第十一話 変身ベルト
こんにちは! ワセリン太郎です!
私の肩で溜息を吐き、呆れた様な声を発するネズミのアル。
「マコトちゃん。君は残念ながら、持てるもの全てを運動能力に割り振って生まれてきてしまったんだねぇ。もう少しだけ、もうほんの少しだけ、その脳味噌が効率よく稼働できてさえいれば……」
「ぐぬぬ……」
一旦はスタミナに任せた連続ダッシュで、余裕を持って怪物を振り切ったのだが……
実はその後、褒められて気分を良くした私は、調子に乗って考え無しに住宅街を駆け回ってしまい、自ら袋小路へ追い込まれるという、その……何ともまあ、どうしようもない事態に陥っていた。
幸い奴等はまだ追い付いて来ていないが、ここは高い塀や法面に囲まれて行き止まり。“袋のネズミ”とはまさにこの事か。いやまあ、実際ネズミもおるし。
(この崖、登れないよなぁ……)
そう思い、舗装された急勾配の壁を見上げるが……ここは日頃からあまり陽当たりが良くないのだろうか? 残念ながらその表面はびっしりと湿った苔で覆われており、見るからにヌルヌルだ。うん、これ滑るわ。無理。
「ど、どうしよう? とりあえず、どーにかして人ん家のお庭に入って逃げる?」
先程からアルは、私の腰に巻かれた“変身ベルト”に飛びつき、何やら必死に点検する様な素振りを見せている。てかこの人、こんな時に一体何してんだ……? あっ、いやこれ人じゃなかったわ、ネズミだったわ。
私の提案を聞き、首を横に振るハツカネズミ。
「ダメだよマコトちゃん。今は夕飯時だし、逃げ込んだ家に誰か居たらどうするの? そこの住人、間違いなく切り刻まれて皆殺しだよ。それにもし晩ご飯にお刺身を食べようとしてたら、いつの間にか食卓に余計なお刺身が増えて、“お魚とご家族の盛り合わせ”になっちゃうんだよ?」
お刺身? 盛り合わせ?
「マジか!? でもね、もし晩ごはんハンバーグやったらどうするん??」
「ハンバーグか。論点はそっちじゃないんだけど……でもそうだねぇ。もしそれだと、和洋折衷で食べ合わせとして良くなさそうだし、それはそれは“後味の悪い結果”になるんじゃないかな?」
やめてよ、笑えない冗談。でも確かにそうだ。奴等はきっと、通りすがりに無関係な人々を殺すだろう。そしてそれはまるで呼吸でもするかの様な自然さで、何の躊躇もなくバッサリと行われるのだ。
絶対ダメ、知らない人達をマコトのせいで危険な目に遭わせる訳にはいかない。それだけは何としても避けなければ。
徐々に近付く奴等の気配。私達に残された時間は僅かだと思う。
「ど、どうしよう!? このままだとマコト、確実に皆殺されるんですが!」
「“皆”は複数形でしょ? 皆殺しにされるのは一人と一匹! まあ死ぬのは“私”じゃなくて“私達”ってところだけは合ってるのかもね。うん……これで良しっと!」
「うん……こ?」
「君、馬鹿でしょ?」
そう言ったアルは、私を見上げてニヤリと笑った。
「マコトちゃん、担任の黒木先生に感謝だね。もしかすると、これで少しだけ希望を持てるかも知れない」
「何でなん??」
「帰る時に先生が“コレ”に乾電池を入れてくれたでしょ? 私が送る時に電池入れておけば良かったんだけど、すっかり忘れててね。本来なら事前にテストしてからが望ましいんだけど……兎に角今はもう、コレに賭けるしか道はないんだよ」
そう言うとアルはベルトの箱をバシリと叩き、その裏へと前脚を突っ込んで……カチリとスイッチを入れたのだ。
──ふぉぉぉぉぉぉん。
例の“換気扇”が静かに回り始め、それを確認した彼女は、再び裏のスイッチを“カチャカチャ”と操作した。このネズミ、こんな時にオモチャなんてイジって何やってんだろ? もう時間がないのに。
「ベルトを本来の姿で使うには、少々特殊な初期操作が必要でね。よし、正常に稼働してる。まあ、この天才科学者の私が作ったんだから当たり前か」
本来の姿? 少し遅れ、さわやかな檜の様な香りが私の鼻をくすぐる。
あれ? たしかこのベルトの換気扇、職員室でも先生達が回してたと思うけど……こんな変わった臭いとかしてたっけ??
「これなに、消臭剤?」
「違うよ、これは“マナ”さ。日本の古い言葉を借りると、神通の力を呼ぶ為の……いや、もっと簡単に言うと、“信仰そのものの結晶”ってところかな」
まな? じんつう? しんこう? 何言ってんだ、このネズミ。何かよくワカラン。
徐々に香りが強くなり、私の腰から“緑の煙”が立ち上り始める。
「ちょ、何じゃこれ──!?」
「マコトちゃん、その煙をゆっくりと吸い込むんだ。そう、深呼吸しながら深く……ゆっくりと」
更に煙が濃くなってきたのか、香りの密度が急激に変化した。一瞬、噎せるほどに強く。これはもう、檜の爽やかな香りなんかじゃない。そうだ、この臭いはまるで……
「ちょっとアル君! この煙、本当に吸っても大丈夫なの? 実はヤバイやつとかじゃないよね!? 定期的に吸引しないと疲れてやる気が出なくなるとか、徐々に歯が溶けて尖ってくるとか! あと何か、うちのお父さんの頭みたいなヤバイ臭いがしてきたんですけど! くっさ!」
間違いない、この臭いはアレだ。あのウチの洗面所に置いてある、毎朝お父さんとお爺ちゃんが頭に塗りたくっているアレ。そう、ポマードとかいうオッサンの整髪料の臭いそのものである。くっさ! マジでくっさ――!!
「マコトちゃん、変な感想はいいから集中して! いいかい? 多分、君が“変身する”にはイメージの力が大切なんだ。ゆっくり、深呼吸しながら落ち着いて。そうだ、先生達がしていた“あのポーズ”を思い出そう……」
“変身”……?
何だろう、この緑の煙を思い切り吸い込んだからだろうか? 何故だか微妙にアルの言葉を心地よく感じる。まるで催眠術か何かに掛かってしまったかの様に……少しだけ意識がフワフワした。
緊張で強張っていた肩から力が抜けていき、ずっと恐怖で膝が笑っていた事に今更気が付くが、それもじっと目を瞑ると……自然と収まり、身体がすんなりと落ち着きを取り戻していく。てかお父さんもお爺ちゃんも、何でこんな臭いモンを頭に塗りたくってるんだ??
(そうだ、先生達がやってた“あのポーズ”……)
私はゆっくりと左拳を腰溜めに引き、右手刀を斜めに精一杯突き上げる。
その時、首筋にピリリと電気が走った。
ああ、これは多分、先程感じた“怪物達”の気配だ。
慌てず慎重に、まるで獲物を追い込む様にゆっくりとこちらへ近付いて来る。きっと奴等は、私達の退路が既に絶たれている事を、理屈でなく感覚で“知っている”のだろう。
でも何故だ? 本当は死ぬほど恐ろしい筈なのに、この緑色の煙を吸い込みだしてから……不思議と不安や恐怖の類をほとんど感じない。それどころか全身に“力”が漲ってくる様な奇妙な感覚すら。匂いか? この匂いが原因なのか?
まるで、バスに乗って中高年サラリーマンの真後ろの席へと陣取り、その後頭部へ己の鼻をギリギリまで近付け……それからノーガードかつ全力で深呼吸をキメたかの如き濃厚な香り。うあぁあ! おっさんの頭の匂いに全身が包まれる!!
ヤケクソだ。更に大きく深呼吸し、斜めに突き上げた右手で……宙に大きな円を描いて回す。
「そうだよマコトちゃん。そうやって集中して……多分、それで上手くいくから」
あっ、来た。
目蓋を閉じて、直接見ずともそれが肌で理解できた。そう、とうとう奴等が現れたのだ。
スッ……と瞳を開き、右拳を腰へと引きつけながら、左の手刀を天高く交差する──!!
「変──身──ッ!!」
それから数秒後。
目の前には……バシイッッ! とポーズを決める私を、まるで『何やってんだ? コイツ……』といった表情で、訝しげにジッと見つめる怪物が二体。
「──身ッツ!!」
とりあえず、何か居たたまれないので何度かポーズをやり直してみるが……ダメだ、何も起こらない……あれっ、何か話がちがう! これ普通なら、ここでマコトが格好良く変身して、それから敵をばったばったとなぎ倒すシーンになるんじゃないの!?
「ちょっとこれ、どーすんのよアル君! 何も起こらないじゃん!? 死ぬよ? 私、このままじゃ死ぬよ!? あの鎌でバラバラに解体されて、そのままお亡くなりになっちゃうよ──!?」
冗談じゃない。何が魔法少女だ! この喋るネズミの言葉を信じた私がアホだった……でもね、よく考えたら“おっさんの頭の匂いで変身する女子高生”なんて聞いた事がないや。
このままではマコトは……マジでスーパーのお魚よろしく三枚おろしにされ、さっきクソ森に奢らせたハ〇ピーセットと期間限定のシャカシャカポテト、あとチキンナゲットを路上にブチ撒けてしまうだろう。
最悪そうなった場合、現場検証をする警察の人がアスファルトの上に落ちているブツをピンセットでつまみ上げ、『あ、これ多分、未消化のチキンナゲットですわ。こっちにはフライドポテトも落ちてる。よし、被害者の女子高生、最期の晩餐はマ◯ドナルド……っと』等と呟き、それをそのまま調書に書かれてしまうのかも知れない。
そしたらミクあたりが『マコトちゃん、安らかにね。これ好きだったよね? お供物だよ』などと妙な気を遣って現場にハッピー◯ットを供え、きっとそれをカラスの群れが無茶苦茶に食い散らかし、その結果辺りは散々な状況になるに決まっている。
それからそういった事案が幾度も繰り返され、最終的にはきっと……迷惑がった近隣の住民の手でこう張り紙されるのだろう。『近所迷惑です。ここはゴミ捨て場ではありません。カラスに餌を与えないで下さい』と。うん、そんな最期は絶対に嫌です――!!
どうやらアルも、予定していたのと随分違う状況になってしまった様で……
「あっれぇ? ちょっと待った、これ何か想定外の事態になっちゃったんだけど。うーん、私の見込み違いだったのかな? いやでも、研究結果として間違いはないはずだし……何でだろう?」
『うーん、何でだろ??』じゃねーよ! どーすんのよこれ!? このままでは間もなく、“マコトちゃん、ストリート解体ショー”が始まっちゃうんですけど!!
ジワリ、迫る怪物達。
だが我々の仲間割れを見て不審に思ったのか、先程の様に勢い良く襲って来ないのがせめてもの救い。
「ちょっとアル君、何ブツクサ言ってんの!? 早くコイツらをどうにかしてよ──!!」
「私はハツカネズミだよ? 無理に決まってるでしょ!」
「そこをなんとか!!」
だがこの時、心底慌ててパニくっていた私、いや私達は……当の私の身体に起こりつつある、“微妙な変化”に全く気付かずにいたのだ。
「うーん、マコトちゃんゴメン! これもしかして“詰んだ”かも……」
「詰んだかも……じゃねーですわ! マコトの事を巻き込んだんだから、どうにかしてよぉぉお!?」
怪物達は、私達の言い争う剣幕に少し驚いた様子で……遠巻きにこちらを警戒したままだ。もしかするとネズミの存在に気付かず、気の狂った私が一人で何か喚いている様に見えているのかも知れない。だとすれば皮肉なものだ。それが怪物であれ人であれ、キ◯ガイを相手にするのは共通して恐ろしいものらしい。
私から『巻き込んだ』と責められ、ブレザーのポケットの中で冷静に反論し始めるクソネズミ。
「そうは言うけどねマコトちゃん。仮に私が接触しなかったとしても、君は元々怪物達に追われる性質を持ってたワケだ。つまりわかる? 論理的に考えるに……遅かれ早かれ奴等に襲われ、スポポンと金太郎飴みたいにブツ切りに処理された後、あえなく出荷という未来が確約されていて……」
何か難しい事を言い出したので、両耳を塞いで大声を発する。
「あー、あー、あー! きーこーえーなーい!!」
だが、大騒ぎするのもそこまでだった。
仲間割れも見飽きたのか、二体の怪物が鎌を打ち鳴らしながらこちらへ近付いて来たのだ。
「マコトちゃん……ごめん。これはちょっと、どうにもならないかも」
「う、うん……」
怪物の一体が奥で退路を塞ぎ、もう一体がこちらへ近付いて来る。要は“今度は絶対に逃がさない”と、いうことか。
例の河川敷で覚えた感覚が、再び私の中に芽生える。そう……あの“諦め”というタチの悪い感情だ。
やだなぁ。私もう……助からないんかな?
まだやりたい事とか色々あったし、食べたい物とかいっぱいあったし、欲しい物だって沢山ある。
それに家族や友達とも話したいことが山ほどあるし、大学とかも行ってみたかった……何か先生には“お前、大学絶対無理”とか言われたけど……何でだ??
そんで殺された私はこのまま行方不明扱いとなり、もしかしたらクソ森とかミクが……消えたマコトの事も必死に探すのかもしれない。
うん……アイツら探すよね? いや、微妙に不安になって来たぞ!? ちゃんと探すよね? 流石に探してくれるよね!?
それよりお父さんとお母さん、じいちゃんとばあちゃん、マコトが急に居なくなったらどうなるのかな? 多分みんな……泣いちゃうと思う。
ああ、それだけは嫌だなぁ。
正直、自分が死ぬ恐怖より……そっちの方が随分と恐ろしく、悲しい事に思えた。
ジワリ、迫る怪物を見ながらそう考えていると、何故だか急に……そう、急に腹立たしくなってくる。
怒り。
フツフツとこみ上げてくる怒り。
そうだ。何でこんなワケのわからん怪物なんかに、マコトや家族の幸せが奪われなきゃいけないのだろう? 一体、どういう理由で命を奪われなきゃいけない?
待て。
そもそも……私は何故にこんな連中を怖れている? 正直、一方的にやられるのを待つなど、クラスのイジメっ子なんかに屈するのと大差がない。大体、ああいう勝ち誇った態度の連中は内心弱いヤツが多いのだ。
突然、湧き上がる闘争心。
強い怒りと反抗心。そして“好戦的な熱”が身体の奥底で目覚めるのを感じた。
──そうだ、戦ってやろう──
私はその場で靴と靴下を脱ぎ捨て、奴等を見据えながら屈伸し、じっくりと下半身を伸ばす。
軽く握った左右の拳で己の頬を交互に軽く叩き、先ずは戦闘に向けての当て勘を取り戻してゆく。それから深く深呼吸をすると……湧きあがる憎悪を丹田へと押さえ込み、右の拳を軽く前方へ突き出した。
使い慣れた右前構え。
背筋がピンと……張り詰める。
少しだけ懐かしい感覚だ。急に気持ちが切り替わり、毎日道場で汗を流していた記憶が……いや、身体に染みついたものが蘇り、血と共にジュワリと手足の末端まで広がって行くのを感じた。
肘は伸ばし切らず、軽く余裕を持たせる。左拳は鳩尾の前。重心は、息を吐きつつ肛門の更に下へと落とし込み、両脚の膝を柔軟に構え……自然な円の中心に正中線を真っ直ぐ設置した。徐々に奥底でリズムが生まれ、自然と身体が動き出す。
「ちょっと……マコトちゃん? 君は一体、何をする気なんだい!?」
ポケットのアルが驚いた様に騒ぐが、返事はしない。
──集中──
「――フッ――フッ――」
酸素を大きく取り入れる。殺されてたまるか。それに、こんな弱者をいたぶるのを楽しむ様な連中……最低でも道連れにして死ぬ程後悔させてやる。
ふとお腹の底で、破壊衝動の様なドス黒い蛇がとぐろを巻いてゆっくりと蠢き、知らない誰か……いや、ずっと前から知っている“誰か”が私の背中を強く押した。
──戦え──壊せ──奴らは敵だ──
そうだ、相手は怪物であってマトモじゃない。それなら別に“私が何をしたって良い”じゃないか。理不尽に襲われ、殺されるのに反撃しないなんて、それこそ馬鹿馬鹿しい。
──敵を討て──
頭の中で、誰かにそう言われた気がした。
いや、これは誰かなんかじゃない……私だ。
こちらを見て不思議そうに首を傾げ、それからまた距離を詰めて来る一つ目の怪物。
私も力強く一歩、前へ出る。
「ちょ、マコトちゃん!? 変な事してないで早く逃げるんだ!」
次の瞬間、奴は……