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BEAST  作者: 八田部壱乃介
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四節・鬼火

 やがて、カルテトーラの腹は凹んだ。代わりに腕や足が膨らみ、体躯は一回り大きくなる。今すぐに狩らなくては。エスカリヴィオは鋸を首に向けて振ろうとしたが、すんでのところでエメリエッサが阻止をする。

「やめてくれ、あたしの一人娘なんだ」

 懇願するエメリエッサの悲痛な面持ちに、エスカリヴィオの手が止まった。エスカリヴィオとて、殺したくてこんなことをしているのではない。大狼になることで人を喰らい、殺して回る。そうして獣となった暁に、狩人と死闘を繰り広げ、傷を増やす──それは、かなりの苦痛のはずだ。

 そして村人たちにも被害が出てしまう。そうならないために、今ここで始末しなければならない。だから、

「諦めて」エスカリヴィオは無情に答えた。「苦痛が増えていくだけだわ」

 エメリエッサの額には逡巡のために脂汗が滲んでいる。俯き加減に歯噛みして、今や化物になろうとするカルテトーラを一瞥した。

「ああ。わか──」

 悲鳴。

 ミレイリオたちが、カルテトーラに切り裂かれていた。そのうちの一人は、頭を、喰われている。エメリエッサは言葉をなくし、ただ呆然と見つめることしか出来ずにいた。

 肉を取り込んだためか、カルテトーラはまた一回り大きくなる。天井に後頭部がぶつかり、僅かに前屈みになった。立っていてはいけないと判断したのか、やがて彼女は四つん這いに体勢を変える。まるで獣としての本分を思い出したかのように。

 カルテトーラは──カルテトーラだったものは、この場に居る人間たちを品定めするように眺めた。

 ぐっ、とカルテトーラが喉を鳴らす。

 金色の体毛からは脂汗が大量に流れ出た。その場で水溜りとなり、室内の床面を満たしていく。汗はやがて、部屋の隅に置かれた燭台へと手を伸ばし、そして倒した。火は汗と接触──瞬く間に燃え広がる。

 家屋は一瞬にして赤く染められた。

 ぱちぱちと木の弾ける音。

 火の粉が舞い、

 ミレイリオの血飛沫が飛び散り、

 カルテトーラは口を裂かんばかりに大きく開き、爆発するような声を響かせた。

 耳をつんざくような怒号に、エスカリヴィオはたじろいだ。が、カデンファは違う。エスカリヴィオの手を取り、

「逃げるよ──エスカリヴィオちゃん。さあ、エメリエッサさんも!」

 エメリエッサの襟を掴んだ。三人は火の手が迫る中、出口へと駆け走る。背後からは悲鳴なきミレイリオの断末魔。そして、大狼の呻き声。

 エスカリヴィオはちら、と傍目に獣を伺った。

 大狼はまた大きくなっている。食べれば食べるほど、肉体は直接的に成長するようだ。痙攣するように小刻みに震え、毛先から汗を振りまいている。その量は尋常でなく、洪水を思い起こさせた。

 毛並みから露出している肌は赤黒く変色し、顔の形はもう、人間離れしている。かつての面影はどこにもない。

「エメリエッサ」とエスカリヴィオは口を開いた。「彼女カルテトーラはもう人間じゃない」

「わかってる! わかってるさ、そんなことくらい……」

 下唇を噛み締めながら、エメリエッサは頷く。呼吸が乱れているのがわかった。

 現実の変化を受け入れることは難しい。だが、割り切らなくては生き延びることも難しい。エメリエッサは狩人だ。だから、大狼と対峙しても生存するだろう。それだけのポテンシャルがあるのだから。けれど、普通の人々はどうだろう?

 大狼は天災と同じ。なす術なく殺されるだろう。

 大狼はまだ焼けた家の中。だが、カルテトーラがそこから抜け出し、暴れ始めるのも時間の問題と言える。

 だからエスカリヴィオは駄目押しすることにした。

「なら貴方は、自分の娘が村人を殺して回ることを許せるの?」

 指摘され、エメリエッサは、ぐっ、と喉を鳴らす。

「それは……あっちゃならねぇ」

 彼女の呼吸が安定した。その目には覚悟が見える。エスカリヴィオはそう、と一言。相槌を打つ。カデンファは既に、ミレイリオを伝令役として、村人たちを避難させるべく行動に移していた。流石だ、評価する。行動が早い。

「あたしらで止めるよ」エメリエッサは木槌を構える。

 エスカリヴィオもまた、鋸を握り、静かに頷いた。

 と、家屋の天井が爆散する。四方八方に瓦礫が落とされた。悲鳴があがり、周囲の人間がパニックに陥っている。それをミレイリオたちが宥め、介抱し、神殿の方へと案内していた。

 やがて焼け爛れた家屋から大狼が姿を見せる。のっそりとした、緩やかな足取り。全身は燃え、松明のように辺りを煌々と照らした。

 空が暗くなりかけている。見上げれば満月。黄色い、狂いの目が、大地を見下ろしていた。

 獣が叫ぶ。口先から炎が噴き出した。空気が全身の炎を押し上げたのだろう。

「苦しんでいる」エスカリヴィオにはそれが伝わった。「早く楽にさせてあげないと……」

 まず、エメリエッサが飛び出す。カルテトーラは炎に包まれていた。近づくだけでも危険である。だが、エメリエッサはそれをものともせずに、懐へと入り込む。それから、木槌を持ち上げて、大狼の顎を狙った。鋭い一撃が入り、相手は脳震盪を起こしたのだろう。大きく蹌踉めいた。すかさずエスカリヴィオが追撃。走り出した。

 背後に回り、背中に飛び移ろうとしたが、あまりの熱気に火傷してしまいそうになる。しかし多少の痛みくらいならば我慢できた。表皮の回路タトゥーに流れる血が、緩衝となってくれているのかもしれない。

 エスカリヴィオは鋸で首を落とそうとした。だが、大狼は腕で首を押さえ、守ろうとする。そこで仕方なく、対象を首から腕へとシフト。第一関節部から切り落とした。それは薪となり、大狼の下で大きく燃えだす。

 カルテトーラは苦しみに喘いだ。

 しかし、これで首筋が見える。これ以上痛めつけるのは駄目だ。苦しませないよう、止めを差す。エスカリヴィオは鋸を突き立てた。

 が、何かおかしい。手応えがなかった。何かで刃先が食い止められている。何だろうか? 首元からは、ぼこぼこと、泡立つような音が聞こえる。エスカリヴィオは注視した。

 それは汗だった。

 脂汗というべきか。

 エスカリヴィオは嫌な予感がして、全身に寒気を覚える。

 確かこの汗は、油のような性質を持ってはいなかったか。地面を流れる汗に導火して、この家屋は燃えている。大狼は燃えている。

 今、目の前で脂汗が噴き出そうとしていた。

 矛先はエスカリヴィオという一点に集中している。

 暴風を浴びたような音がした。熱波が発生し、エスカリヴィオは後方へと勢いよく飛ばされる。

「エスカリヴィオ!」と叫ぶエメリエッサの声。

 エスカリヴィオは立ち上がり、軽く咳き込んだ。

「私なら問題ない」

 事前に鋸を使い、真紅の衣服を脱ぎ捨てることで、脂汗を防いだのである。お陰でこちらまで飛び火することはなかった。今は赤い服の切れ端が、宙を待っている。

 呼吸を整えると、改めて大狼を観察した。切り落とした腕も、火によって傷口が塞がれている。普通ならば、大量に出血しているはずだった。失血によって意識は朧気に、相手は昏倒する。だから痛みを感じることなく弔えただろう──が、それも失敗に終わった。

 では、どうすれば良い?

 汗によって燃え盛る火が問題だった。地面には雪が積もっている。とは言え、消火できるほどの量ではない。

「エメリエッサ」と、エスカリヴィオは呼びかけた。「近くに川か湖はある?」

「それならあたしも考えたよ……。湖はない。川はあるが、あたしのこの華奢な腕くらいしか幅がなくてね。凍っていて使えないだろうさ。例え凍ってなかったとしてあんな巨体──」エメリエッサは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては、「どうしたって消せやしない」

 絶望の眼差しでカルテトーラを見据える。

 そこへ、カデンファが複数のミレイリオを引き連れてやって来た。ミレイリオたちもまた、それぞれ武器を持っている。

「皆の避難が完了したよ」とカデンファ。

 頼れる先輩だ、とエスカリヴィオは感心した。

「結局、物量で圧倒するしかないか?」エメリエッサが独りごちる。

「一つだけ、考えがある」エスカリヴィオは呟くように言った。「雪崩に巻き込む。大狼に雪や土を被せれば──」

「鎮火できるってことだね」カデンファは、にっこりと笑って言う。

「物は試しか」エメリエッサはミレイリオを見た。「あたしらで大狼を惹きつける。その間、お前たちは上で待機。合図を送ったら爆破するんだ」

「了解致しました」

 ミレイリオが深々と辞儀すると、急ぐように走っていく。エメリエッサは残った狩人二人を見つめると、

「絶好のポイントがある。そこへ連れて行くぞ」

「先導してくださいね」カデンファが肩越しに斧を掴んで言った。

「ああ……。任せろ」

 エメリエッサは息を大きく吐くと、口を引き締める。木槌を地面へと強く叩きつけた。雪が飛び跳ね、エスカリヴィオたちの体に付く。

「これで火傷対策はオーケーだろう」エメリエッサは鼻を鳴らし、「エスカリヴィオ、弓で援護してくれるか?」

 エスカリヴィオは首肯した。

 エメリエッサは続けて、「カデンファはあたしと来い」そう言って走り出す。

 カデンファが慌てて後を追いかけると、釣られたように、大狼もついて行こうとした。カデンファに手が届きそうな位置である。エスカリヴィオは鋸をその場に落とし、肩に掛けていた弓を手に、矢筒から一本番つがえ、弦を引いた。

 ぎりぎりと音を立てて矢は震え、しかしやがて力は安定し、収まっていく。大狼は燃える痛みを忘れたように軽々と、地面を蹴った。

 エスカリヴィオは息を止め、心の流れに杭を打つ。

 全ての物が静止したような感覚に身を投げるのだ。

 そこに音はなく、風はなく、あるのは弓矢と大狼、その二つだけ。

 的は動き、燃え盛っている。

 目を凝らすまでもなく、大狼の動きが──筋肉の滑らかな変化、炎の揺らめき、そうしたあらゆる物質の移動が良くわかった。

 押し出した手が定まる。狙いは確実。

 エスカリヴィオは矢を放った。大狼はもう、こちらに背を向けている。矢は大狼を超えた先の壁に当たり、反転した。矢の向きが変わったことで軌道が修正される。今、矢は大狼に対する向かい風となった。

 大狼が大きく仰反る。

 その間にカデンファが大狼の間合いから外れた。エスカリヴィオもまた、身を隠す。狙撃するに相応しい地点を見つけると、家屋の屋根に登り、また矢をあてがい、待機した。

 カルテトーラは突然のことに驚いたらしい。左目が潰されたことに酷く狼狽している。一体、何があったのか? 現状を分析しようとしているのか、二秒ほど固まっている。が、目の前で逃げ出すカデンファを音で捉えたようだ。考えることをやめ、仕留めようと体が動く。

 構って貰えた喜びにはしゃぐ、仔犬のようだ。幾らドムトローラの加護を受けていようとも、狩人は人間である。カデンファは再び、大狼の間合いに入ってしまった。カルテトーラはだらしなく唾を垂らしながら、鋭く大きな鉤爪を振り上げる。

 エスカリヴィオは弓を引いた。

 引き絞られた後、矢を発射。

 僅かに曲線を描き、大狼の手の甲──その体毛の中に埋もれた。瞬間、鉤爪は明後日の方向に飛び、家屋に突き刺さる。

 エスカリヴィオは影に身を潜めると、静かに階下へ降りた。

 時間稼ぎはこのくらいで良いだろう。そう思い、エスカリヴィオもエメリエッサの後を追った。

 大狼は他のことに目もくれず、走る二人の狩人を、炎の帯となってひたすらに追いかけている。時々、ちょっかいを掛けるように手を伸ばすので、その都度エスカリヴィオは矢で弾いた。

 エメリエッサとカデンファが森へと入っていく。大狼も木々に阻まれ、姿が見えなくなった。これでは矢を当てるのも難しい。

 轍を踏むように、エスカリヴィオは追随した。

「エスカリヴィオ様」

 暗闇から声がしたと思えば、ミレイリオが顔を出す。彼女の幼い顔だけが、ぽっかりと空いた空間から浮かんで見えて、微かに怖しい。

 エスカリヴィオは立ち止まり、どうしたのかと訊ねる代わりに、首を傾げて見せれば、

「準備が整いました。後は合図を待つのみでございます」

 先を見れば、二人は大狼と相対している。そこは木の生えていない、広場となっていた。平地となっており、確かに引き連れてくるにはうってつけの場所と言える。

 カデンファが斧を掲げた。

 エスカリヴィオは弓矢を取る。

 カデンファは斧を空へ投げた。大狼の前、闇の中で回転する。エスカリヴィオは斧のに目星をつけた。奇妙なほど鮮明に見える。感覚が研ぎ澄まされていた。

 息を吸い、止める。

 柄と大狼とが並んだ。

 指を離す。

 矢は真っ直ぐ、柄に当たった。斧は強く押し出され、大狼の喉元に突き刺さる。

「今だ」エスカリヴィオは言った。

 間を置かずして爆発音が響く。真っ黒な煙が、山の上に見えた。土砂が水のように溶け出し、雪崩れていく。その下にはカルテトーラ。カデンファとエメリエッサは、退散すべく動いていた。

 カルテトーラもまた、逃げようとしていたが、足を呑まれ、後ろに倒れる。煌々とした灯りも地面に積もる雪と、覆い被さる土砂とに挟まれて、やがて見えなくなった。と、崖そのものが崩れたらしい。山の麓へと滝のように落下していく。

 次いで、着水する音が聞こえた。

 確認してみれば、その下には湖のようなものが見える。エスカリヴィオの隣に来たエメリエッサが、

「いつの間にあんなのが」と言った後、不意に俯いた。「あばよ、カルテ。あたしのところへ来てくれてありがとうよ……」

 激しい潮流はそうして堰き止められ、やがて静寂が帷を下ろす。太陽が沈んだばかりだからか、夜はまだ明けそうになかった。

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