8.朝のナディアさん
まだ早い時間だというのに、世間は既に動き出しているようだった。
「みんな働き者なのねー」
「公爵様はじめとして、金持ち連中に納める税を稼ぐためだな」
「本当に、これまで申し訳なかったと思ってるわよ。お金持ちらしい振る舞い、全然してこなかったし」
「今はお前も庶民だ。気にするな……いた。ナディアさんだ」
お店の近くに来て、レオンはすぐにナディアの姿を見つけた。たぶん、霊に手伝ってもらったのだろう。
慌てて物陰に隠れて様子を伺う。
私たちは一応、彼女が起きるより前に行動を開始したつもりだった。つまり、お店からナディアさんが出て来て開店準備をするあたりの時間には外から様子を見られるようにと。
けど、ナディアさんの方が早かった。理由はひとつだけで、彼女が食材の買い出しも朝から自分でやっていたからだ。
そこは、クリフォードさんなる人物にお願いしているかもと予想してたのだけど、外れたようだ。
彼女は荷車を引っ張っていた。そこには野菜や肉類が乗っているのが、少しだけ見えた。
他の従業員を雇うでもなく、業者にお願いするでもなく、自分で全部やってたようだ。
「相当早起きしてるな」
「昨日、早く寝たんでしょ」
「だろうな。でも、うちの店員よりは長い時間働いてることになる。労働量も種類もかなり差があるはず」
「でしょうね」
私は基本的に野菜の皮むきと皿洗いしかしないし、レオンもホールの仕事がメイン。
けど、ナディアさんは全部やらなきゃいけない。お店の規模もヘラジカ亭の方がずっと大きいけど、従業員の数を考えればナディアさんの労働量はうちの店員の数倍にも及ぶはず。
「本当に、他の従業員はいないの?」
「見た限り、いないな」
店内に消えていったナディアさんを見ながら、結論がわかりきってる受け答えをした。
そのまま開店まで粘ったけど、他の人影はなかった。
店の評判が広まってきたのか、開店前から数人の客が列を作っていた。訪れる客数は、昨日より多いって印象を受けた。
「そのうち、ひとりじゃ回らなくなるわよ」
「そうだなー。どこかで人を雇わないと。それだけの儲けはありそうだし」
「私たちで手伝うのは?」
「やめとこう」
「そうね」
他の飲食店の者だといずれバレるだろう。客として偵察するのは業界として許されるけど、内部に入って技術を見るのはまずい。
ヘラジカ亭の評判を落としかねないから、私もすぐに思い直した。
「開店して思ったより評判が良くて忙しくなったから、今から働き手を探すつもりかもしれないし」
「そう考えるのが自然ね。お店でご飯食べるついでに、今の状況について訊いてみてもいいかも」
「今日はやめた方がいいけどな。また転ぶし」
「毎日お店で転ぶ迷惑客にはなりたくないわねー。レオン、ちょっとひとりで行ってきてよ」
「やだよ。子供だけだと怪しまれる」
「いいじゃない。怪しまれてれば」
「連日訪れるのは、俺もなんか気まずいし、明日にしないか?」
「わかったわ。行ってくれるのね」
「他の誰かを同行させたい」
「ニナとか?」
「本業に支障が出そうだし、それは避けたい」
確かに。お願いしたらノリノリで協力してくれそうだけど。そして給仕の仕事をサボって母親に怒られるのが見えていた。
「今日はどうするの? このまま監視を続ける?」
「だなー。何かわかることもあるかもしれないし。そこにカフェがある。あそこからなら店も見えるし、座りながら監視しよう」
「なるほど。あれが、庶民がお茶会するためのお店」
「やっぱり認識がズレてるんだよな」
いわゆるオープンカフェという形態らしい。表通りから外れて比較的人通りが少ない道に面したお店で、のんびりお茶を楽しめるお店だ。
秋も深まってきた頃だけど、日中は涼しくて過ごしやすい。柔らかな日差しを浴びながら飲むお茶もなかなか良いものだ。
出されたお茶自体、かなり美味しいし。これ専門でやっている人が淹れたお茶なのだから当然か。
庶民のお店も、なるほど悪くない。
「なんというか、ゆっくりするのっていいわねー」
「そうだな。お茶会は慣れたものじゃないのか? ……これはお茶会じゃないけど」
「そうねー。お茶会って感じじゃないわね。あれって、貴族の女の情報交換の場だから」
「へえ」
「噂話をひたすら言い合うのよ。あそこの家の子供の結婚が近そうとか、あの家が仕事で失敗したとか。そんなこと」
「それ、楽しいのか?」
レオンは、そんなお茶会のありかたにさほど興味を持ってなさそうな様子で、お茶請けのスコーンをかじりながら尋ねる。
興味があるのは、それに臨む私の心情か。
「少しはね。出てくるお茶もお茶菓子も高級品でおいしかったし」
「大事なことだな」
「それに、お喋りの方も……ちょっと楽しかったわ。その場にいない人の悪口に発展することは多かったし、淑女としてそれを喜ぶのはどうかと思ったこともあったけど」
「偉そうに振る舞ってる金持ちも、人間性はそんなものだよな。取り繕う技術だけは高い」
酷い言い草だ。けど、レオンの言ってるのも事実。
学校に通う前、小さい頃のお茶会なんてかわいらしい物だ。大人たちの話を半分も理解していなかっただろう。けど、彼女たちの話は面白かった。
同時に、今から思えば嫌悪感もあった。
私は、楽しんでいて良かったのか。
「いいだろ。庶民も貧乏人も、くだらない噂話は好きなもんだよ。そのために、こういうカフェに集まる人もいる。立ち話で嬉々として下世話なことを喋るの奴も多い」
「そういうものなの?」
「そこは、金持ちも庶民も変わらないな。けどカフェを使う理由は、それだけじゃない」
レオンはお茶を一口飲んで、それきり何も言わなかった。ただただ、椅子に体を預けて空を見上げていた。
しばし、無言の時間が続く。