三節・退治
ヴィンチ村は高地にあった。道中は急な坂になっており、カデンファも疲れた顔を浮かべている。それでも人の往来があるらしく、道は踏み均されていたが、ところどころ崩れてもいた。雨によって崩れたのだろう。馬車で来るには向かないように思われた。
また森に囲まれていることもあって、下から見たばかりでは、まさかこのような場所に村があるなどとは思わないだろう。
ここへ来るまでは何事もなく、血の衣服による効能からか、野生動物と遭遇していない。他には幾つか小さな教会が点在していたくらいで、とても穏やかなものだった。
村の入り口まで辿り着いた頃には、もう、空が白み始めていた。目的地はここである。エスカリヴィオはカデンファと頷き合った。
村の入り口には、ミレイリオが立っており、こちらを見つけるなり頭を下げる。
「お待ちしておりましたカデンファ様、エスカリヴィオ様」
どういうわけか、自分の名前が知れ渡っている。エスカリヴィオは表情にこそ出ないが、僅かに驚いた。カデンファは補足するように、
「ね、びっくりしたでしょう? 神官は心のうちを共有できると言ったけれど、ここまで届くんだからねー」
「途中に居ります他のミレイリオに中継してもらって、貴方様のお名前を把握しております」ミレイリオは口角を持ち上げて、片手を広げた。「では、村長の元までご案内致します。詳しいことは、カルテトーラ様にお聞きください」
先導する彼女の後ろを二人はついて行く。
見たところヴィンチ村の規模は、エスカリヴィオの故郷よりも大きい。祭壇や建築物はどれも、見たことのない、煌びやかな装飾で施されている。簡素と言う言葉からは程遠い、優雅なものに思われた。
この中にあって、狩人の着込んだ深紅の衣装は、あまり目立っていない。赤ずきん姿がこの場に溶け込んでいるように思えて、エスカリヴィオは面白くなった。
朝となり、陽の光を浴びようと、村人たちが起き出している。彼らは皆、好奇心からか訪問客を物珍しそうに見た。エスカリヴィオはそんな視線には目も合わさず、真っ直ぐに先だけを見据える。
村の中央に設けられた、一際大きな建物の前で、ミレイリオは立ち止まった。戸をノックすると、
「狩人様がご到着されました」
「来たか。よし、入れ」
中からは低く艶のある、女の声がする。
ミレイリオは扉を開け、身を引いた。さあ、中へお入りください、と手で指し示す。室内は薄暗い。灯りを付けていないためだろう。エスカリヴィオは敷居を越えた。カデンファも後に続く。
そこには、一人の女がベッドに横たわっていた。顔だけを持ち上げてこちらを見ている。寝起きだろうか。そう思われたが、お腹が膨らんでいる。懐妊しているのだと、エスカリヴィオは察した。
「君たちが狩人だね。見たところ若いようだけど、赤ずきんというのは見た目では測れない」男性とも思える声で、村長は快活に笑う。「カルテトーラだ」
と名乗り、手を差し出したので、エスカリヴィオとカデンファも挨拶に応じた。
カルテトーラと呼ばれた女は、二十代のように見える。睫毛は長く、目蓋は重たそうだ。眠いわけではないらしい。声や態度から推し量るに、これが標準なのだ。また、腰まで伸ばした髪は、金色に光って見える。
彼女はまだ若いのに人をまとめる立場にあるのか、と思われたが、
「私はもうすぐ六十を超える」とのこと。「言ったろう。赤ずきんに年齢は関係ない。超越しているからな」
「超越……」カデンファが繰り返す。
エスカリヴィオにはわからず、押し黙ることで説明を要求した。
「ほう、というと君たちはまだ若いな? 羨ましい……」カルテトーラは鼻息を漏らし、「月に一度、教会から瓶が届くのはご存知かな。こんな感じの……」
そう言って、辺りを探ったが、見当たらないらしい。カルテトーラは、
「あいつめ、身重だからと隠したな」と舌打ちし、「まあ良い。瓶が一本届くんだ」後ろ頭を掻きながら言う。「これがまた格別でね。若返るくらいに旨い」
「祖母の元にも同じようなものが届いていました」エスカリヴィオは思い出して言った。「あれは、お酒ですか?」
カルテトーラは笑って首を横に振る。「率直に聞くね。それで、その人の名前は?」
「ハスバリーテと言います」
「ああ……」カルテトーラから息が溢れた。「すると、君はお孫さんか」
「はい」
「良く来てくれた。ハスバリーテには先日もお世話になったんだ。そうか……確かに、良く似ている。彼女のことは残念だった」
エスカリヴィオは小さく頷く。
その場に沈黙が舞い降りた。
「……ところで、あれはただのお酒ではないよ」
雰囲気を切り替えるためか、カルテトーラは明るい声色で話す。
エスカリヴィオとカデンファに目を向けてから、視線を彷徨わせると、近づくよう手招いた。二人はその通りに従い、耳を傾けると、
「あれは、血だ」と、村長は秘密めかして言う。
カデンファが、えっ、と声を漏らした。
「神の血なんだろうさ、きっとね。若返るのもそれで説明がつく」
カルテトーラは軽い調子で、肩を竦める。それもあって、エスカリヴィオにはそれが冗談なのか、本当なのか区別し難い。ただ確かに、祖母にと渡された瓶にも血のような臭いは感じられた。だから真実味はある。
「血を混ぜたお酒なんですか」カデンファは顔を顰めて訊ね、
「そうさ」と村長は肯定した。「これが嫌に旨いんだ」と。「おっと、長話が過ぎたな。そろそろ本題といこうじゃないか」
カデンファが表情を引き締めるのがわかった。エスカリヴィオは腕を組む。
「この村には私を含め、二人の狩人が常駐している。だがこの通りでね」カルテトーラは両手を広げ、自分に注目を集めた。「私は身動きできそうにない。と、相手が誰かは訊くなよ?」
二人の狩人は首肯した。
カルテトーラはつまらなそうに、「素直な奴らめ」と唇を尖らせる。
「──で、だ。このためこの村は今──もう一人狩人を抱えてはいるが──防備が薄い。こんな状況にあって、大狼が現れたんだな……。前回は、先ほども言った通り、ハスバリーテに助力を頼んだ。今回は君たちにお願いしたい。頼めるかな?」
「任せてください」カデンファが和かに言った。
「宜しい」カルテトーラは鷹揚に頷くと、「詳しいことはエメリエッサから聞くと良い。彼女も優秀な狩人だ。ミレイリオ」
「はい、カルテトーラ様」部屋の隅から返事をする。
エスカリヴィオはミレイリオの気配が感じられなかったので、少しばかり驚いた。契約を交わしてから、感覚が過敏になっているというのに、彼女からは物音もしなければ、息遣いも聞こえてこない。まるで死者のようだ、と連想した。
「二人をエメリエッサのところに案内して差し上げろ」
「はい、カルテトーラ様」ミレイリオは恭しく頭を下げる。「それでは、ご案内致します」
戸を抜けて、三人は村の外縁に向かう。そこには、監視塔があった。ミレイリオによれば、監視塔は囲むように三つ建てられていると言う。その一つに、エメリエッサが居るのだとか。
監視塔の下、梯子の前。ミレイリオは一人の青年を捕まえると、
「エメリエッサに用があります。彼女と監視を交代なさい」半ば命令するような物言いだった。
青年は頷くと、梯子を上っていく。やがて、一人の女性が飛び降りてきた。彼女は両足で踏ん張るように着地すると、砂埃を撒き散らす。カデンファは、けほけほと咳き込み、エスカリヴィオは目に入らないように一歩退いた。
「あたしに用があるって?」
彼女は、牙を見せて笑うように訊ねる。
カルテトーラほど若々しくはない。
まず、刺々しいベリーショートの髪型がまず目に入った。髪色は赤い。筋肉質な腕や足、腹を露出をしている。その格好で寒くないのかと思ったが、契約して以来、エスカリヴィオも寒さを感じていない。もしかすると、これくらいの身軽さでも大丈夫なのかもしれなかった。
ミレイリオは貼り付けた笑顔で、
「狩人様をお連れしました」と、口元を手で覆いながら告げる。
「そうかい。ご苦労。早くどっか行きな」きつい物言いとは裏腹に、短髪の女性は優しい手つきで、ミレイリオの頭を撫でた。
「それでは失礼します」
ミレイリオは頭を下げて緩やかに立ち去っていく。
「それで、私たちは何をすれば良いの?」エスカリヴィオは本題を切り出した。
「まずはお互いの名前を知るのが先だろう? あたしはエメリエッサだ。アンタらは?」
「エスカリヴィオ」
「カデンファです。宜しくお願いします」と、手を差し出す。
エメリエッサは軽く頷くだけで、すぐに視線を逸らし、手を取らない。カデンファは拗ねた表情を浮かべ、手を引っ込める。
「仕事は簡単だ。それぞれ監視塔に立って夜を見張る。で、大狼が居れば鐘を鳴らして報告。退治するのさ。……簡単だろ?」
「そうね」
エスカリヴィオは確かに簡単な説明だ、と思った。エメリエッサは気持ちの良い返事だと笑う。
「じゃあ場所を割り振るぞ。あたしはここ、北を監視する。エスカリヴィオ、アンタは南西にある監視塔を頼む」と、位置を指差した。「そしてカデンファと言ったな、アンタには南東を担当してもらう」
「わかりました」カデンファが相槌を打つ。
「良し。じゃあ、解散。上に居る奴と交代してくれ」
エスカリヴィオは二人と別れ、監視塔に立った。視界は開けていて、下のことは良く見える。これならば、大狼が出現すればすぐに見つけられるだろうと感じた。また監視塔はどれも、村よりも外側に位置している。だから、大狼が現れたら、事前に食い止めることができるはずだった。
契約時に飲んだ血液のためか、エスカリヴィオの身体能力は飛躍的に上がっている。感覚が研ぎ澄まされているのみならず、筋力もまた、増していた。力を込めれば、握力だけで木の幹を抉ることができる。弓を強く引っ張れば、弦はおろか、弓そのものをも壊しかねない。力の制御が必要だった。
何事も難しいのは加減である。必要な力を、必要な時、必要な場所へと制御できてこそ、一人前だ。その点、狩りの腕前は一人前であると自負している。だが狩人としてはどうだろう。それは未知数だった。自分に何を、どこまでできるのか、まずはそれを測らなければならない。
エスカリヴィオは油断せずに、村を見守った。手摺には非常用の鐘も置いてある。大狼が夜に現れるとは限らない。弓に矢をつがえたまま、その時を待つ。
獣が現れたのは、夕刻のことだった。
北の方から鐘の音が聞こえ、エスカリヴィオは梯子を無視して飛び降りる。着地は軽やかで、足に痛みもない。走り出すと、途中で、カデンファと合流した。
「来たね」と彼女は斧を背負いつつ言う。
エスカリヴィオは視線で返した。
前方から悲鳴があがる。次いで、家屋の破壊される音。木材が薙ぎ倒され、破片となって舞うのが見えた。砂嵐が起こり、その中に黒く大きな影がある。影は月に向かって顔を向けると、大仰に吠え、土煙を吹き飛ばした。
それは監視塔と同じ高さを誇る大狼だった。四足で地面を踏み鳴らし、村人たちを威嚇する。目は血走っており、理性の欠片も見られない。口から涎が垂れ流されている。見るもの全てが旨そうに見えるのだろうか。
全身が煮えたぎるように熱い。見れば、肌に刻み付けられた回路が、赤く光っている。これは自分自身の血だとわかった。内側と外側から力を制御しているのだ。
エスカリヴィオは弓を構え、矢を引く。狙うは右目。息を止め、しっかり見定めた後、指を離した。矢は一直線に放たれる。やがて大狼の右目に突き刺さると、血飛沫を撒き散らした。
「良いねえ、やるねえ、流石だねえ」
カデンファは上機嫌そうに笑う。
大狼は苦痛にのたうち回り、その場に突っ伏す。そこをエメリエッサは、半身ほどのサイズがある木槌を振り下ろした。顔面を潰されて、大狼は意識が混濁したらしい。虚ろな目で天を仰いでいた。
と、カデンファが大狼の頭上へと斧を投げる。それから家屋の壁をよじ登り、天井へ到達すると、大きく飛んだ。空中で斧を掴むと、自由落下とともに首を刎ねる。
大狼は悲鳴をあげる間もなく絶命した。
「楽なもんだったな。ありがとうよ」エメリエッサは口笛を吹きつつ、礼を告げる。近くにいた村人に、「ミレイリオを呼んでこい」
「ここに居ります」五人のミレイリオのうち、一人が頭を下げた。「狩人の皆様、お疲れ様でございます。後の処理は我々に任せ、ごゆっくりお休みください」
見れば、神官たちは大狼を台車に乗せて、どこかへ運び込もうとしている。これが常なのか、カデンファもエメリエッサも、他の人々もまた、興味をなくしたようにこの場を離れようとしていた。
しかしエスカリヴィオだけは、山に籠っていたのもあり、その遺体をどうするのか知らない。じっと眺め続けていたからか、先ほどのミレイリオが僅かに首を傾げてみせる。そして合点がいったとでも言うように小さく首を縦に振ると、
「神殿まで運び、そこで血抜きをするのでございます。それから、火葬をするのです」言い訳するような口振りで説明した。
「神殿で血抜き? それはどうして」
「大狼の血は普通の方々には毒なのでございます。ですから、血抜きを施さずに火葬してしまえば、辺り一面に血煙が蔓延してしまいますため、こうした処理が必要なのです」
「そう」と理解はしたものの、説明の全てに納得できたわけではない。「私のような狩人には、血を浴びても大丈夫なの?」
「左様でございます」微笑を作って、ミレイリオは言う。「狩人様は特別でございますから」
では、と言ってそのミレイリオは運ばれていく大狼の元へ歩いていった。残されたのは、地面を塗らす血を洗う二人のミレイリオと、エスカリヴィオだけ。
とにかく疲労感が肉体を包んでいた。全身の回路も今は形を潜め、落ち着いている。大狼を前にして、刺青は赤く燃え上がり、高揚感を漲らせた。これは一体何だったのだろう。こうした不思議さも、しかし、今はどうだって良かった。
天を仰ぐ。大狼は人だ。これは人狩りなのである。エスカリヴィオはその場で跪いた。大狼が安らかに眠れるよう、神へ祈るために。
祈りを済ませると、エスカリヴィオは、狩りを終えたと報告するために、カルテトーラの寝ている家屋へ歩く。戸を開けた時、エスカリヴィオはすぐさま異変に気づいた。先に来て待っていたカデンファとエメリエッサは、硬直したように動かない。視線は二人とも、ベッドに向けられている。そこに居るのは、考えるまでもなく、カルテトーラその人だ。
カルテトーラは複数のミレイリオによって取り押さえられている。顔は青白く、苦しそうに喘ぎ、駄々をこねるように暴れていた。
奇妙なのは、体中の体毛が濃く深くなっていること。手足の爪が割れ、大きくなっている。目や耳にはヒビが入り、皮が抜け落ち、まるでこれから脱皮しようとしているかのようだった。
既視感に眩暈を覚える。
エスカリヴィオは嫌な予感に、鋸を構えた。
「何をしているんだ」エメリエッサが気付き、咄嗟に制する。
「大狼になる」
「は?」エメリエッサは狼狽えて、絶句した。
カルテトーラは言葉にならない言葉を叫び、咆哮した。それは狼のそれと良く似ている。怒りや恐怖に満ちた感情だ。激情だ。そこにはもう、狩人や村長としての理性ある表情はどこにもない。一人の人間が、まさにこの時点で、獣に成り果てようとしていた。