうと人間だろうと、痛めつけることは好きになれない。
「早急に弔わないと」
「エスカリヴィオ!」と男の声。デムトーリオは、未だ祭壇の前にて、捕縛されたままだった。隣にはクロヴィも同じように蹲っている。「これを解いてくれ!」
その言葉によってか、隣で呆然としていたカデンファの目に覇気が戻った。
「だ、駄目よ!」困ったように言う。
「何故?」エスカリヴィオは首を傾げた。「今、狩人は死にかけている。人命救助は何を差し置いても優先されると思うのだけど」
「あ、青教なんだよ。相手が相手なだけに、助けるべきじゃないよっ」と言いながらも、顔面は蒼白。心にもないことを言っているのだとエスカリヴィオには理解した。
「青教は母さんを殺したんだよ……」カデンファは俯く。
「彼がやったわけじゃないわ」
「でも同じだよ」
「それに」とエスカリヴィオは大狼たちの方に目を配り、「私たちだけで対処できる状況じゃない。援軍が必要よ」
カデンファはぐっ、と飲み込んだ。
代わりに、仕方ないねと言葉を吐き出す。
「手をあげなさい」
エスカリヴィオの命令に彼は言われた通りにした。両手を掲げるようにして、縛りあげる縄を見せつける。エスカリヴィオは矢を拾いあげ、弓につがえた。
「おいおい……マジか?」デムトーリオが苦笑する。
「動かないで」
弓を引き、息を整えた。
時間が凍りつく。
見えるのは当てるべき的だけ。
押し出した腕を繊細に動かして、狙いを絞り、定めた。
このまま一秒。
維持して──
ふっ、と矢を放す。空を裂く槍となって、それは両腕の境を通り、向こうの壁に刺さった。縄が解かれる。デムトーリオがニヤリと笑ってみせた。エスカリヴィオも応じる。彼はこのままクロヴィを解放するべくナイフを手に取った。
二人から目を離す。
と、空気がこだました。
途轍もない衝突音が響き、エスカリヴィオは音源を確認する。目を向けてみれば、ドムトローラと稲妻の大狼とが激しくぶつかり合っていた。
ハスバリーテは相手の血に触れて、皮膚を溶かされている。毛が抜け落ちて尚、青白い筋が立ち込めていた。
一方、ドムトローラはと言えば、痺れているのだろう。稲妻の大狼に掴み掛かったまま動かない。手足が痙攣したように揺れ、震え、伸び切っている。
ハスバリーテが腕を振るった。ドムトローラはその巨体を殴りつけられたことで、体勢を崩す。壁に倒れ、そのまま破壊した。塵が舞う中、ミレイリオたちがどこから持ってきたのか、剣や槍といった武器を持ち出し、立ち向かおうとしている。
「どうする?」と訊いたのはデムトーリオだ。
「逃げようよ」と及び腰のクロヴィが、デムトーリオの袖を引っ張る。
「逃げるにしたって」彼は筋肉をほぐすように首を回して、「武器が無いとな」
ドムトローラがハスバリーテの顔を思い切り蹴り上げた。同時に爪で引っ掻かれたらしい。目元に三本の傷痕が残されている。ハスバリーテは勢いよく壁に激突して、神殿を揺らした。天井から塵が降ってくる。
ミレイリオがその隙を突いて、ハスバリーテの周囲に集まった。囲みを狭くしていき、やがて体中に飛び移る。刃を突き立てたその刹那、閃光し、全員が弾け飛んだ。
痛みに喘ぐように、ドムトローラも絶叫する。
一瞬ではあったが、エスカリヴィオには雷が、槍や剣に集まったように見えた。鉄がそうさせるのか、それとも棒状の鋭いものに収束するのか、それはわからない。
ハスバリーテが前脚を地面に突いて、体をしならせて吠える。と、突き立てられた武器が何本か抜けた。
槍が一本、デムトーリオの元へ滑り、届く。彼は得物を拾い上げると、静電気に一度指を離した。
「こりゃあ、強烈だ」と笑う。
「その槍、矢としても使えそうね」エスカリヴィオは片手を差し出しながら言った。
「悪いが自分の分は自分で取ってくれ」
エスカリヴィオは手を引っ込める。
「そうね。そうするわ。カデンファ」と、隣に顔を向けた。
「なあに?」斧を手にしながら、カデンファが訊き返す。
「散らばった槍を拾い集めたい。出来ればその間、大狼たちを惹きつけて欲しい」
「無茶言うね……」カデンファはくすっと笑って、「頑張る」
「先に稲妻の方からやろう。あいつは厄介だ」デムトーリオが提案した。
「貴方に命令されたくない」カデンファが反発。
「に、逃げようよ……」涙目になってクロヴィは訴える。
デムトーリオは二人に大きく溜め息を吐いた。
「あのな、この状況がわかって──」
ドムトローラが吹っ飛び、こちらへ落下しようとしている。頭上を越えて、壁に当たり、また大きく神殿を揺らした。その拍子に天井から一部が抜け落ちる。エスカリヴィオは目を細めて天を見上げた。
梁の一部が途切れて、先端が鋭くなっている。
カデンファが、槍を持って隣に現れる。ドムトローラが壁へ投げられ、ハスバリーテの意識がそちらへ向かった際に、拾いに向かったのだ。好機を見逃さない。何と素晴らしい狩人だろう。エスカリヴィオはまた、彼女に尊敬の念を覚えた。
「ありがとう」と礼を告げると、「あの真下に──」エスカリヴィオは梁を指し示しながら、「どちらかの大狼を連れて来られるかしら」
「それでどうするんだ?」デムトーリオが訊く。
「梁を槍で壊して、大狼に落とす」
「串刺しね」カデンファが片目を瞑って答えた。
「おお、怖い怖い」デムトーリオは楽しそうに笑う。「方向性はそれで決まりだ。で、具体案だが……槍をすべてドムトローラに突き刺す」
「痺れさせるためね」とエスカリヴィオ。
「お前も気付いたか」彼は悪い笑みを浮かべ、「そうだ。どうやら、その方が雷の通りが良いらしい。だから、まずはそれでドムトローラを落とす」
「そして、お祖母ちゃんを、誘導する」
「後はさっき言った通り。すべてはお前に命運が掛かってるってわけだな」
ふん、とエスカリヴィオは鼻を鳴らす。
槍をつがえて、ドムトローラ目掛けて放った。矢継ぎ早にこれを繰り返す。痛みに悶えるかのように大狼は苦しみ、また、呼応するようにミレイリオたちからも悲鳴があがった。
デムトーリオはミレイリオを横目に、「邪魔が入らないうちにおっ始めよう」
槍で地面を叩き、ハスバリーテの注意を引いた。興奮して毛を逆立てる。不気味に鳴らされる、ぱちぱち、という音。青白い亀裂が体毛を流れ、模様を作った。デムトーリオは槍を片手に、構え、狙い、投擲する。
放射状に槍は飛び、ハスバリーテの前を過ぎて、ドムトローラの脚元に突き刺さった。瞬間、光は槍へと移り、ドムトローラの全身が眩いばかりの光に包まれる。
爆発音。
焼けて、香ばしい臭いが充満した。
ドムトローラは真っ黒に焦げて、煙を上げて倒れ込む。息をしていない。
エスカリヴィオは眉を片方、持ち上げた。
「やっとこの時が来たわね」そっと息を吐き、槍を番える。
カデンファが斧を地面に叩きつけた。ハスバリーテの顔が真っ直ぐに、カデンファの姿を捉える。その隣には丸腰のデムトーリオ。
「俺たちと戯れあおうぜ」
咆哮。
空気が振動し、神殿がまた崩落していく。もうここも、じきに潰れてしまうだろう──だがそのために、祖母を弔えるのだ。
エスカリヴィオはじっと天井を睨みつける。槍の先端は梁に向けられた。弦を引き分け、狙いを定める。ハスバリーテが跳躍した。二人の狩人が、左右に分かれてこれを回避。地面には大きな爪痕が残った。
「今だ!」
「今よ!」
両者二人が声を揃える。
音のない世界。
弓矢を構えたものに訪れる、自分だけの空間。
エスカリヴィオは槍を放った。
梁とぶつかり、そのまま落下する。真下にはハスバリーテ。エスカリヴィオの心の内を透明な何かが覆った。無心とは違う。達成感でも解放感でもない。不思議な心持ちだ。
これですべて終わり。
目を瞑ろうとして、何か素早いものが通ったので、驚きに目を開けた。一陣の風が吹く。轟音。赤黒い血に塗れたドムトローラが、ハスバリーテに掴み掛かっていた。梁は、何もない地面に刺さっている。
「失敗、した」エスカリヴィオは膝から崩れ落ちた。
瞬間、過去を思い出す。
ハスバリーテが赤ずきんとして働き、帰って来るたびに痣だらけ、傷だらけだったことを。痛々しくも痛そうにしない祖母を見て、恐ろしくなったのを覚えている。しかし自身が赤ずきんになってわかったことだが──誇りのために甘んじて受けた傷は痛くも痒くもない。
問題なのは、きっと。
ハスバリーテがこれから誰かを傷つけるかもしれない可能性の方にあるだろう。今、ここで仕留めておくべきだった。
それは見知らぬ誰かのために。
エスカリヴィオ自身のために。
そしてハスバリーテのために。
壁中に亀裂が入り込む。天井が落ち、そこかしこに瓦礫となって散乱した。クロヴィが情けない悲鳴をあげる。
「脱出しないと!」カデンファがエスカリヴィオの肩をとった。「デムトーリオも来て!」
「おい、クロヴィ! こっちに──」
瓦礫が落下して、粉塵が舞う。そこは、先ほどまでデムトーリオが居た位置だった。クロヴィは大きく目を見開き、呆然と立ち尽くす。
「こら! 貴方も、早く!」
エスカリヴィオを支えながら、カデンファはクロヴィの元へ駆け寄った。だが、崩壊は止まらない。狩人も、大狼も、見境なしに神殿は、真上から傾れ込んだ。