終節・雪解
荒い息。酷い臭い。そのすべてが自分は今生きているのだと自覚させた。
凍えた空気をまとって、ドムトローラと目が合っている。エスカリヴィオは先の手を考えながら、足元の雪を蹴り上げた。目を潰し、一時的にだが、相手の視界を奪う。それから、大狼の背中に突き立てられたままの大鎌を──ルミレエーナの置き土産を借りることに決めた。
もし一人で仕留めきれなかったら、エメリエッサに頼むのも良いかもしれない。神殿に向かえばエメリエッサと合流できるだろう。武器も落ちているかもしれない。クロヴィは少し頼りないが、しかし、命を助けてもらった。あの混乱状態において、運んでくれたのである。見捨てることのない人間は信用できる──エスカリヴィオはそう評価した。
雪をまともに受け止めたからか、ドムトローラは片手で目を覆う。もう一方の手で、出鱈目に爪を振るい、傷を与えようとしていた。大狼の背後に回り、エスカリヴィオは背中に足をかける。鎌の柄を掴むと、思い切り抜き取った。
刃こぼれしていて、もう錆び始めている。血によって強力に溶かされたようだ。返り血を浴びるのも危険かもしれない。だが近づかなければ切ることも不可能だ。背に腹はかえられない。
慣れない得物だが、と鎌を振るった。雪を裂くほどの重さ、速度でドムトローラの背中を斬りつける。出血を受けないよう、即座に位置を変えると、今度は正面に回った。手首を使って軽く回転させ、角度を調整。首に刃を掛けた。
「もう、おやすみなさい」祈りをこめてそう呟く。
と、衝撃。
前方には星空と、それを囲む枯れ切った木の枝、前方から落ちてくる雪の結晶が視界に映った。背中には柔らかさと硬さとが同居した感触。
息を止めていたことを思い出し、思い切り息を吸う。冷たい空気が喉を通った。遅れて、全身に痛みが走る。
「一体、何が」あったのか?
緩慢とした動きで頭を上げると、ドムトローラの両脇にミレイリオの姿を認めた。二人は珍しいほどの激情を顔に浮かべている。怒り。憎しみ。恨み。そうした負の感情がそこにはあった。
鎌を杖代わりにして立ち上がる。
僅かに足元がふらつく。それもそのはず──右大腿部に大きな切り傷があった。激痛を覚えたが、何とか押し込める。傷口は化膿していて、奇妙な色になっていた。血は出ていない。まだ使える。
重心を移し、右足を庇うように構えた。
「ここから離れて頂けたら見逃します」ミレイリオが言う。
「もうこれ以上、我々の邪魔をしないでください」と。
エスカリヴィオは小首を傾げ、
「大狼は狩らないといけないわ」
「今のは聞かなかったことにしましょう。ドムトローラは、我々にとっての神です。貴方たちにとっては大狼で、害悪を成す存在であっても……」
「我々? 違うでしょう。貴方たちミレイリオは元々人間よ。ドムトローラを信仰──いえ、心酔するようになったのは大狼になった後。しかもそれも、ドムトローラの影響を受けている。害悪以外の何だと言うの?」
「機会を与えてもらったのです」エスカリヴィオはわからない、と態度で示す。ミレイリオは小さく頷くと、「我々は確かに元人間です。大狼を経て、生まれ変わりました。でも、どうでしょう。この若さ──この生命力。そして精神に湧き出す活力は、人間の時には覚えなかったものばかりです」
「得られるのは第二の人生」と、もう一人のミレイリオが口を開いた。「死を超越できる。それから、決して沈むことのない、安定した喜びという感情も与えてくれたのです」
「人生は険しいもの。運命は冷酷なもの。世界は非情なもの。我々人間は、自然を前にして、とても矮小だと思いませんか。一人では生きていけないし、できることにも限りがあります」
「ドムトローラと繋がることは、支えを得ることでもあるのです。そうして生まれ直すことで、新たな可能性を見つけ、機会にありつける──これを素晴らしいと思わず、何と思えば良いのでしょう?」
「それに、我々は誰も殺していません。殺すのはいつも貴方たち人間の方です。人間が、人間だった大狼を殺し、大狼が、人間を殺す。すべては貴方たちの間で起きたこと」
「無関係だって言いたいの?」エスカリヴィオは顎を持ち上げた。
「我々はただ、仲間に入りたいと言う者に手を差し伸べただけのこと」
「へえ?」エスカリヴィオは片眉を上げて、睨め付ける。「随分と無責任な物言いね」
「だから放っておいてくださいませんか」ミレイリオが頭を下げた。
「我々のことは、もう、良いでしょう……?」
エスカリヴィオは溜め息を漏らす。思わず笑いそうになったけれど、腑は煮えくり返っていた。何か気の利いた台詞を言いたくなったが、生憎、そんな表現は持ち合わせていない。
だから率直に言うことにした。
「……呆れたわ」
エスカリヴィオは鎌を掴み、全力でミレイリオを薙ぎ払う。二人共に胸に傷を作った。ミレイリオの目から光をなくし、倒れ込む。ドムトローラは大声で鳴いた。言葉ではない、もっと根源的な感情──恐怖と怒り。それらが綯い交ぜになったものだ。
「後はこいつだけか」
背後から声がして、首を回す。確認してみれば、相手はエメリエッサ。彼女は獰猛な笑みで腰よりも高い、大きな木槌を肩に担いでいた。しかしそんなエメリエッサの片腕がない。視線に気づいてか、
「ちょっとしくじってな」とエメリエッサは恥ずかしそうに言う。「あれ、青教のリーダーは?」
エスカリヴィオは鎌を見せながら、
「死んだわ」と簡単に答えた。
「そうか。……じゃあ、もう、誰の邪魔もないってことだ」
エメリエッサは大槌で、ドムトローラの顔面を殴りつける。ドムトローラは思い切り吹っ飛んだ。これならば出血させることもない。溶かされる心配もないだろう。
エスカリヴィオも追撃に加わった。後ろ脚を狙って、切り裂いていく。ドムトローラは叫び、己の口を噛んだ。血を吐いて、その場に撒き散らす。エスカリヴィオは咄嗟に、これを鎌で塞いだ。お陰で鎌が腐食して変形。柄の部分が折れてしまった。と、観測した束の間──ドムトローラに後ろ脚で蹴り上げられる。
大地が離れた。
空に浮かんでいる。
地面が急速に近づき、ぶつかり、顔面に痛みを覚えた。両腕、両足にも鈍い痛み。右足の感覚がない。左腕も折れたようだ。手を突いて立ち上がろうとして、変な方向へと曲がってしまう。
「エスカリヴィオ!」と悲鳴にも似た声で叫んだのは、クロヴィだ。彼に肩を借りて、何とか起き上がると、眩暈に世界が揺らめいた。
光などないはずなのに、酷く眩しい。
全身が凍えるように寒く感じられる。
こんなのは、回路を入れてから初めての感覚だ。きっと、どこかで線が途切れたのだろう。つまり、力が──血の循環が上手く働いていない、ということ。
すぐに修復されるだろうか?
わからない。
エメリエッサから嫌な音がした。ぶちぶちと引き裂かれるような──そんな音。断末魔もまた、か細く弱々しい。
「逃げよう」クロヴィが涙目になって訴える。
エスカリヴィオにはもう、答えるだけの力が残されていなかった。立っているだけで精一杯。首は据わらず、くらくらと揺れる。後はもう、五感が仕入れる世界からの情報を、一方的に取り込むだけ。それだけの存在となっていた。
これからどこへ向かうのか、どこへ向かえば良いのか、何も考えつかない。頭が動いていなかった。視界がぐるぐると回っていて、吐き気を覚える。それから、下腹部から血が噴き出してこようとするかのような、圧力があった。回路を失って御しきれていないのだろう。
何もかもが崩壊するようなイメージが頭を支配した。ふと、後ろを省みる。ドムトローラは追ってくるだろうか。放っておいてくれ、と頼んだあの大狼は、自分を殺すために追いかけてくるだろうか。雪が降り続いている。踏み締めたばかりの足跡はもう消えていた。
「一先ず、神殿に、向かおう、エスカリヴィオ」エスカリヴィオを抱えながら、泣きそうにクロヴィは言う。「大丈夫、大丈夫。大丈夫」
そう唱えながら、彼はゆっくりとだが、確実に前進した。だがエスカリヴィオには聞こえる。もしかしたら、彼にも聞こえていたのかもしれない。だから、そう唱えたのか──すぐ側から獣の息遣いがある。
言うまでもなく、それはドムトローラだ。大人しく後をついてくる。すぐに襲うわけでもなく──淡々と。
エスカリヴィオは歯噛みしたくなる。けれどそんな余裕はどこにもない。体の一箇所に力を込めるのだって辛くなっていた。コントロールが効かない。この肉体が、まるで自分のものではないような感じだ。それを、無理矢理に魂を固着させる思いで、意識を失わないよう、努めている。
やがて神殿が見えた。
「ほら、着いたよ。神殿だ」と、クロヴィも言う。「ああ……そんな」
彼が脱力したわけは、エスカリヴィオにもすぐとわかった。神殿には、沢山のミレイリオたちが並んでいたのである。各地から集まったのだ。今になって到着したのだろう。彼女らは不気味なほどに同じ顔を、エスカリヴィオたちに向けていた。
背後には大狼。
周囲には神官。
もはや、神殿に入る以外の選択肢はない。
生きた心地などなかった。死ぬことは決まり切っている。問題は、どう死ぬかだ。
靴音が無機質に鳴り響く。冷たい壁、冷たい天井。神殿を形作る、あらゆる素材が氷の視線をエスカリヴィオに向けるかのようだった。
崩れ、瓦礫ばかりの祭壇。その場に着いて、クロヴィの息が震える。エスカリヴィオはぼうっとしだす頭を使って、
「ねえ、クロヴィ」何とか声を振り絞る。「バリスタ……は、まだどこかに、ある?」
「そんなの……」クロヴィの言葉が止まった。一拍置いてから、「あったよ」と小声で報告。「二階、南西の方角」
「もし、もの時は……それで、ドムトローラを……撃って欲しいの」
「でも、辿り着けないよ」
「大丈夫」エスカリヴィオは弱々しく微笑んでみせた。
「二人を逃がすべきか、それともここで対処すべきか、非常に悩ましい問題だった」
ミレイリオたちは歌うように、声を揃えて言う。音はさざなみのように揺れ、震え、反響する。
「それで……? 答えは、決まったの……」怯えた声のクロヴィ。
「ああ、哀れな可愛い子」その口調は、いつものミレイリオではない。ドムトローラの意思だろうか。大狼が、ミレイリオの体を借りて話している。「お前たちを生かしておくのは非常に危険だと考える。それに、見せしめも必要だ。神に逆らえばどうなるか、ここで一つ示すことにしよう」
幼い喉から出てくるのは、物騒な言葉。その相反した事柄に、可笑しさすら感じられる。感情が変だ。と、エスカリヴィオは自覚。何もかもがコントロールしきれていない。意思が、意識が、体から離れようとしている。
分離を始めていた。
「私たちの──ことは、放ってくれないのね?」エスカリヴィオは冷たい笑みを浮かべて訊く。
「仕方ない」
ざわめくように声が轟いた。
エスカリヴィオは諦めて、クロヴィの背中に手を置く。できる限り、力を込めて。
「空を飛ぶ準備は?」
「え?」クロヴィのびっくりした顔。
エスカリヴィオは全力で彼を押し出した。クロヴィの軽い体はふうわりと浮かび、空中を歩き出す。方向は合っていた。だが、見届ける間も無くエスカリヴィオは倒れる。
息が苦しい。
涙が滲む。
深呼吸して、心拍を整えた。
破裂したような、大きな音。それから何かを突き破るような、熟れた果実が潰れたような──そんな音がした。影が倒れ込む。顔を上げれば、すぐ目の前でドムトローラが絶命していた。
エスカリヴィオは口元を緩める。そうして、仰向けになった。
「──ぁ、ぁぁあ」
「ああぁああ!」
「死にたくない!」
「死にたくない、死にたくない!」
「死にたくない、死にたくない、死にたくない──」
堰を切ったようように、ミレイリオたちは、口々に声を荒げる。だがそれもドムトローラの意識の残響に過ぎない。次第に叫び声は弱まり、やがて、ミレイリオは動かなくなる。息をしているのか、生きているのかすら、判断がつかない。
ただ、これが意味するのは──赤ずきんの時代の終わり。大狼はいずれ消え、平穏が訪れるだろう予感だった。どこか安心して、顔を下げる。息を吐くと、口元から白い靄が溢れた。きっと、これが自分の魂なのだろう。
「貴方に頼みがある」
エスカリヴィオは薄れかけた意識の狭間から、言葉を絞り出すように言った。ぼんやりと遠ざかる視界の中、クロヴィの、黒目がちの瞳と視線が交錯する。何、と彼は訊いた。
「介錯してもらいたい」と。続けて、「もう時間がないみたいなの」エスカリヴィオは言う。
「そんな……」
「貴方にしか頼めない」
「でも、僕は──」
「狩人。でしょう?」エスカリヴィオは確かめるように訊く。「なら、出来るはず」
唾を飲み込む音。クロヴィは何も言わず、ただ頷く。
もはや呼吸すら危うかった。身体が鉛のように重たく感じられて仕方がない。壁にもたれ、座り込む。目の前に影が差した。クロヴィが立っている。手には得物。安堵の息が溢れた。
「人生って、災難ね」エスカリヴィオは誰にともなく呟くと、口から白い息が溢れ出ていく。「でも、降り掛かる火の粉は払えば良い。それで、生きていける」
「苦しませないようにする」震えた声で彼は告げた。
エスカリヴィオは穏やかに微笑むと、
「幸運を」
そう祈り、それから目を瞑る。
音だけが聞こえてきた。他の感覚は薄れている。
聞こえるのは──
吹き荒ぶ風、
擦れる枝葉、
誰かの息遣い、それはクロヴィの──啜り泣き。