〜人の嫌な面も見られるようになるまで可解できない自分〜
すぐ、その人の前であっても悪口を聞こえるように言ったりそれっぽいことを呟く。それが個人名を出さないのがまたタチが悪い。何故なら個人名を出さなければ誰に言っているかもわからないし、幻聴としてしか捉えられない。悪いことは聞き流したいと思う方だが、なかなか一度染みついた悪口は消えそうにない。結局、殴られたり蹴られたりなど暴行罪などといった実害が無ければスルーされる。スルーされるのは良いが本当に困った時は家族でも友達でもなく自分で自分をコントロールしてどうにか出来ないことをどうにかするために、人間のように生きるのではなく人の話を聞いて、機械的になることが唯一のストレス発散方法になるのではないかと考える。
1年なんてあっという間なのだから、心を休める時間として良いと認めることは自分にしかできない。自分が自分で無くなったら終わりというけれど、本当にそうだなと痛感した。22年間ずっと休むことをしなかった心を休める時代を待っていたが、今親に頼ってはいるが、他人のように接されているため自分だけの時間は好きなことをして過ごしている。しかしながらまだまだ1日の中での情緒が安定しない。1日が長いのは沢山のことが出来て良いと思う人もいるかもしれないが、そればかりか考えが堂々巡りで一周回って悪い方向にしか考えられなくなる。
これまでは人は傷つけられても大丈夫だと思っていたけど、人は人に傷つけられると悲しむし落ち込むと考える。
ついには人間である自分も嫌いだし傷つける人間も嫌いになる。ずっと人を傷つけてしか生きられないような人間にはなりたくないと思っていた。落ち込むだけならいいのにずっと何かをしようとして身体を動かそうとする度に吐き気がもよおしてさっき食べた美味しいはずのチョコレートや手作りの紅茶蒸しパンケーキですら吐き出してしまった。せっかくおばあちゃんからもらったポテトチップスですら吐き出してしまった。きっとやめてほしいと言葉で言っても伝わらない煩悩で頻脳なのだろう。それでもまだ止めないということは自分としても病めないし辞めれない。人の言うことなんて鵜呑みにしていたら自分の心が殺される。人は結局心は殺せても身体を傷つけたり実際に殺すことはできない。できないのではなくしようとしても自分が罪を着せられる恐ろしさに怯えて流石にそこまでして自分を抹消しようとは思わないらしい。そんなに死んでほしいのなら殺したら良いのではないかと安直な考えが浮かんだりするが、死ね死ね言われると本当に殺されるのではないかと不吉な夢を見たり思い込まされたりする。それで夜に寝付けなかったり、不安に襲われたりもする。
そうやって人の心蝕まれたりしていくうちに何も感じないようになれば良いのにと何をするにも無心でしていくことで心が落ち着かせるれば誰も傷つかない世界線で生きていくことができるし、人を見下す草とは反対に心に平和な芝生のようなものを生やすことができると思う。そんな芝生の上でただただゆっくり眠りたいだけなのに、人はそれをよしとしない。つまり、自分でその芝生を選んで自分だけの芝生の中で愛護することしかできない。それが他人から見て「逃げ」だとか「甘え」だとかいう部類に分類したがるかもしれないけど、今はそう思われてもいい時間。そうやって自分を自分で認めないと今日という今日がここで生きていくことすらままならなくなりそうだから。
仮に、1人の人として見てくれる者はいないと考えたとしても平和な心でいられる時間が自分の中で何かを変えるきっかけになればいいかと思うし、別に誰かを変えようだとか友達をつくろうだとか恋人を作ろうだとかそんな烏滸がましく、贅沢なことはしないし、望まない。ただただ心が平和である時を望みそれをしばらく待つ大事な時期として1年過ごすと決めたからそうすることでしか自分を自分で慰めつかないだろうし、変われないだろうから。