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第七十五話 腹の中に〔一〕

 ヘレナが初めて体調を崩したのは、四歳になった頃の事だった。

 前の日まで元気に辺りを走り回り、トカゲやら虫やらを追いかけ、泥だらけになってはしゃいでいたのに、その日の夜突然熱を出した。今回と良く似た状況だ。

 まだ若かったオスカーは慌てふためき、医者を求めて夜中に町中を駆け回り、這い回った。

 このままヘレナの熱が下がらなかったらどうしよう。ヘレナがもし死んでしまったら? その様なことを頭のなかでぐるぐると考えてしまい、グスタフに「お前は父親なんだから、もっと落ち着け」と諭されてしまったことをオスカーは良く覚えている。

 幸い医者は見つかり、ヘレナの体調もすぐに治った。どうやら風邪を拗らせていただけの様だった。

 ほっとオスカーが胸を撫で下ろしたのもつかの間、今度はオスカー自身が風邪に罹り、寝込んでしまうことになったのは、今となっては笑い話だ。

 ヘレナはそのとき以来、大きな病を患うことも、体調を崩すこともなく、健康に育っていった。だが……









「……これはいけませんね。すぐに私の拠点に運びましょう。フェルメール、すぐに手配を。」

「承知致しました」


 部屋に入ってきて、ヘレナの容態を少し観察したホーエンハイムは、少し焦った声で、連れてきていた鳥のような仮面を着けた部下にそう指示を出す。


「いつ容態が急変するかわかりません。オスカー様、準備が出来次第ヘレナちゃんを馬車までお願いできますか?」

「わかりました」


 オスカーは険しい面持ちでそう頷いた。


「先生、ヘレナちゃんは……」

「ヘートヴィヒお嬢様、大丈夫。私の部下達は皆優秀です。ご安心下さい。」


 そう言って心配するヘートヴィヒに、ホーエンハイムは優しくそう返し、肩をぽんぽんと叩いてやった。



「ホーエンハイム師、準備が整いました。いつでも行けます」


 まもなく、先程の仮面の男が戻ってきてそう言った。


「フェルメール、ご苦労様です。それではオスカー様、行きましょうか。」

「はい。……ヘレナ、今からホーエンハイム先生が診てくれるからな。ちょっと場所を動こう……」


 オスカーはそうヘレナに呼び掛け、優しく抱きかかえ、馬車まで向かった。




「オスカー様、施設内は原則立ち入り禁止です。が、どうか到着まで一緒に付き添ってあげてください。その方がヘレナちゃんも心強いでしょうから。」

「勿論です。ですが、やはり一緒に中に入ることは出来ないんですね……」

「申し訳ありません。他の患者に病気が移ったり、貴方が病気に罹るといけませんので。」

「……いえ、わがままを言いました。こちらこそ申し訳ない」

「ご理解頂けたようで何よりです。では、行きましょうか。」


 ヘレナ達を乗せた馬車は門をくぐって城から離れていく。静けさが支配する真夜中の町に、馬車の走る音が良く響いた。









 ホーエンハイム率いる冒険団『小夜啼鳥の館(ケルッスス)』の拠点は、フェルリッツ城の北西、旧市街の外れにあった。広大な敷地に多くの建物が林立し、そこだけで一つの小さな町の様になっている。

 その正門は鉄柵で出来た荘厳なもので、そこから正面奥にある巨大な古代の神殿のような姿をした、大理石の建物が良く見える。『救い手の社』、彼らの本部である。


 

 オスカーは鉄柵の門の目の前で降り、中に入っていくヘレナを見送った。

 その後、別の馬車で城まで送ると言ったホーエンハイムの申し出を断り、深夜の町を一人で歩き、城への帰路についた。


 カツカツと、夜のフェルリッツに一つの靴の音が響く。


 例えどれほど暗い夜道でも、突き刺すような陽の下でも、ヘレナさえ横にいれば、オスカーはそれだけで勇気づけられた。力を振り絞れた。困難な敵にも立ち向かえた。

 十年程前のあの日、名誉も名も、表の世界で幸せを享受する望みすら捨て、勇者エルフリーデの目指す争いの無い世界を実現するために、闇に身を投じたオスカーは、ヘレナと出会うことで救われた。ヘレナは、

誰にも頼ることの出来ないオスカーにとって、掛け替えの無い唯一無二の心の拠り所に、宝になった。


 いずれ滅ぶ命を、ヘレナのために燃やそうと心に決めた。


 ヘレナにどう思われようとも、彼女の生きる世界が幸福なものであるように、精一杯の努力をすると心に誓った。


 そんな決意も、誓いも、ヘレナがいなくては意味を為さない。

 途端にオスカーは、強い無力感に襲われた。自分は、ヘレナがいなくてはなにも出来ない、小さな存在だと、実感させられた。

 ヘレナは今、苦しみの中にいる。愛する娘が苦しんでいるのに、自分は彼女になにもしてやれない。


 ふとオスカーは立ち止まり、月明かりに照らされた自分の影を見つめる。

 オスカーの影に住むレトが、姿を見せる気配は無い。空気を読んでの事だろうか。ただ静かに、影の向こう側から契約者の姿を眺めている様だ。


 オスカーはまた歩き出す。目の前に広がる東の空は少し明るみを帯び始める。

 オスカーにとって日は天敵だ。

 オスカーは、そんな忌々しい日の光を睨み付けるように見る。そのときだった。


「クルーガー卿、お伝えしたい事があります」


 背後から、そう一人の男に声をかけられた。黒いローブに身を纏った、ホーエンハイムの部下に紛れていた男だ。


「トリストラントか……元気だったか?」


 振り返ったオスカーはその男にそう答えた。


(わたくし)はこの通り。それより卿は……」

「あぁ……娘が病にかかった程度のことで、この体たらくさ。エルに笑われちまうな」


 オスカーはそう自嘲気味に笑って見せる。トリストラントは少し眉をひそめると、フードを外してオスカーを真っ直ぐに見つめた。猫のような耳が、頭に生えている。彼も獣人なのだろう。


「卿、お伝えしたい事の前に、貴方に聞きたいことがあります」

「なんだ?」

「……東の事件は、貴方の差し金ですか?」


 一瞬の沈黙の後、オスカーは口を開いた。


「ローシェン法皇庁は、俺を大層警戒してる様でな。この前も、俺に異端審問官を送り込んで来た。俺はどうしてもあそこに行かなくちゃならない。……計画自体は、一昨年辺りに東部に寄ったときからあったが、案外上手く行った。既に待ち合わせ場所も決めてる。とっとと行ってやらないとな」

「……お見事。それだけ聞ければ、充分です」


 そう言うと、トリストラントは突然鞘から剣を抜いた。そして、



 ザクリ……



 肉の裂ける音が、朝焼けの町に響いた。









「……これで、『王国(セクメト)』は私の手の内に。オスカー様、待っていますよ……。」


 狭く、暗い部屋に、ホーエンハイムの声が響く。そんな彼の目の前には、静かに横たわるヘレナの姿があった……。

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