第十二話 徒手空拳の女
こんにちは! ワセリン太郎です!
──突然迫る、左の横薙ぎ──!
生命の未来を奪い切り落とす、鋭い鎌。
私は半歩下がってダラリと両手を降ろし、軽く上体を逸らしてギリギリ躱した。うん、いける。落ち着けば見切れないわけじゃあない。
そして同時にコンパスで円を描く様に前後の脚を入れ替え、悟られぬ様にと、戻る動作で挙動を隠し……相手の踏み出したつま先を、己の踵で強く踏みつける。
敵の足首の自由が利かぬ様、踏み足の親指、人差し指を、くるぶし近くへ突き立てギチリと挟み込む。鎌の切れ味によほど自信があるのだろう。怪物はお構い無しに大味で単調な動きを見せ、切り返しの右鎌による斬撃を放つ為、勢いよく上体を捻ろうとするが……その動きを察知した瞬間。
――させるか。
先程振り抜かれた鎌の背を左手でしっかりと掴み、逆関節に捻り上げて相手の抵抗を誘う。それとほぼ同時、振り抜いて伸びきったヤツの左肘へ、右掌を腰ごと回転させてコンパクトに叩きつけた。そのまま上体のみダラリと力を抜き、重さの増した体重をグッと鎌の背に預ける。
ここまで一拍。流れる様に決まった。
肘関節を極められた怪物が本能的に嫌い、咄嗟に振り解こうとするが……そのまま強引に捻り、己の右肘を刺す様に押し込み、更に突き崩す。そして体勢を立て直そうとした相手の反発を石臼を回す様にいなし、バランスを大きく崩してやりながら思い切り手元へ引き込んだ。怪物の肘が、ミシリと嫌な悲鳴を上げる。
これから突き込む打撃に備え、極めたまま体重を一気に下半身へ落とす。力というものは案外、回転運動に対して強くない。そうして敵の力を利用し身長差を崩す瞬間、足首を踏みつけた左脚の膝で相手の太腿を外側から絡める様に押さえ込み……瞬時に体重を押し込んだ攻防一体の……力を込めた左の追い突き──
私はそれをヤツの巨大な目ン玉の瞳孔目掛け、速度を乗せた最短距離で鋭く振り抜いて――!!
ボリッ!
一本拳に握った私の拳は……踏み込むと同時に怪物の目玉へ一直線に吸い込まれ、ヤツの視界を容赦なく蒼い血に染め上げた。
「ギィャァッ──!?」
その大きな瞳孔付近へと突き刺さったのだろう。突き出した中指の第二関節へ、ヌルリと硬い感触が衝撃となり返って来る。今のは確実に芯を捉えた。引き絞った肩甲骨に残る、重く鈍い反動。
思ったより随分と深く入った感があった。そもそも、立ち上がろうとする膝を外側から押し込まれてバランスを崩し、その上で爪先を踏み付けられているのだ。いくら慌てて仰け反ろうとも、重心の下がらぬ膝、腰には力が入らず、その長身は両腕の鎌を地面に刺して支えるしかない。
まるで間抜けなカメラの三脚だ。振り抜かれた“突き”の威力の“逃げ場”はどこにもない。
でも眼球って……案外硬いものなんだな。肉を打った痛みと共にじわりと掌へ残る、私の知らない初めての感触。
(これは悪く……ないかも)
当たり前だが、人間相手には絶対にしてはならないと定められた禁じ手だ。それを一切の躊躇なく放てる事に人知れず興奮し、心臓の鼓動が跳ねだすと同時に微かな歓喜の身震いが起こる。
「マ、マコトちゃん……!?」
アルの震える声が耳に届く。そりゃまあそうだろう、さっきまでペロリと舌を出していたペコちゃん人形みたいなチビっ子娘が、突如ちっちゃいス◯ィーブン・◯ガールに変貌して敵をブチのめしたのだ。驚くのも無理はないと思う。まさに、沈黙の通学路である。マコト、沈黙のシリーズ好きなんだよなぁ、友達とか誰も理解してくれんけど。
一つ目の怪物は思わぬ反撃に驚き、慌てて顔面を庇う。だが、これで終わりではない。
そうして先ずは視界を潰しておき……そこをガードした両手の鎌の隙間を狙う。
――ボッ――!
お次は喉元への軽い逆突き。これは“虚”であり、突き込んだ腕を反射的に斬られぬよう、当てると同時に突き手より素早い“引き”を加える。
初撃が効いた。いや、きっと効き過ぎたのだろう。光を失った暗闇の中、喉をポンと叩かれ追撃の恐怖へ過剰に反応した怪物は、目の前の見えない敵に向けて……両手の鎌を懸命に振り回す。だが、そこにはもう私の身体は無く、怪物の両腕は虚しく虚空を切り続ける。
そのまま必死に暴れてろ。私の用があるのは、お前の下半身の方だ……あ、ち◯この事やないど。
ついでにもう一つ、禁じ手への興味が私の全身を支配した。それは言うまでもなく、関節の完全破壊。そう、この良心の呵責を一切感じない相手に対し、二度と立ち上がる事が出来なくなる程に容赦のない鉄槌を。
低く頭を屈めた私は踊る様にステップを踏んで回り込み……再び、爪先を踏み付けていた足を素早く差し替える。そして相手の側面からヤツの左膝を躊躇なく、全体重の乗ったかかとで思い切り踏み砕く──!
──ぼギッ──!
それは奇妙な……骨がたわんで限界を迎え、通常とは違う向きに捻じ曲がり欠ける音。そうして怪物の長身は関節の支えを失い、あっけなく崩れ落ち始める。
――ゾクッ――
再び知った未知の感触。骨を打ち砕く快感が背筋を駆け抜け……また不思議な心地良さが全身を支配した。
「ギイイィィィィッツ──!!」
苦しそうな声を上げ、地面へ尻餅をつく怪物。両鎌のガードが下がり、顔面がガラ空きだ。
トドメだ。
追撃の為に素早く正面へと飛び込み、息を吸いながら腰を引いて重心を落としつつ、両腕を交差。肘を揃えて己の顔前へと精一杯突き出す。
それから奴が、なんとか体重を支えようと、両鎌の切っ先を大地に突き立てた瞬間。私の全体重が弾丸の様に弾け飛ぶ――!!
それはまるで、全身全霊で力一杯舟のオールを漕ぐ様な動きの……構えた後足を伸びやかに使う、全体重の乗った顔面前蹴り。当然その威力は、前脚による浅い蹴り込みなどとは比較しようもない。
――カチィンッッ!!
激しい音から一瞬遅れ……頭蓋を砕く感触が私の膝の軟骨へと伝わる。
今の乾いた音は、ヤツの眼底骨でも砕けた音だろうか? 目玉に母子球を打ち込むのと同時につま先を用い、思い切り奴の眼球を抉り取った。本来ならカウンターで突きに合わせる大振りな前蹴りなのだが、正直、転んで動けない相手の顔面を捉えるなど造作もない。
――グシャッ。
怪物は目玉を真っ直ぐに蹴り抜かれ、叫び声も出せぬまま背後にいる仲間の元へと勢い良く転がった。
「見たかオラ、ぼけかす──!!」
非道い? やり過ぎ? 違う。これは試合ではなく命の遣り取りだ。もしここで一瞬でも攻撃の手を緩めでいたら、きっと今、あそこに転がっていたのは……ヤツから斬り飛ばされた私の首だっただろう。
――スパァン!!
勝ちを確信し、バシッと拳を引いて残心の構えを取る。
私の連撃をまともに浴びた怪物は、無言で仰向けに倒れてピクリともしない。いや、よく見たら小刻みに痙攣しとる! そしてその大きな目玉からは……あれはもしかして血液なのだろうか? とにかく謎の蒼い液体をドクドクとリズミカルに垂れ流しているのが見えた。何じゃあれ、きもっ!!
そうして肩の力を抜きつつ軽くフットワークを取っていると、ポケットの中からドン引きした様なアルの声が聞こえてきた。
「ちょっとマコトちゃん! 君、ホントに何者なんだい!? 正直、マトモな人間とは思えないんだけど! 何というか、まるで“鬼”が闘う姿でも見せられている様だったよ。ねえ、君の身体は一体どうなってるのだろうね? すごく興味があるからさ、今度一度でいいからちょっと解剖させて貰えないかな??」
なに興奮してるんだ? てか喋るネズミに『マトモじゃない』とか言われたくないんだけど……は? ちょっと待って! 今このネズミ、解剖させろとか言わなかった!? 何なの“一度ちょっと解剖”って。一回解剖されたらお終いやんけ! こやつ絶対にアタマがおかしいと思う!
でも、“普通じゃない”かぁ……それはたまに言われるなぁ。
マコトは……といっても、小、中学生当時のマコトはなんだけど、この柔術……いやそれも合気柔術じゃないから、一般的には空手って言った方が近いし、通りは良いのか? まあそこは説明すると色々あるんだけど、とにかく女だてらに強くなりたいが為に必死になって練習し、その延長で身体の上手な使い方を学ぼうと、体操競技にまで手を出したという少し変わった過去が。
その結果、持って生まれた不自然な身体能力も手伝って……こうなってしまった、と。だいぶ変に思われるだろうなぁ。でもいいや、何しろ目の前の相手は“日本語を喋るネズミ”だ。どっちかって言うと明らかにマコトの方が常識的な存在だし。
「うーん。マコトね、中学終わるまでは武術道場に通ってて、それにあと体操もしてたんだ。だからまあその……喧嘩は普通の人よりちょびっとだけ強いかも??」
「いやいや! これのどこが“ちょびっと”に該当するのか詳細に説明して欲しいね! もしその辺の喧嘩自慢が君と闘ったら、確実に数分間でグニャグニャの無脊椎動物へと退化させられてしまうじゃないか!」
まーたアル君、なんか良くわからん難しい事を言うとる。ちなみに武術の先生はマコトの親戚の怪しいオッサンだ。そのオヤジこそが道場主でもあり、幼児期のマコトに“お猿さん並の身体能力”が備わっている事を見抜き、鍛え上げた張本人でもある。
てか今考えると何だったんだろう? あの道場の『喧嘩が強い女の子はかわいいし確実にモテる。若い内からママゴトなんてしてると将来ハゲて村八分にされるぞ!!』っていう教えは。
当時も不思議に思い、『おじちゃん! マコトね、何かこれ、カワイイのと違う気がするんだけど!』って聞いたら、『バカ野郎! マコト、お前が学校でモテないのはチビでチンチクリンのつんつるてんだからじゃないぞ! それはまだまだ訓練と強さが足りないからだ! とりあえず逆立ち拳立て三百本! 大体そんな下らない事を考えている暇があるなら、人間の限界を超越する為に体操競技もやれ!!』などと言われ、『なるほどなー。良くわかんないけどそんなもんなのか! あんね、あとチビって言うなやクソが』と納得したのは良い思い出だ。
「でもそれなら君、何で河川敷で襲われた時にこの力を発揮しなかったのさ?」
まあ、アル君の言いたい事もわからんでもない。でもね、いきなり目の前に怪物が現れたら、そりゃあいくら何でも固まりますよ。言うてもマコト、元々びびりだし。
「いやぁ、あの時は流石にびっくりしちゃって。でもね、コイツ等も少し見慣れたし、身体は動くようになったかも! それより何かアタマにきちゃってさ、もうやっちまうか……みたいな?」
「いやいや驚いた! 奴らを始末した一般人なんて……恐らく、世界で君が二例目だよ」
「えっ、他にもいるん??」
「報告によると神丘市内の中華料理店、陳宝軒の店主が……肉厚な中華包丁の一撃でアタマを木っ端微塵に粉砕して処理。っていう記録が残っているよ。ちなみにそのオヤジ、昼、夜と続けて二体を仕留めているみたいだね。でも、流石に素手は君が初めてなんじゃないの??」
「マジか、ご近所じゃん。何でそんなに近いのか」
この近所で、世界において稀少な二例目。もしかすると世の中というのは、私が考えるよりもずっとずっと狭いのかも知れない。でもまあウチの町の商店街とかって、未だに乱暴な感じのオッサンとか多いからなぁ。
よし、とりあえずこの勢いで残り一体をブチのめせば無事に帰れ……るっ!?
その時、奴等の背後からもう一体の“敵”が現れたのだ。ふと見ると、先程ぶちのめした筈のアイツも……ゆっくり起き上がろうとしていた。
「嘘!? 効いて……ない? 膝を思い切り踏み砕いて、頭も蹴り抜いたのに……」
いやいや! そんなワケない。あの時、私は……確実に奴の身体を再起不能になるまで破壊した筈だ。その感触だって、まだ手足にしっかりと残っている。
しかし目の前に立つ敵は全部で三体。それだけは間違いのない事実。
「いや、あれは多分、短時間で回復した……と見るべきだろうね。マコトちゃんごめん、あまりにビックリして伝えるのを忘れてたんだけど、判明している奴等の急所は“頭部”ただ一カ所のみなんだ」
エッ!? 先に言ってよ!!
「じゃあ、それ以外の場所は?」
「恐らくダメだね。アタマを粉砕して吹き飛ばすか、首そのものを切り落とすかしないと生命活動を停止しないんだ。残念ながらそれ以外は……極、短時間で修復、復活するという報告が多数を占めてるよ」
でも素手で頭を吹き飛ばすって……無理だよね、絶対。マコト、ゴリラと違うし。
「それ誰から聞いたん??」
敵に動きあり。
「私にはね、色々と物知りな友達が多いのさ! 来るよマコトちゃん! もう何をしてもいいから、とにかく全力で生き残るんだ──!!」
奴等は徐々にこちらへ詰め寄り、今度は三体で同時に鎌を振るうつもりらしい。そうなるともう、ある程度の体術や身体能力ではどうにもならず……要は私に一切の逃げ道は残されていない事を意味する。
敵は鋭利な鎌を広げ、こちらの逃げ道を塞いで確実に仕留める構え。今度こそもう後がない。私は奴等を睨み、必死に生き残る事だけを考えて隙を探した。
だけど狭い路地は三体でブロックされており、例えフェイントを掛けようが、左右どちらに逃げても多分……マコトは“カットされた金太郎飴”みたいになって道に転がってしまうだろう。
先程の戦いはあくまで一対一の上に成り立っていただけの話で、流石に囲まれるとどうしようもない。正直、一対多数で勝つなど、相手が相当に弱いとかでもない限りは現実的じゃないと思う。だから多数に襲われた時は、まず肩が当たりそうな程に幅の狭いスペースへと逃げ込み、強制的に一対一へ持ち込んでから一人ずつ相手にするのがセオリーとされているのだ。
ただそれも相手が素手の場合であり、眼前の怪物達には生まれ持った鋭い鎌が有る。それにこの路地の広さも……奴等が私を取り囲むには必要充分。
慌てて周囲を見回すが、都合良く武器になりそうな物は落ちていない。そもそも、そんな物があったら最初から使ってるだろうけど。
「アル君を……アル君を投げつけて、その間に逃げる?」
「おーい! ちょっとマコトちゃん、心の声が漏れてるよ!? てか君、なかなかのクズだよね──!!」
ダメだ。こんな汚物を投げつけたところで、あの怪物達が『ネズミがばっちい』という事を理解してくれていない限り、多分空中で“スパッ”とやられてお終いだろう。アル君、あえなく無駄死に。
いろいろと考えてはみるが、結果はどれも“金太郎飴”。これはもう万事急須か? そういえば何で“急須”なんだろう? あれ、漢字は急須で合ってたっけ??
怪物達は横一列に並び、道幅いっぱいに鎌をひろげて此方へ迫る。カバディかよ、ルール知らんけど。
「敵が三体で、その鎌は合計八本……ちょっと流石に躱せないと思う」
「マコトちゃん。君、ホントに算数が苦手なんだね……鎌の合計は六本だよ」
そんなのどっちでも同じだ……流石にあの数の鎌を素手で受け止められるはずもないし、どれか一匹へと当て身を叩き込んで突破しようにも、飛びかかった直後に別の奴からグサグサと背中から切り刻まれるのが目に見えている。
ううっ……この変身ベルトから立ち昇る“お父さんの整髪料みたいな臭い”に包まれ、マコトの短い一生はここで終わってしまうのだろうか?
そう考えていると、ベルトの臭いが一層キツくなった。くっさ!!
「キシャァァァァ……」
残された怪物達との距離は……多分三メートルぐらい。奴等は勝ち誇った様な嫌らしい笑みで私を取り囲み、その両手の鎌を振りかぶると……私目掛けて一気に振り下ろす──!!
「うわぁぁぁぁ──!?」
「マコトちゃん──!!」
両手で必死に頭を守り、泣きそうになりながら目を瞑った。
そう、世の中は理不尽なことばかり。現実では、ピンチを救いに来てくれるヒーローの存在もなければ、そう何度も都合良く切り抜けられる程の幸運なんて、私は持ち合わせてはいな……い?
……ん?
んんっ??
いつまで経っても身体に鎌が食い込んでくる様子が無い。
いや待て。実は既に……あの切れ味鋭い“鎌”でスッパリと首を切り落とされ、痛みすら感じないままに死んでしまったのかも?
もしかしてチョンパか? 首チョンパなのか? 目を開くとマコトの頭は路上に転がっているのだろうか?
まあ痛くないならば苦しまずに済むし、それはそれである意味有り難いような……? いや、あんま有り難くないけど。
だがしかし。
そのまま待てど暮らせど、“死んじゃった”という実感が全く湧いて来ない。
(あれ、マジどうなってんだろ??)
目を瞑ったまま、恐る恐る……口だけ動かしてみる。
「もしもーし? アル君? ちょっと……アル君? いる? ねえアル君ってば! もしもーし!?」
返事は……ない。あれ、これやっぱマコト死んでるんじゃね??
でも五体全ての感覚が残ってるし、先程口から発した言葉も、当たり前の様に耳へと帰って来た。
頭を抱えたまま、手足の指をチョイチョイと動かしてみる。
うん、動くぞ。それでは失礼して……
「あらよっと――!!」
──ブッ! ブルルっ!!
瞳を閉じたまま尻の肉を僅かに横へとずらし、オナラをしてみた。
「おお、出た……」
尻肉がプルルと震える振動を感じ、少し遅れて先程食べたマ〇クの不健康そうな香りが鼻をくすぐる……臭っさ。あんね、あともうちょっとだけ勢いよくやってたら、もしかしたら実が出てたかも!
って事は……頭と身体は繋がってるって事だよね? マコトのお尻が勝手にオナラしたとかじゃないよね??
とにかく、いつまでもこうしちゃいられない。僅かな期待を胸に、ゆっくりと目を開いてみる。
するとそこには……ちょ、何ぞこれ??