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前編

 神聖歴788年――

 私が皇帝リーンハルト四世陛下と初めてお会いしたのは14歳の時だった。当時はまさか私が皇帝陛下の妃に選ばれるとは夢にも見ておらず、嬉しさで胸が一杯であり、震える想いで馳せ参じたのをよく覚えている。

 ただ、陛下にお目通りした場所は絢爛豪華な城の中ではなく、寂れた修道院の一室。最初の印象は、一つ年上だと聞いていたのに随分と大人びて見える人。そして、生きているのに死んでいるような瞳をしている人、だった。

 私が緊張で冷や汗の止まらない手でドレスの端を摘み陛下に挨拶をした直後、修道院の院長チリアーコから婚姻の証が記された羊皮紙に自分の名前を書くよう指示される。若き陛下は終始無言であり、さっさとサインを書いたので私もそれに倣った。

 政略結婚とは理解していたが、これから立派な妃になれるように頑張ろう、と私は心に誓う。


 メルガスト伯の領地であるレーべック、昔地方領主が使っていた小さな館が私たちに与えられた家。

 どうやら皇帝とは名ばかりで権威は落ちぶれており、陛下は本当に何も持っていないのだ、と私は気がつく。

 実際私が陛下の妃にあてがわれたのも、陛下に政治への影響力を持たせないため。バウツラウ伯の娘イレーネとして生まれはしたものの、父はとうの昔に他界し、現在は若き兄が領主を継いでいるため、陛下同様我が家には大した力がないと思われていたのだ。


 ただ、家や政治の事情に関係なく、私には私の仕事、妃としての大事なお役目がある。陛下のお世継ぎをポンポンと産まなければならない。

 初めて一緒に夜を共にすることになった日。少し恥ずかしいが、母に言われた通り薄手の肌着をつけてベッドに入り、その時を待った。

 が、しかし――

 陛下は私が待つ部屋をチラと覗くとそのまま素通りし、別の寝所へと向かってしまわれた。

 私は焦りながらも、何か間違えたのだろうか、と必死に考え混乱したのち、きっと寝る部屋を間違えてしまったのだと思い至る。急いで上着を羽織りあとを追いかけ、陛下が眠る寝所へと駆け込んだ。


「出て行け、俺はお前に興味がない」


 そして、私が告げられた一言である。とても衝撃的な言葉だった。陛下は私のことが好きでも嫌いでもなく、興味がない、と仰ったのだ。

 さすがに気を悪くした私は頰を膨らませて元いた寝所に戻り、ベッドに横たわる。まさか初めての夜に相手もしてもらえず、あまつさえ出て行けと言われる始末。

 この夜は、陛下はわたしの栗色の髪が気にくわないのか、低い鼻が気にくわないのかと一晩中悩んだ。


 幾日が過ぎても陛下は全く私の相手をするそぶりがなく、尚且つ口を聞いてくれることもない。常に眉間の皺を寄せて難しい顔をしているだけ。私は何がいけないのかもわからず、悶々とした日々を送ることになる。

 待ってるだけではいけない、と一念発起した私は、なんとか口だけでも聞いてもらおうとひたすらに話しかけた。今日は何があった、とか、誰に会ったとか。

 変わりばえのない生活なので、正直面白い話でもなかったが、食事の時や寝る前など、隙をみては陛下に朗らかな笑顔を作って喋りかけた。

 それでも無視され続けていたので、今度は家人に頼み、陛下の殺風景な寝室に色鮮やかな花を飾って貰う。贈り物で喜んでもらおう、と一計を案じたのだ。若くとも皇帝である陛下は、様々な公務がありお忙しい身。綺麗な花で心を癒して貰おう、と。

 私は陛下の帰りを首を長くして待ち、お喜びになる姿を想像してにやにやとしていた。


 だが、館に帰ってきた陛下が寝所を見たときの反応は、私が予想していないものだった。「すぐに捨てろ!」と家人に向かって叫んだのだ。

 普段は怒りも笑いもせず無表情だった陛下が、狂ったように怒鳴り散らす。花を飾った私を咎めることはなかったが、陛下の怒った姿を初めて見た私は震える手で口元を押さえ、ただ涙ぐんでいた。


 それから一年間、私は余計なことをせず人形のように過ごした。たまに皇妃として司教や貴族の方と面会し、よくわからない話に耳を傾けたふりをするだけ。陛下は相変わらず一人殺風景な部屋で寝て、口も聞いてもらえないまま。皇帝の妃と言っても名ばかりのもの。

 同様に、陛下もまた操り人形のような日々を過ごす。偉大な先代皇帝が若くして亡くなり、わずか5歳で帝位を継いだ陛下は、周囲の権力者の思うままにその御身を利用されてきた。10歳の頃には母と離され、修道院で軟禁される日々。まだ大人にもなりきれていない15、6歳で皇帝という肩書きを背負う重圧。

 ただ、それと私が興味を持たれない理由が結びつかず、次第に自身が何のために存在しているのかもわからなくなっていた。この時の私は、自分のことばかりを嘆いていた気がする。


 ――とある日のこと、館の中で事件が起こる。家人の一人が調理場に毒を持ち込んだのだ。最近入ってきた若い男であり、もちろん狙いは陛下の暗殺。館内は一時騒然となったが、古くから陛下に仕える家人の一人が取り押さえ、ことなきを得る。

 館に戻り下手人が捕まったことを聞いた陛下は、「そうか」とたった一言だけ告げ、後の処理を家人に任せた。

 陛下は何事もなかったように自室に篭りいつも通りに過ごしていたが、私は身体を震わせていた。誰も気がつかずに料理を食べ、もう少しで毒殺されていたかと思うと恐ろしかったのだ。

 もちろん毒見役も多くいるので、実際に陛下や私が料理を食す頃には毒が盛られていると発覚していたことだったが、私はこんな簡単に命が狙われている、という現実がとても怖かった。

 そして、気がつく。これが幼少から続く陛下の日常であり、当たり前のことなのだと。幼い頃には公然と誘拐されかけたこともあると聞く。陛下の部屋が殺風景なのは自身を殺す道具を仕掛けさせないためであり、当然私が贈った花で怒り狂ったのは毒を警戒したからだった。

 私は皇帝の妃を務めることが死と隣り合わせであり、こんなにも恐ろしいことだと改めて思い知る。


 それからはろくに食事も喉を通らなくなり、鬱屈した日々を送った。陛下は相変わらずだし、家人に弱みを見せるわけにもいかない。母に相談しようにも手紙は全て見られてしまうし、一人ではどこへも行けず。

 私は寂しくて恐ろしく、枕を涙で濡らす夜を幾晩も過ごす。立派な妃になる、という誓いなど、とうに忘れてしまっていた。

 ――塞ぎ込んでいたある日、家人から陛下の意向を伝えられる。

 帝国議会において、陛下と私イレーネの婚姻が不服であると訴えたのだ。教会ではなく、議会で高らかに宣言してしまったとのこと。私などいらない、と言われたような気がして少し寂しい想いを抱いたが、同時に安堵もしていた。これで、この生活から解放されるのか、と。

 だが、発言力のない陛下の訴えが通るものではなかった。帝国議会は婚姻の不服を却下し、私たちの婚姻関係の継続とこれまで通りの生活を命じられた。


 帝国議会の判断を聞いた私に、思うところは特にない。陛下との婚姻は政略的なものであり、私自身当初からお相手を選べる身ではない。私は私に与えられたお役目を全うするだけだったからだ。

 しかし、陛下は本当に気を落とした様子だった。その日の夜、珍しく、というか、初めて私の寝所の前で立ち止まり、こう告げたのだ。


「すまない」


 そう、たった一言だけ。初めて陛下からかけてもらったのは謝罪の言葉だった。

 短い言葉だったが、その真意に気がついた私は、静かに涙を流す。悲しかったからではない。陛下が帝国議会で婚姻の不服を申し出たのは、私のために行ったことだと気がついたからだ。

 陛下は、この窮屈な生活に鬱ぎ込む私を気にかけてくれていた。私と口を利かないのも、世継ぎを作ろうとしないのも、いつ訪れるかもわからない暗殺の魔の手に巻き込まないためだったのだろう。

 もし私が陛下の世継ぎを身籠れば、政敵から直接命を狙われる可能性が非常に高い。陛下は常に見えない敵と戦っていたのだ。

 そんなことにも気がつかず私は一人引きこもり、見かねた陛下が議会に逆らう真似をしてまで家に戻してくれようとした。

 私は涙を拭いて立ち上がり、立派な妃になると誓ったことを思い出す。皇帝の妃に相応しい人間になろう――そう奮起したのだった。


 それからの私は、陛下を心配させないようたくさん食べて、よく庭に出て、訪ねてくる司教や貴族たちとの面会も積極的に行う。

 政治思想の質問をしてはその人物の思惑を図り、皇帝リーンハルト四世の敵なのか味方なのかを注視するようになった。何も考えていない力無き皇妃と思われている私に油断しているのか、各地の権力者たちはうっかり口を滑らせることも多々あった。

 私の母は、兄たちに常々「人を見極めなさい」と教えていた。自身も女伯として領地を守り、父亡き後のバウツラウ領も兄の摂政として切り盛りする母は、まさに女傑と呼ぶに相応しい女性。私にも同じ血が流れているなら、きっと出来るはずだと信じることができた。

 まずはこの館に陛下を軟禁し、皇帝の庇護者という建前を欲しいままにするメルガスト伯の政敵を探すこと。権威への忠誠が期待できない以上、敵の敵は味方と信じた方が早い。私は権謀術数ひしめく帝国政治の中へ、気がつかれないよう緩やかに足を踏み入れていった。


 神聖歴790年。結婚して二年も経てば、私の皇妃としての仕事も手馴れてくる。口の軽い司教たちから様々な噂を聞き、帝国内の派閥にもかなり明るくなってきていた。

 だが、陛下は未だいつ命を狙われてもおかしくない立場。これ以上陛下が飼い殺しにされれば、用済みになった途端メルガスト伯に手のひらを返される可能性も出てくる。相変わらず不仲と噂される私たちでも、年頃になった二人ならいつ世継ぎが生まれてもおかしくない、と周囲に囁かれ始めていたため、私が狙われる可能性も高くなってきていた。

 陛下は私との間に世継ぎが生まれないことを理由に、もう一度議会へ婚姻の不服を訴え離縁する腹づもりだろうが、それは望む所ではない。意を決した私は行動に出ることにした。

 ――ある日の夜、陛下の寝所へと赴く。


「出て行け」


 噂が立つのを気にしてか、私を邪険に扱う陛下にこう言われることは当然わかっていた。しかし、覚悟を決めた以上引くわけにはいかない。

 私は殺風景な寝室の中で、高らかに宣言したのだ。


「陛下、離縁は致しません。私は味方です!」


 意外だったのか、面食らって目を丸くする陛下に、私はなおも叫び続ける。心から。


「絶対に裏切ることのない陛下の味方です!」


 全てが敵に見える孤独の中で、信頼できる味方は一番欲しいもの。皇妃として二年の私ですら欲しているのなら、長年見えない敵と戦っている陛下は誰よりも味方を欲しているはず。私が陛下に贈るべきものは、心休まる綺麗な花ではなく、誰よりも信頼の置ける味方だった。


「陛下に、私の人生を捧げます。神に誓って」


 胸に手を当て、私は笑みを浮かべる。自分でも何を言ってるのかと可笑しくなってしまったのだ。後先考えず陛下の御心に土足で踏み込むような真似。もしかしたら、すごく迷惑をかけているのかもしれない、と。

 いつもの小難しい表情に戻った陛下は、私を真っ直ぐに見つめ、小さな声で呟いた。


「……長く、生きられないかもしれない。それでも良いか?」


 これが、陛下が初めてくれた質問。私の意見を尋ねてくれたのだ。もちろん私は即答する。


「陛下と共に天へと旅立てるのなら、これ以上の喜びはありません」


 たぶん私は謝罪の言葉を頂いたあの日、陛下に恋心を抱いたのだろう。家や立場のことなど関係なく、私の心が陛下を支えたいと思っていたのだ。

 私の返事を聞いた陛下は、口の端を上げて笑顔を作って見せた。随分と悪そうな笑みだったが、いつもと違う表情が見れて嬉しかった。


「ならこっちに来て座れ、少し話そう」


 元気よく返事をした私は飼いならされた子犬のように駆け寄り、満面の笑みで陛下の隣に腰掛ける。

 それから二人で過ごした夜は、甘い蜜月のようなひと時――ではなく、これからどのように皇帝直轄領を取り戻すか、という割と本気な謀略。

 腐りきった諸侯たちを貶めるための謀略を話す陛下は、とても楽しげな顔だった。




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