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ピンポンだっしゅ

 この作品は、拙作「愛せない存在を消す方法」をよく吟味してから読むと、俄然おもしろくなります。というか、「愛せない〜」を面白いと感じられなければ、これを読んでもつまらないと思います。こちらもミステリチックになっていますので。

   日記


 7月1日。晴れ。

 暑い夏の日だった。

 娘は今日ようやく、九歳になった。小学三年生だ。

 娘――華代は今、艶やかな長い黒髪を乱して、ベッドで無邪気に眠っている。

 妻はいない。

 華代が生まれてすぐ、離婚したのだ。

 私は生まれたばかりの娘を引き取り、妻には息子二人をくれてやった。

 妻が「息子を引き取らせてほしい」と言い出したのは好都合だった。

 なにせ、私はもとより息子など要らなかったのだから。

 私があいつと結婚したのはほとんど、娘がほしかっただけ、だった。

 ただそれだけのために、私はお見合いのときから「真面目な男」を演じつづけ、よもや十年余りも妻をだましつづけたのだ。


 あいつと結婚したのは、無論、彼女を愛したからだった。

 しかしたぶん、それは本当の愛ではなかったのだろう。

 たしかに私は彼女に本気で恋をし、やがて結婚した。

 しかし時が経つにつれて、彼女はゆっくりと、しかし確実に年老いていき、私の恋心は急速に冷めてしまった。

 そんなことは、結婚する前から分かっていたことだ。

 私は彼女が好きだったが、それは若いころの彼女であって、年老いた彼女では決してないのだ。

 私という人間は、情けないほどに美しいものにしか興味がなかった。

 それまで溺愛していたものでも、少しでもきずがつけば「いらないもの」になってしまう。

 妥協できないのだ。

 私は美意識という限られた中でのみ、完璧主義者だった。

 そして、私の美意識は多少、変だった。

 いや、女性に対する美意識、という一点でのみ狂っていた。


 私は幼い頃、同年代にしか興味がなかった。

 幼稚園や小学校低学年のころ、周りの友人たちの中には「先生」に憧れる者が多かった。

 大人の魅力なんて、これっぽっちも分かっちゃいないくせに、このころはみんなマセガキになるのだ。

 しかし私は全くそういうことはなかった。大人という生物に興味など持たなかった。

 それは中学生になっても同じだった。

 中学校のころから、私は同い年の女の子よりも小学生とかそういう年下の女の子が好きだった。

 一概に「好き」と言ってしまうと語弊があるかもしれない。

 何というのだろう。

 一般によく言われる「異性として意識する」というのとは少々違う気がする。

 たしかに私が「好き」だと感じるのは皆、異性ではあった。

 しかし、別に邪な妄想をしたりはしないのだ。

 私はただ、少女特有の無邪気さや華やかさといったものに、癒しを感じていただけなのだ。

 父親が娘を想う感情に似ているように思う。


 私が自分の異常に気づいたのは、高校に入ってからのことだった。

 それまで好きだった同級生を、急に嫌悪し始めたのだ。

 この感情の変化に、私は自分で驚いた。

 ――あんなに好きだった彼女のことを、自分は今、嫌悪している……。

 ショックだった。

 その子に対する感情こそ、「愛」なのだと信じていたからだ。

 その子を一生幸せにしたい、といった感情すらあった。

 それがあまりにも突然に、一変してしまったのだ。

 私は自分の心を疑った。

 しかしいくら自分に問いただしてみても、それが嘘の感情だとは判断できなかった。

 それどころか、彼女に対する嫌悪は、日に日に増していった。

 私が彼女の顔を見るのも嫌だと感じるようになったころ、幸いにも彼女は転校していった。

 本当に幸いだったと思う。

 もしもあのまま彼女が私の生活に関わりつづけていたら、私は彼女を殺してしまっていたかもしれない。

 そう考えてしまうほどに、彼女への嫌悪は日ごとに着実に膨らんでいたのだ。

 彼女が私の目の前から消えた日。私は歓喜した。

 それまで溜まっていたイライラが、全て吹き飛んだ。

 まるで水が蒸発してしまったように、跡形もなく。


 異常はそれだけではなかった。

 私はそのころ、女子高生というもの全てに興味を失っていた。

 それだけじゃない。

 高校生以上の年代、全ての女性に興味を持てなくなってしまったのだ。

 それとは逆に、中学生以下――特に小学生や園児への魅力が一層強くなった。

 というより、少女しか愛せなくなったと言ってしまったほうが良いかもしれない。

 私はある一定以上発育してしまった女性を、女性として見られなくなってしまったのだ。

 これは世間でいうロリコンとは、やはり一線を画しているように思う。

 先にも述べたように、「異性として意識する」というのとは違っていたからだ。

 美意識という問題に立ち戻るなら、私は少女にしか美を感じなかった、ということになる。

 自分のそうした性質に気づいたとき、私は焦った。


 この国では、中学生とは結婚できない。

 つまり私は、一生結婚できない、独身男になるしかないと考えたのだ。

 このことは恥ずかしくて誰にも言っていないが、もし相談していたら、笑われていただろう。

 しかし笑い事ではないのだ。私は本気で悩んでいたのだから。

 だからだろうか。

 妻とはじめて出会ったとき――はじめての出会いがお見合いというのは微妙かもしれないが――、私は「運命だ」と思った。

 私はそのとき(二十五歳になる)まで、ただの一度も大人の女性を好きにならなかったのだ。

 それは奇跡と言っても過言ではなかった。


 私は実に八年ものあいだ、誰一人愛せずに過ごしたのだ。

 年頃の男が――だ。

 これがどれほどの苦痛だったか、誰にも分からないだろう。

 ともかくそのような絶望のなかで、彼女――妻が現れた。

 妻は最初のお見合いのとき、もうすでに十九歳だったが、私は一目惚れした。

 このひとなら……このひとなら結婚できるかもしれない――と思った。

 私はすぐにでも結婚したかったが、慎重に一ヶ月待った。

 幸運なことに、彼女も私のことを愛してくれた。

 彼女しかいない。

 私は確信をもってそう思った。

 しかし同時に、この恋がすぐに終わりを告げるだろうことも分かっていた。

 彼女はたしかに美しかった。

 しかしどうしても年は取る。きずがつく。

 そして私は例によって、彼女を「いらないもの」だと判断するのだ。

 結局は彼女も、消耗品にすぎない。

 お見合いから結婚までの約一ヶ月。

 私は、どうすれば愛する存在を絶えず確保できるか、ということを必死で考えた。

 愛というものを知ってしまったそのときの私は、やっとの思いでつかんだ愛を、手放したくなかった。愛のない生活を、何よりも恐れたのだ。

 そして私は、愛する存在を維持するための簡単な計画を思いついた。

 いや、人生設計と言ってしまったほうがよいかもしれない。

 私の立てた人生プランは、つまりこうだった。


 まず、私の唯一の愛せる存在である彼女と結婚する。

 そして、彼女に娘を産ませる。

 すぐに彼女と別れて、娘を育てる。

 彼女の娘だから、きっと、愛せる存在だろう。

 私は娘を愛し、また娘を産ませる。

 産まれた娘(孫ということになるのか?)をまた育てる。また愛する。

 ……それの繰り返し。

 このプランを思いついたとき、私は歓喜した。

 これで私は、誰も愛せないという恐怖を味合わなくてよくなる、と思ったのだ。


 しかし実際はそうではなかった。

 いや、計画が失敗したわけではない。

 妻を愛せなくなってから娘が産まれるまで。その期間が思いのほか長かったのだ。

 一人目の子供が産まれたとき、私はまだ妻を愛していた。

 そのとき妻は成人しており、もしかしたらこのままずっと愛せるかもしれないと思った。

 一人目は男の子だった。

 二人目の子を授かったとき、私はすでに妻を愛していなかった。

 このまま愛しつづけられるかもしれない……というのは私の夢想にすぎなかった。

 二人目も男の子だった。

 私はなかなか娘が産まれないことに、イライラし、焦った。

 妻にもかなりの嫌悪を感じていた。

 妻も子供もなにも悪くないのに、私は苦しむしかなかった。

 そして結婚から約十年後。待望の娘が誕生した。

 私は高ぶる心をなだめて、妻に離婚を申し出た。

 彼女は驚くほど簡単に、それを承諾した。

「華代は僕が引き取るからね」

 そう言ったときも、彼女は「いいわよ」と言った。

 妻は娘には興味がなかったのだろう。

 もちろん、私にも。


 今日は機嫌がいいらしい。

 日記を書くのは初めてだが、作文嫌いの私がこんなに長く書いてしまった。

 それもそのはず。

 今日は最愛の娘――華代の誕生日なのだ。

 冒頭にも書いたが、やっと九歳になった。

 いまはまだ異性としての魅力はさほど感じないが、あと数年もすれば色気も出てくるだろう。

 いや、そうならなくたっていい。

 私は娘が生まれたその瞬間から、彼女を愛しているのだ。

 子供としての無邪気さ華やかさ素直さ、そういった魅力は十二分に感じている。

 本当に愛しい。

 さすが、私が唯一愛した女性の娘だ。

 いや、私の娘だから、かもしれない。

 長い間待ちつづけた甲斐があった、と思う。

 私の長年の努力――その結果が華代だとすら思えてくる。

 いや――努力はまだこれからだろう。

 今度は華代に、娘を産んでもらわなくてはならない。

 これからもしっかり華代を教育して、私を嫌いにならないようにしなければ。

 まだまだ、気が抜けない。




   1


 ほとんど忘却の彼方(かなた)だった息子から手紙が届いたのは昨日のことだった。

 手紙の束からそれを見つけたときは、まるで不意打ちをくらったようにしばし呆然としてしまった。

 離婚してはや八年が過ぎる。

 それまで何の音沙汰もなかった息子から、手紙が届いたのだ。

 驚かないほうがどうかしている。

 しかもだ。

 差出人はあのよくできた長男ではなく、別れた当時まだ園児だった次男のほうだったのだ。

 いや、正直なところ、私は差出人の名前を見てからそれが次男の名前であると理解するまでに、かなりの時間を要した。

 長男のことはわりあい覚えていたが、次男のこととなるとこれがほとんど覚えていなかったのだ。

 私のことだってまともに覚えていないだろうに、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。

 いや、そんなことは手紙の中を見れば分かる。

 多少のためらいをもって、私は手紙を読んだ。


『お父さん、お元気ですか。

 大変ご無沙汰しています、次男のタケルです。

 突然のお手紙で、驚かれていることと思います。どうもすみません。

 今回、こうしてお手紙差し上げたのには、もちろん、理由があります。

 大変申し上げにくいのですが……僕は今、お母さんから虐待を受けています。』


 私は突然の告白に心底驚いて、手紙から目をそむけてしまった。

 妻――いや、もと妻が虐待?

 あの虫も殺せないような優しすぎるあの女が……?

 いや、冷静になれ。

 手紙はまだ続いている。まだ数枚あるからかなりの長文だろう。

 きっと、そうなってしまった事情まで書いてあるはずだ。

 とにかく、続きを読もう。


 しかし、そのあとしばらくは長々と虐待の様子が生々しく描写されており、とても読んでいられないような内容だった。

 しかし読まないわけにもいかない。

 なにより、次男は今、これを味わっているのだ。

 その彼がこうして縁の切れた父親に何かを訴えようとしている。

 おそらく――これはSOSの手紙なのだ。

 私は途中からそう考えて、一心に読みつづけた。


『お父さん、僕はもう耐えられません。

 毎日毎日、このようなおぞましいことが続けられているのです。

 お母さんは、きっと狂っているのです。

 お母さんがこのようなことをするようになったのは、ある事件がきっかけでした。』


 ……事件?

 あの女は、なにかの事件に巻き込まれてこうなったのだろうか。

 しかしそれはどういう事件なのだろう。

 私は普段、新聞もニュースも見ないから、世の中の事件のことは知らない。

 一体、彼女に何が……?


『ここで一つだけ注意しておくと、これから話す事件は、まだ警察にも知られていません。

 知っているのは僕とお母さんだけです。

 だから、他言無用に願います。


 実は先日、兄さんが死にました。

 お母さんが自殺用に用意していた毒入りの水を、誤って飲んでしまったのです。

 兄さんが死んで、もう一週間が過ぎようとしていますが、お母さんはいまだに警察に届け出ないのです。

 いいえ――届け出ることができない、と言ったほうが正しいでしょう。

 なぜならお母さんは、最愛の息子を自分の不注意で亡くしたことで大きなショックを受け、狂ってしまったのですから。

 狂ってしまったお母さんは、僕を虐待するようになりました。

 お母さんは僕を見てこう言ったことがあります。

「なぜ生きてるの賢志……。あなたは死んだのよ……私が殺したの!」

 どうやらお母さんは僕を兄さんの亡霊と勘違いしているようなのです。

 お母さんは亡霊を恐れて、戦っているのでしょう。

 亡霊なら触れられない、ということも理解できないほど、お母さんは錯乱しているのです。

 僕は考えました。

 このまま虐待を受け続けていたら、僕の体がもちません。

 お母さんの悲しみを受け止めてあげたいのは山々ですが、僕はもう耐えられないのです。

 早くこの虐待を終わらせなければいけない、と思います。


 こうしてお父さんに手紙を出したのはそのためです。

 僕をこの状況から助け出してほしいのです。

 警察に通報すれば僕は助かるでしょう。

 しかしそれでは、何の罪もないお母さんが捕まってしまいます。

 ではどうすればよいか。

 僕は必死で考えました。

 結論は、「お母さんを死なせてあげればいい」です。

 もともとお母さんは自殺するつもりでいたのです。

 それに、どうせ生きていても警察に捕まるのは時間の問題です。

 だったら僕たちの手で生を終わらせてあげるのが、お母さんにとってもいいと思うのです。


 どうでしょうか?

 もし、お父さんがこの意見に賛成してくれるのなら、お返事下さい。

 これは、お母さんを苦しみから解き放つための手段でもあるのです。

 どうか、協力お願いします。

 二人で、お母さんを楽にさせてあげましょう。

 次男、タケルより』


 手紙を読み終えた私は、しばし呆然としていた。

 息子からの初めての手紙が、まさかこのような内容だとは思ってもみなかった。

 直感したとおりSOSといえばそうだが……。

 私はなんといっていいか分からない感情に襲われた。

 次男――タケルの言うことはよく分かる。

 しかし……やはり言い表せない。

 だが、私はタケルの意見に賛成だ。

 彼女は自殺するつもりで毒薬を用意し、しかし長男がそれを飲んで死んでしまった。彼女は現実を認めたくない思いから狂い、長男の亡霊を恐れて次男を虐待している。そして今、次男は極限状態に近い。そろそろ限界だ。この場合の解決策として何が最善か。

 次男はそれを「母の死」だと考えたわけだ。

 うん。間違っていない。

 法的には、しっかり罪を償って生かさなければならないのかもしれない。

 しかし法的処置というものは、当人の意思を欠いた処置だと思う。

 彼女の人生は誰のものでもなく、彼女自身のものだ。

 だったら、彼女の望むとおりにさせてあげるべきではないか。

 そしてこの場合、彼女の望みは「死」だ。

 だったらやはり、彼女を死なせてあげるべきなのだろう。

 うん。

 私は次男の意見に賛成する。

 しかしまあ、まだ中学生になったばかりの少年が、よくここまで考えたものだと感心してしまう。

 もしも私が次男の立場なら、どうしていいか分からず、何もできずにいただろう。

 もしくはすぐに警察を呼んでいたかもしれない。

 よもや母親を殺そうなどと、考えつくわけがない。

 殺そうなどと――

 ……そうか。

 次男のこの論理は正当だが、愛という感情が欠けているのだ。

 母への愛情があって、なぜ母を殺すことができようか。

 楽にしてやる、というのも一つの愛情かもしれない。

 しかし、それは大人の愛情だ。

 子供の愛情は、ただ一心に愛する、ただ一方的な感情だ。

 ただ恋しく思う、離れたくない、離したくない、という一種の自己中心的な感情。それが子供の愛だと思う。

 次男にはこの子供の愛情がほとんどないのだろう。

 でなければ、こんな考えには至らない。

 母(相手)の身になって考える、なんていう大人の考え方はできないはずだ。

 私が言い表せなかったのはこれだったのか。

 年齢はまだまだ子供のくせに、心はもう大人なのだ。

 いや、これはもう、冷徹とさえ言えるかもしれない。

 末恐ろしいことだ。

 しかし、今回はそれでいいだろう。

 彼女を苦しみから救うのは、家族である彼のほうがいい。


 私は充分に納得してから、今日、返事を書いた。

 なぜかワクワクするような気分だった。

 苦しみから救うと言っても、結局は殺人なのだ。

 次男は、いったいどうやって殺すつもりなのだろうか。

 馬鹿な私には、皆目見当もつかなかった。


 翌日。

『で、どうするつもりなんだ?』という短い手紙を送った翌日――つまり今日、ポストに消印のない手紙が入っていた。

 差出人は当然、次男だった。

 えらい早い返事だな、と驚いてから、あれ、あいつ俺の家知ってたのか、と不思議に思った。

 次男にはもう何度も驚かされている。

 八年という歳月はそんなにも長い月日だったのか、とため息を吐きながら思った。

 そうやって手紙を眺めていると、娘が起きてきた。

 学校はすでに夏休みにはいってるが、今日は登校日らしい。

 半日も娘に会えなくなるのかと思うと、残念だ。

「パパ……なにそれ?」と眠い目をこすりながら娘が言う。

 おいおいその前におはようございますだろ、と思いながら、自分のシツケの甘さに苦笑する。

「これはな、大事なお手紙なんだ」

 娘は頭に疑問符を浮かべて首を傾げた。可愛い。

「大事なお手紙って、お仕事の……?」

 おそるおそる、という表現がピッタシくるしぐさで娘が訊く。

「違うよ。うーん……お仕事より大事かもしれないな」

 私は娘との会話を長くするために、わざとあいまいに言った。

「お仕事よりも大事なこと……?」

「そうだよ」

「ぐたいてきにはなんなの?」

「おや、華代。具体的なんていう言葉、知ってるのかい? えらいね」

「うん!」と、嬉しそうに娘。

「ほかにもね……こんぽんてき、たいしょうてき、てんけいてき……たくさん知ってるよ?」

「こりゃ、おどろいた! ほんとに凄いね、華代は」

 本当に驚いた。

 驚かせてくれるのは、次男だけじゃない。

 子供というのは大人が考えているより、ずっと賢いのかもしれないな、と思った。

 娘はえへへ、と可愛らしさ満点の笑顔で笑った。こういうのを天使の笑顔っていうんだ。

 娘が学校の支度(したく)を終えて、

「いってきまーす!」

 と言って出ていったあと、私は次男からの手紙をあけた。


『お返事ありがとうございました。お元気そうでなによりです。

 よかった。僕の考えは間違っていなかったのですね。

 手紙ではあのように書きましたが、本当はお母さんを死なせることに、ためらいがありました。

 狂ってしまったとはいっても、彼女はまぎれもない僕の母親なのです。

 ためらわないわけがありません。

 しかしお母さんのことを考えると、このまま生きているより死んでしまったほうが楽だと思うのです。

 そして、僕自身もはやくこの虐待を終わらせたいと思っています。

 それにしても、時間がありません。

 僕はなんとか耐えられるとしても、お母さんがいつ警察に捕まってしまうか分からないのです。

 言い換えれば、いつ捕まっても――それこそ明日捕まってもおかしくないのです。

 だから、計画は僕のほうで全て用意しました。

 一度吟味された上で、ご意見下さい。

 お父さんの協力が肝心なのです。

 よろしくお願いします。

 ※計画は別紙参照』


 私はいくぶん安心した。

 なんだ、ちゃんと愛情はあったんじゃないか。

 そりゃあそうだろう、自分の親を愛さない子供がどこにいるっていうんだ。

 それは環境だのなんだのの前に、遺伝子レベルで決まっていることなのだ。

 血のつながりを大切にするというのは、本能だ。

 家族愛なんてものは、ほうっておいたって形成される。

 よく家族崩壊などと言われるが、それはもともと他人だった夫婦間の問題に起因しているのであって、決して親子の問題ではないと思う。

 親子の問題だったとしても、それはおそらく捨て子とかそういうことだろう。家族愛が形成される前にお互いが別れてしまった場合だ。

 その場合は例外だ。

 そう考えると、私は娘に保身的になりすぎているかもしれない。

 私と娘は実の親子なのだ。いっしょに暮らしているのだから、愛は勝手に形成される。

 保身的にならなくとも、娘は私を愛してくれるはずなのだ。

 しかし――それでも保身的になってしまう。

 もしも、万が一、ということがあるではないか。

 私はそのほとんどゼロパーセントの可能性を、恐れているのだ。

 我ながら、その臆病さに苦笑してしまう。

 でもまあ、用心するに越したことはない。

 そう、越したことはないのだ。




   2


 次男タケルの考えた計画は、至ってシンプルだった。

 しかし、とても中学一年生が考えたとは思えないほど完成度が高い。

 少なくとも私にはこの計画の穴が見えなかった。


『計画は簡単です。

 お母さんを毒殺し、遺書を作成しておけばいいだけです。

 つまり、自殺にみせかけて殺すのです。

 具体的にはこうです。

 まず、お父さんが、お母さん宛てに次のような手紙を送ります。

「娘のことで相談したいことがあるんだ。うちに来てくれ」

 幸い、お母さんは狂っているといってもそれは虐待のときだけであって、普段は正気を保っています。きっとお父さんのたのみをきいて、家に行くでしょう。

 なぜ俺の家に来させる必要があるんだ? と思われるかもしれませんが、これには理由があります。

 普段はおとなしいお母さんですが、僕を見ると、狂ってしまうのです。

 まるでスイッチが入ったように、豹変してしまいます。そうなるともう手におえません。

 つまり、僕がお母さんを殺す場合、姿を見られずに犯行をおこなわなければならなくなるのです。不可能ではありませんが、やりづらいでしょう。

 お父さんがうちに来て殺すというのも出来ますが、わざわざうちを訪れる理由がありませんし、来たその日に元妻が死んだとあっては嫌疑をかけられる可能性もあります。

 要するに、僕の家で殺すと、いろいろ不都合が起きるわけです。

 だから、お父さんの家で死んでもらうことになります。

 もと夫の家で自殺というと、妙な気がしますが、理由はいろいろと考えられます。

 どうせ自殺するなら恨んでる夫の家で死んでやろう、とか。

 それを遺書に書いておけば、疑われないでしょう。

 ともかくお父さんは手紙を出してお母さんを家に呼び寄せます。

 あとは、お母さんがそっちへ着く前に、僕が水溶性の毒をポストに入れておきますから、それを水に溶かしてお母さんに飲ませればいいだけです。

 でもここで気をつけなければならないことが二つあります。

 一つは、毒入り水はお母さんが到着する前に作っておかなくてはいけない、ということです。お母さんが到着してから用意すると、お母さんに毒を入れるところを見られてしまう危険があるからです。余裕を持って、早めに用意しておく必要があります。

 もう一つは、毒入り水のほかに、もう一つ水を用意しておかなければならない、ということです。あくまでも二人は相談するという前提なのですから、水は二つ、向かい合わせにテーブルに置いておくのが当然でしょう。コップは透明のほうがいいかもしれません。なかの液体が透明であれば、だれでもそれを水だと思い込むでしょうから。

 あとはもう、毒は即効性ですから、その場でお母さんは座ったまま死にます。隣に僕が作成しておいた遺書を添えれば、どう見たって自殺ですよ。

 ただし、この計画にはある一つの決定的な不確定要素を含みます。

 それは、毒が効くかどうか分からない、ということです。

 毒はお母さんが自殺用に用意した――兄さんを殺した物を使います。それしか持ち合わせがないのです。

 この毒は一風変わっていて、まれに効果のない体質の人がいるらしいのです。

 つまり、お母さんが死ぬかどうかは神のみぞ知るのです。

 では死ななければどうするか。

 少なくとも今回はお母さんをそのまま帰すしかないでしょう。

 もちろん、殺す方法はありますが、自殺に見せかけるのは難しいです。

 今回はあきらめて、次を考えましょう。

 計画は以上です。

 お父さんのすることをまとめると、こうです。

 一、手紙でお母さんを誘う。

 二、お母さんが来るより早く毒を用意する。

 三、お母さんが死んだら遺書を添える。死ななかったら帰す。

 どうでしょうか。非常に簡単だと思いますが。

 それでは、あとはお父さんが実行するだけです。僕は手紙が来てから動けばいいのですから。

 できるだけ早くお願いします。

 何度も言いますが、もう虐待には耐えられません。

 いまだ顔も知らないお父さんへ 次男タケルより』


 私はこれを読み終えてすぐ、妻への手紙を作成した。

 事態は一刻を争うのだ。

 長男の死亡を警察に嗅ぎ付けられるのが先か、次男が力尽きるのが先か。どちらにしろ、急がねばなるまい。


 手紙用の便箋と格闘を始めて、はや一時間。時刻は正午になろうとしている。

 それなのに、私の筆は一向に進んでいなかった。

 情けない。

 どうやら私には文才のあるなし以前に、文章を書くという行為自体に苦手意識があるようだ。しかも、早く書かねば、という焦りが余計に筆を遅らせている。

 よくもまあ、これで日記なんて書けるものだ。

 しかし日記はなぜかスラスラと書ける。おそらく、娘のことばかり書いているからだろう。

 この親バカめ、と自分でつっこんでみる。

 するとどうだろう。不思議なことに筆が少し進むようになった。

 一人ボケツッコミのおかげで、緊張がほぐれたのかもしれない。

 私はそのようにして、妻宛ての短い文章を作成した。


『久しぶりだね。覚えてるかい?

 かつて君の夫だった男だよ。

 突然の手紙ですまない。実は急用があるんだ。

 娘のことで重要な相談がある。

 ぜひ君にも意見を聞きたいんだ。

 明日の午後一時にうちへ来てくれ。

 場所は、地図にかいてあるとおりだから。

 大通り沿いの大きな家だからすぐ見つかると思う。

 インターホンなんか鳴らさなくていいから、そのまま入ってきてくれ。

 丁重にもてなさせてもらうよ。

 じゃあ、待ってるから。』


 速達で郵送しようか。

 いや、自分で届けたほうが早いだろう。

 さいわい、まだあの家の位置は覚えている。

 私は車で、八年前我が家だったところに向かった。




   3


 私は現在、とある会社の社長をやっている。しかしそんなに誇れることでもない。

 少し前までは父が社長で、一人息子の私は御曹司という立場だった。父が社長をやめて会長になり、私は繰り上がって社長になった。ただそれだけのことだ。つまりこの会社は父のオサガリというわけだ。

 オサガリだが、結構な大企業で、私の個人収入だけでも億に届きそうなくらいだ。しかも、社長というのは名ばかりで、重要な事はほとんど会長がやってくれる。私に社長という肩書きを与えて、バツイチというマイナスポイントをどうにか挽回したいらしい。要するに父は、私の体裁ばかり気にしているのだ。

 まあ、おかげで楽して儲けられているのだから、感謝するしかないが。

 最も感謝すべきはやはり、長い時間家にいても大丈夫ということだろう。愛する娘と長い間一緒にいられるわけだ。

 口に出しては言わないが、父のことをドラえもんと同じくらい尊敬し、感謝している。ドラえもんはお金や社長の座なんて与えてくれないから、父はドラえもん以上の存在かもしれないが。


 そんなことを考えているうちに、妻の住んでいる家の前についた。ここら一帯は閑静な住宅街ということになっていて、実際とても静かな土地だ。

 夏の暑い日ざしの中で、セミの鳴く音だけが響いている。

 あれ……?

 私はすこし不思議に思った。駐車スペースに車や自転車がひとつもなかったのだ。たしか別れるとき、軽自動車一台と自転車二台を置いていったはずだが……。全員外出しているとしても、家族は長男が死んで二人だけのはずだから、三台の乗り物が全部消えているのはおかしい。

 いや、単に一台は処分しただけかもしれない。車は必要だろうから、処分したのは自転車のほうだろう。あれから八年も経っているのだから、もう乗れなくなって捨てたに違いない。

 いかんいかん、あんまり長居すると怪しまれる。早く用を済ませて帰ろう。

 私は無駄な考え事を即座に打ち消して、ポストに手紙を入れて、すぐ車を発進させた。

 なんだかいけないことをしているようで、心なしか興奮してしまった。

 そういえばこういう興奮は大人になってからしてなかったなあ、と妙に感慨深かった。


 少し会社に寄ったりコンビニで買い物をしてから家に戻ると、すでに娘が学校から帰っていた。

 玄関で「ただいま」と言うと、娘が顔を出して、

「おかえりなさい」

 と笑顔でもてなしてくれた。何度見ても癒される光景だ。

 これがあと五年もしたら反抗期で見られなくなってしまうかもしれない、などと考えると痛いほど哀しくなってくる。

「お父さん、どうしたの? かなしそうな顔して」

 おっといけない、つい顔に出してしまっていたようだ。

「大丈夫だよ、華代。華代が将来お嫁さんになってパパのもとを離れてしまうのかと思うと、なんだか切なくなってきちゃってね」

 若干、嘘を言った。反抗期なんて野蛮な言葉を教える必要はない。

「なんだ、そんなこと……。

 パパ、安心して。華代はパパのそばを離れたりしないから」

「……か、華代ぉ〜!」

 うわーん、と涙を流しそうなほど感動して、私は娘を抱きしめた。

「……いたいよ、パパ」

 そう言われても、私は抱擁をやめようとしなかった。

 しばらくしてから頬にチュッという感触があり、私は娘がキスしてくれたのだと知った。

 呆気にとられていると、娘はするっと胸の中から抜け出した。

「ほんとに苦しかったんだな、ごめんごめん」

 娘はそう言った私を眺めて、

「謝って済むなら警察はいらないわ」

 と言った。


 いったい誰があんなセリフを教えたんだ、と少々怒り気味に――娘に聞こえないように――つぶやいて、私は夕食の準備に取りかかった。

 準備といっても、昨日作っておいたカレーだから、温めるだけでいい。

 カレー皿に盛りつけると、娘の切ってくれた大きなジャガイモが顔を出す。

「華代の切ってくれたジャガイモが浮かんでいるよ」

 カレーを見てわーっと歓声を上げる娘に、私はことさら優しく言った。

「ふふ。そう見えるように大きく切ったんですもの」

 お父さんの切ったジャガイモは小さすぎて溶けちゃうから、かわいそうだなって思ってたの――と続ける娘。

 確信犯だったのか。てっきり不器用なせいだと思っていた。

 私は心の中でゴメンね、とみくびっていたことを謝ってから、

「ごめんごめん。今度から大きめに切るよ」

 と別のことを謝った。

「素直でよろしい」

 娘はそう言って、おいしそうにカレーを食べた。

 まるで夫婦ごっこをしているみたいだな、と私は思った。

 そして――

 それが「ごっこ」ではなくなる未来を想像して、歓喜に打ち震えた。






   4


 娘はカレーを食べてすぐ眠ってしまった。

 きっと久々の学校で、クラスの友達とはしゃいで疲れていたのだろう。

「パパ……華代、眠くなったから先に寝てるね……」

 と言って、娘は私の寝室に消えていった。

 私の――と言うのは間違いかもしれない。「私たちの」と言うべきだろう。

 娘には寝室を与えず、はじめからずっと、一緒のベッドで寝ているのだ。

 違う部屋で寝ていると、いざというとき娘を守ってやることができない。一緒に寝ることは、あの子の父親として当然の義務だと私は考えている。

 決して、一人で寝るのがさびしいからとかいう女々しい理由ではない。

 私は一度寝室へ行き、娘が眠ったことを確認してから、外に出た。

 そこそこ広い庭を通り、家の前の自動販売機でタバコを買う。

 ついでにポストを探ってみると、小さな紙包みと大きめの封筒が届いていた。次男からだろう。時間的に考えて、私が手紙を届けてすぐこっちに来てポストに入れたことになる。ご苦労なことだ。

 リビングに戻って見てみると案の定、両方とも次男からのものだった。いつもどおり消印はない。

 大きめの封筒には、「遺書」と書かれた封筒と一枚の手紙が入っていた。


『最後の手紙です。

 お母さんは明日、時間どおりそちらを訪れるでしょう。

「あの人から手紙なんて……何年ぶりかしら……」

 と、懐かしそうにつぶやいていましたから。

 この手紙と一緒に、遺書と毒薬もお届けしました。ご確認ください。

 ごく少量でも死んでしまう可能性がありますから、取り扱いには充分、注意してくださいね。

 もう一度確認しておきますが、もしも毒が効かずお母さんが死ななかったとしても、早まって殺してはいけません。

 しっかり計画を立てて次の機会を待つのです。

 計画のない殺人は、ほぼ確実に検挙されてしまいます。

 決して先走らないよう、注意してください。

 また、計画の細かい点を挙げておきます。


 到着前に毒入り水を用意しておく。

 コップは同じものを二つ用意し、自分の席と目の前の席に置いておきましょう。

 お母さんが来ても表情を変えない。

 無理に演技をすると違和感を与えて怪しまれる危険があります。終始、真剣な無表情を努めてください。

 無理に水を勧めたりしない。

 女性は勘の鋭い生き物です。勝手に飲むのを待ちましょう。

 遺書は死体の右隣に置く。

 お母さんは右利きですから。

 証拠隠滅。

 計画に使ったものは全部処分してから、警察に通報して下さい。通報の際は、「ちょっとトイレに立っているすきに……」というように言えば大丈夫です。


 それでは、計画の成功を祈っています。

 大丈夫。ミスさえしなければ成功しますよ。

 それでは、失礼します。』


 なるほど、最後のアドバイスというわけか。しかし、中学生にアドバイスをもらうなんて、大人としては情けないな。

 私はそう思って苦笑した。

 次男は頭がいい。よすぎるくらいだ。

 私や妻のような馬鹿な夫婦から、よくこんな息子が生まれたものだと思う。

 いや、そんな感慨にふけっている場合ではない。

 明日はいよいよ彼女を旅立たせる日なのだ。

 かつて私の妻だった彼女を苦しみから解き放つ。この世から開放する。

 そして、次男を虐待から救う。

 そんな大仕事が待っているのだ。

 今日は早く眠って、十分な睡眠をとっておこう。

 私は明日殺人を犯すというのに、安らかな眠りについた。


   5


「――パ! パパ!」

 娘の呼ぶ声を聞いて、私は目を覚ました。

「はあ、やっと起きた。パパ、もうお昼に近いよ?」

「……もうそんな時間か!」

 私は飛び起きた。上に乗っていた娘が、キャッと言ってベッドに転がる。ダブルベッドなので床には落ちなかった。

 今日は休暇を取ってあるから会社は大丈夫だが、妻がくるのは午後一時なのだ。あぶなく寝過ごすところだった。

 すぐに娘を抱き起こして、頭をなでながら、「ありがとう」と言う。

「もう……『三年寝太郎』になっちゃったのかと思ったんだから」

 少し泣きそうな顔になる娘を抱きしめて、今度は「ごめん」と言った。

 時計を見ると午前十一時だった。

「華代、お昼ごはんにするか?」

 昼食にするなら今のうちに食べておかなければならない。

「うんん。華代、さっき朝ごはん食べたから眠くなってきちゃった。ここで寝てるから、三時のおやつには起こしてね」

「……うん、わかったよ」

 私は少し迷ってから答えた。

 都合のいいことに、この部屋は完全防音設計になっているから、たとえ妻が苦しんで叫んだとしてもこの部屋までは届かない。

 娘がここにいても、何ら支障はない。

 なにより、娘の意思を尊重したいから、寝かせておくことにした。

 念のためにカギをかけておく。カギを開けたら音で分かるように。


 今日は元妻の命日になるかもしれないというのに、夏の太陽はさんさんと輝いていた。

 私は手早く昼食を作って、食べた。

 娘のために、おやつのクッキーを作る。といっても、生地は昨日作って寝かせておいたから、薄くのばして好きな形にくり抜いてからオーブンで焼くだけだ。焼いているあいだ、私はクッキーを喜んでほおばる娘の姿を想像して笑顔になっていた。

 これから果たさなければならない重要な役目に緊張する心を、ほぐすかのように。

 ――チン!

 焼き上がりを示す音が、私の意識を現実世界に引き戻す。それまで目の前にあった娘の愛らしい顔が霧散し、私は少し悲しくなった。

 広い皿にクッキングペーパーを敷いておいて、その上にクッキーを載せていく。星やハートや丸や四角、色んな形のクッキーが並べられ、見た目に華がある。それを冷蔵庫に入れて、おやつの準備は完了。

 次はいよいよ、彼女を――かつて愛したたった一人の女性を――殺すための準備だ。

 外は快晴で穏やかな青い空が広がっている。不謹慎かもしれないが、私の心も静かで穏やかだった。

 私は彼女を愛していたけど、もう何の未練もなかった。殺すことへのためらいもなかった。

 私の愛した彼女はもうこの世に存在しておらず、いまの彼女はただ名前が同じだけのヌケガラにすぎない。

 もう何年も顔を見ていないから、彼女の顔を見ても誰だか分からないかもしれないな。

 冗談抜きでそう思う。

 私の美意識は非常に精巧で、ほんのちょっとの差もごまかすことはできない。テレビで芸能人を見ていると、同一人物なのに「よく似ている人がいるな」と思ってしまう。名前を紹介されて初めて同じ人だと分かるくらいだ。ちょっと化粧が変わっただけでこれなのだ。年老いた彼女は、一体この目にどう映るのだろうか。

 そんなに敏感だと人の顔を覚えるのが大変だとか、美術の才能があるのではないかとか、思われるかもしれない。しかしそれは違う。私の美意識は人間に対してのみ有効で、その人が美しいほど敏感に、美しくないほど鈍感になるのだ。

 それは単に、美しい人にしか関心がない、ということかもしれないが。


 ふと時計を見ると、十二時半になっていた。

 あぶないあぶない。つい、ぼーっとしてしまった。睡眠をとりすぎたのかもしれない。

 私は急いで、食器棚から透明のグラスを二つ取り出し、両方に水を入れた。一方をいつもの自分の席に置き、もう一方には毒薬を溶かして目の前の席に置く。遺書や毒薬の入っていた容器などを自室に隠し、ほっと一息ついてからソファーに座った。

 ほんの数十秒で、準備が整った。

 なんのことはない。

 人ひとり殺す準備なんて、簡単なものだ。

 私はすでに達成感のような感覚にとらわれていた。もうほとんどすることもないのだから、しかたないのかもしれない。 

 これが終われば、私はまた娘と二人きりの、幸せいっぱいの生活に戻ることができる。

 ついでに、妻がいた、という過去ともおさらばだ。彼女にはすまないけど、私が彼女を思い出すことは、もう永遠にないだろう。永遠のお別れだ。


 ――ピーンポーン♪


 呼び鈴が鳴った。時計はまだ十二時五十分。

 こんな真っ昼間から訪れてくる客など、珍しい。

 時間にはまだ少し早いが妻に間違いないだろう。手紙には『インターホンなんか鳴らさなくていいから、そのまま入ってきてくれ』と書いておいたのに、律儀なやつめ。

 私は彼女を出迎えるべく、玄関に向かった。

 しかし、なかなか彼女は現れない。

 なぜだろうかと考えて、すぐに一つの回答に行きつく。

 律儀な彼女のことだから、わざわざ手土産を持ってきているのではないか。それが案外重くて、広い庭の途中で四苦八苦しているのかもしれない。

 そう考えた私は、玄関を出て庭を見渡してみた。

 しかし、誰もいない。

 門のところまで行ってみても、人影すらみつからなかった。

 私は不思議に思いながら、家の中に戻った。

 ただのイタズラだろうと即決し、リビングに入る。

「!!」

 私は信じられない光景を目にして、声にならない声を発した。

 娘が……華代が、毒入りの水を飲んでいたのだ――!

 私は驚きのあまり、その場にくずおれてしまった。

 娘の死を確信し、うなだれた顔から、涙と鼻水と汗が、いっしょくたになって流れ落ちる。

「……か、かよ……華代ぉぉ……」

 絶望のなかで、自分のものとは思えないしわがれた声がそう言う。

「なあに? パパ」

「え!?」

 矢のような速さで、私は勢い良く顔を上げた。

「どうしたの? そんなに驚いて」

「…………」

 いつもどおりの元気な娘の姿がそこにあった。

 そう――華代は死んでいなかったのだ!

「もう、パパったら、おかしな顔しちゃって。笑っちゃうじゃない」

 華代が含み笑いをしながら、そう言った。

 私は地獄から天国に瞬間移動してしまったような気分で、しばらく華代を見つめ続けていた。

 華代は……華代にはあの毒が効かなかったのだ。

 次男の手紙を思い出す。

『この毒は一風変わっていて、まれに効果のない体質の人がいるらしいのです』

『死ぬかどうかは神のみぞ知るのです』

 華代はきっと、神に選ばれた存在なのだ――と思った。

 だから私の心を奪ってしまえるのだ。

 やっぱり、華代は特別な存在なのだ。

 神に選ばれた子供――神の子なのだ。

 私は狂喜のあまり、非現実的なことを考えた。

「パパ」という娘の声で現実に戻る。

 華代は妻のために用意した席に座り、おいでおいでをしていた。娘がうながすのに従って、自分専用の席に座る。

 華代は残り少ない水の入ったグラスを私に差し出し、

「乾杯!」

 と、まぶしい笑顔で言った。

 あわててグラス同士をこつん、とぶつけて、私も水を飲む。

 毒の入っていない、ただの水道水を。

 瞬間、私は言いようのない感覚に包まれて、そのまま意識が途絶えた。






   6


 わたしは目の前で動かなくなったパパをしばらく眺めていた。

 いつ動き出すのかと待ってみたけど、パパが再び動き出すことはなかった。

 たっぷり三分ぐらい待ってみて、ようやくパパの死を確信する。

 脈を取ればそんなことはすぐ分かるのだろうけど、死体に触れるのは嫌だった。

 汚いし、命を吸い取られるかもしれない、と思ったから。

 わたしのしたことといえば、テーブルの上に並んでいた二つのグラスを入れ換えておいたことぐらいだった。

 ちょっとしたイタズラのたぐいだ。

 たったそれだけで、パパは魔法のように死んでしまったのだ。

 ふと気がついて、わたしは寝室に戻った。

 案の定、わたしのケータイが鳴っていた。この部屋は防音設計だから外まで聞こえなかったのだ。

 急いで電話に出ると、すでに聞き慣れた声がした。

「もしもし、華代?」

「うん、華代だよ」

「良かった。計画に失敗して死んじゃったのかと思ったよ。ここからじゃ、よく見えないからね」

「そんな馬鹿な。コップを入れ換えるだけじゃない」

「だって、もう何回も電話したのに、出なかったじゃないか……」

「ごめんなさい。パパが死んだのを確認してたの」

「あぁ、ケータイは寝室に置いてたから呼び出し音が聞こえなかったわけね」

「そう」

「どうだい? セッティングは済んだ?」

「あ、まだ遺書を置いてなかったわ」

「はやくしな。アリバイ工作もしなくちゃならないんだから」

「はーい」

 わたしはケータイを耳に押し当てたまま、作業にとりかかった。

 まず、パパの部屋に行って遺書を探す。パパは、自分の奥さんだった人の遺書だと勘違いしていたでしょうけど、本当はあれはパパの遺書なのだ。

 遺書はすぐ見つかった。机の上に、毒薬のケースや手紙と一緒に置かれていた。それら全てを回収して、遺書以外はゴミ袋に入れる。

 パパの部屋にはまだ日記帳がある。日記帳の隠し場所は以前から知っていたのですぐに見つけて、またゴミ袋に入れた。

 パパの部屋を出てリビングに戻り、遺書をパパの左隣に置く。パパは左利きなのだ。

 わたしのママだった人は右利き。だから、二つのグラスは斜めではなくまっすぐ並んでいたのだ。

 ちなみにわたしは右利き。

 遺書を置いて、自殺に見せかける作業は終了した。

 あとは、アリバイ工作をするだけ。

「お兄ちゃん、遺書、置いたよ」

「毒薬の容器と手紙、それから例の日記は?」

「心配性ね。ちゃんと回収したわよ」

「そういえば、華代の飲んだグラスは?」

「あ、忘れてた。ちょっと待ってて」

 わたしはきれいにグラスを洗って棚に戻してから、「終わったよ」と言った。

「了解。じゃあ、今度はアリバイ工作だね」

「どうすればいいの?」

 お兄ちゃんはパパが死んでから電話で教えると言って、アリバイ工作の方法を教えてくれなかったのだ。

「エアコンのリモコンを持って」

「持ったよ」

「冷房で一番低い温度に設定して」

「そんなことしたら、パパが凍っちゃうよ?」

「凍りはしないだろ。でも死亡推定時刻を遅らせることができる」

「な〜に? そのシボオスイテイジコクって」

「華代は知らなくていいの」

「ズルいー」

「分かった。あとで教えるから、今は、はやく言ったとおりにして」

「はーい」

 エアコンの電源はすでに入っていて、冷房になっていた。だからわたしは最低温度に設定するだけでよかった。

「やったよ」

「次は……『風の強さ』っていうのない?」

「あるよ」

「それを『強』にして」

「したよ」

「おやすみタイマーを二時間に設定して」

 おやすみタイマーというのは設定した時間が経てば勝手に電源が切れる機能だ。

「設定したよ」

「じゃあ、戸締りをして」

「玄関以外は閉まってるわ」

 パパは几帳面な性格で――というより虫嫌いで、窓はいつも閉め切っている。

「うーん……どうしようかな……」

「どうしたの? お兄ちゃん」

「ん? いやね。ついでに密室も作ってしまおうかと考えたんだが……」

「密室? そんなにすごいのができるの?」

 お兄ちゃんは充分すごいけど、さすがに密室は無理だろうと思っていた。わたしのなかで密室作りというのは、最上級魔法みたいなものなのだ。

「簡単だよ。要するに親父しか出入りできないように見せかければいいだけだから。密室の中で人が死んでたら、自殺と事故死以外にありえなくなるから、密室を作ったほうがいいんだけど……。あんまり工作しすぎると人工的な雰囲気が出るからやめておいたほうがいいな。うん、やめておこう」

 お兄ちゃんは一人で勝手に結論してしまった。ズルい。


「ねえ、お兄ちゃん。どうやって密室を作るつもりだったの?」

 知的好奇心のかたまりのようなわたしは、ぜひともその方法を知りたかった。

「いまは急いでるから、これもあとで話すよ」

 しかたないなあ。

「次はどうすればいいの?」

「ん。あとは家を出てカギを閉めるだけだよ。もちろん、その部屋のドアもちゃんと閉めてからね」

 わたしはお兄ちゃんの言ったとおりにして、家を出た。いや、お兄ちゃんは言わなかったけど、電気も消してきた。

「家を出たよ」

「よっし。じゃあ、家の前の道に出て左を見て。五十メートルくらい先に僕がいるから、距離を保ったままついてきて」

 道に出て左を見ると、お兄ちゃんの姿が見えた。お兄ちゃんと会うのはこれで二回目だ。相変わらず黒づくめの服装で、ただの黒い点にも見えた。

 空は青くて、雲ひとつなかった。絶好のデート日和(びより)だ。

 お兄ちゃんは近くでタクシーを拾う。

「タクシーの中で待ってるから、早く来な」

 電話越しのその声に従って、わたしは走った。もちろん、ケータイの電源を切ってから。タイムは八秒くらいだろうか。

 タクシーの前で立ち止まってからドアが開くまでの時間がもどかしかった。ほとんど飛び込むようにしてタクシーに乗る。

「うわ! いて!」

 わたしの体より先に、持っていたゴミ袋がお兄ちゃんにぶつかった。

「痛いじゃないか、華代」

 ぜんぜん痛そうじゃない様子でお兄ちゃんがそう言う。

「ごめんなさい。つい、はしゃいじゃって……」

 ちっとも反省してない様子でわたしは謝った。

「そんなにはしゃぐことないだろ。昨日会ったばかりじゃないか。

 ――あ、**に行ってください」

 お兄ちゃんは思い出したように行き先を運転手に告げた。

「一度会っちゃったら、毎日でも会いたくなるものなの。

 それより、どこに連れて行ってくれるの?」

 お兄ちゃんはどうか知らないけど、わたしはデートのつもりだった。五歳離れたわたしたちはどう見たって兄妹だけど(実際、そうなんだけど)、初めて会ったのが昨日なんだから、ほとんど他人みたいなものだ。ただの男と女にすぎない。男女が会うってことはデートでしょ。デートしかないわ。

「僕の家に連れて行ってあげるのさ」

 なんて思わせぶりな発言なの? とわたしの心が叫ぶ。

「うれしー!」

 わたしは思わず、お兄ちゃんに抱きついた。

 話に聞くところによると、お兄ちゃんは中学生になったばかりだと言うのに、一人暮らしをしているらしい。一人身の男が家に女を誘うといえば、あれしかない。あれよ。あれ!

 相手がもしパパのような変態だったら死んでも嫌だけど、神様のようなお兄ちゃんなら、許しちゃう。

「なぁ、華代。なんか勘違いしてないか?」

 お兄ちゃんがわたしを引き剥がしながらそう言った。

「勘違い?」

「あぁ。おまえのはしゃぎようは、明らかに異常だ。何かわからないが、誤解しているとしか思えない」

 わたしは意味が分からず、問い返す。

「はしゃいじゃいけないの? ……これからお兄ちゃんのおうちに行くっていうのに」

「いけないことはないさ。でも、僕の家に来たってなんにもないよ?」

「なくてもいいの」

 極端な話、二人の体だけあればいい。

 わたしにとって、お兄ちゃんは絶対的な存在なのだ。そして唯一、心を許せる存在でもある。わたしにはお兄ちゃんしかいないのだ。

「……そういうもんかなぁ」

「そういうもんよ」

 首を傾げるお兄ちゃんに、わたしは強引に言った。

 どうやらお兄ちゃんはわたしの気持ちに気づいていないらしい。

 しかし、よく考えてみると、気づかれては困る。変に受け取られたら困るのだ。わたしはお兄ちゃんのことが好きだけど、それは信頼とか尊敬という意味であって、決して恋愛感情などではない。勝手に勘違いされて、取り返しのつかないことになっては大変だ。ここは、お兄ちゃんの鈍感さに感謝しよう。

 しばらくの間、沈黙がつづいた。

 お兄ちゃんはどうか知らないけど、わたしは内心ドキドキしていた。ほとんど生き別れのお兄ちゃんとこうして会うことができて嬉しかったし、どんな家でどんな生活をしているのか、とても興味があったのだ。

「着きましたよ」という運転手の声で、わたしは我に返った。

「ありがとうございました」と言って、身ひとつでタクシーを出る。ゴミ袋は、お兄ちゃんが自分のカバンに入れていた。





   7


 タクシーから降りてすぐ、自分の家に急いだ。といっても、走らない。音を立てずに玄関まで行き、カギを開ける。先に入ってドアを支え、華代が入ってくるのを待ってから、ドアを閉めカギを閉めた。

「わあーー……」

「ようこそ、我が家へ」

 感嘆の声をもらす華代に、優しく言った。

 ここに僕以外の人間が入るのは、たったの一週間ぶりだった。一週間前までは、警察が出入りしていたのだ。父を殺すのがもうちょっと早かったら、華代を家に呼ぶことはできず、話はケータイですることになっていただろう。

 まぁ、僕としてはどっちでもいいのだが。

「こんな広い家に一人っきりって寂しくない?」

 しばらく家の中を眺めまわしていた華代が言った。まだ探検の途中らしく、色々な方向に目を向けている。

「なに言ってるんだ。寂しいわけないだろう? 自分で一人になったのに、寂しいなんて馬鹿じゃないか」

 本心を率直に述べた。

 この家に僕しかいないのは、僕がそう望んだからだった。

「……お兄ちゃんは強いんだね」

 華代は検討違いの賛辞を述べる。

 まぁ、そういうことにしておこう。

 実際、僕は強い。力ではなく、運が。これまでの人生、ほとんど思い通りにことが進んでいる。

 今回の計画だってそうだ。下手をすれば華代は死んでいた。計画がバレて、警察に捕まる可能性もあった。いくつかの運試しに勝利しなければ、この計画は破綻していたはずなのだ。それがこうもあっさり成功しているのは、僕の運が強いからに違いなかった。

 あぁいや、まだ完全に成功したわけではないけれど。

「華代、こっちにおいで」

 僕は先にリビングに入って、廊下にいる彼女に言った。

「はーい」と言って入ってくる。

 そのままテーブルのイスに座らせて、僕は麦茶を用意した。リビングに入ったときにエアコンの電源を入れておいたから、テーブルにコップが二つ並ぶころには、じゅうぶん涼しくなっていた。

「で、何が聞きたいんだっけ?」

 僕が華代の向かい側に座ってそう言うと、

「ぜんぶ」

 と華代は言った。表情から判断するに、冗談だろう。

「全部は無理だろ。さっき、あとで話すって言ったじゃないか。それを今話すのさ。で、何が聞きたいんだ?」

 さっきと同じようなことを言うと、華代はしばらく考えて、言った。

「忘れちゃった」

 少々イラついたが、不思議なことに憎めない。どうやら、華代は普通の人間とはいくぶん違うらしい。母や兄にすらなかった何かがあるような気がした。

「仕方ないなぁ」

 僕は彼女の聞きたいことを記憶していた。優しい兄を演じるために。

「華代が僕に聞きたいことは二つある。まず一つ目は、シボオスイテイジコクだ」

「それそれ!」

「正しくは、しぼうすいていじこく。『死亡推定時刻』と書く」

 紙に書いて渡すと、

「ああ、これか」と華代は言った。

 知っているのだろうか。だとしたら、すごいことだ。僕がこの言葉を知ったのは、たしか小学校四年生くらいのときだったから、華代は僕よりすごいことになる。

「死んだ時間のことね。推定だけど」

 百点満点中、九十点といったところか。

「誰が推定したんだい?」

「さあ、分からないわ」両手を軽く上げて、さあね、というジェスチャーをする。

「検死官だよ」彼女にこの言葉が分かるだろうか。

 しかし次の瞬間、それは杞憂だったと分かる。

「そうかしら。状況によって違うでしょう。例えば、事件現場が無人島で警察が呼べなかったりしたら、そこにたまたま居合わせた医者のたまごが推定する場合だってあるんじゃない?」

 これは驚いた。なるほど、たしかにそのとおりだ。しかも例えが推理小説っぽい。まさか、ミステリでも読むのか、この娘は。

「これは驚いたな。そうだね、そういう場合もある。でも例えがやけに小説っぽいけど、まさか華代、推理小説なんか読むのかい?」

 僕はまたしても思ったとおり口にしてしまった。こういうことはほとんど稀だ。なぜなら僕が本心で話せるような人間は今までいなかったから。

 僕は自分が変になってしまったのではないかと思った。


「あら、よく分かったわね。さすが、お兄ちゃん」

 華代は無邪気に笑った。どうやらこちらの動揺には気づかなかったようだ。

「ほめたって何も出ないよ。次いくよ。二つ目は、密室の作り方だ」

「それが一番知りたかったの!」

「その割には忘れてたじゃないか」

「お兄ちゃんの家だから興奮して頭が回らなかったっていうか、ド忘れしてたの!」

 華代がふくれっつらになった。可愛いものだ。しかし、頭はなかなかのものだと思われる。油断はできない。

「怒るなよ。説明するから。……いや、クイズ形式でいこうかな」

 華代が喜んで賛同した。僕としても彼女の頭の程度が知りたかったから、好都合だ。

「まず、リビングのドアはいくつ?」

「一つに決まってるじゃない」

「他に人間が通れそうなところは?」

「窓しかないわね」

「窓にはカギがかかっています。リビングを密室にするにはどうすればいい?」

「ドアにカギをかければいいに決まってるわ」

「だろ? だから――」

「待って! その先は言わないで」

 クイズ形式というより誘導尋問だと気づいたらしい。華代はそれ以上の誘導をさえぎって、自分で考えることにしたようだ。

 僕のほうも、「だから――あとは自分で考えてみな」と言うつもりだったので、ちょうどいい。

 たいして時間もかけず、華代が再び口を開いた。

 もう分かってしまったのだろうか。僕はこれを一瞬でひらめいたわけだが、小学生に解ける問題だとは思えない。

「これは別に、特殊なカギじゃなくてもできるのよね?」

 質問しながら考えをまとめるつもりらしい。僕は真摯に答えることにした。

「うん、そうだよ」

「お兄ちゃんにはできない方法?」

 いい質問だ。というか、核心をついている。

「そうだよ。これは華代だからできることだ。あの家の住人である、きみだけが。ちなみに、今の時点では華代がやっても不完全になる。密室のトリックがバレてしまう可能性が大きいんだ。だって今の華代にはまだアリバイがないからね」

 たぶん、華代以外の人間にはちんぷんかんぷんな言葉だっただろう。しかし僕は精一杯ヒントを与えたつもりだ。華代が頭のいい人間なら、分かるだろう。

「分かった!」

「すごいね。どんな方法?」

「うまく説明できるか分からないけど、言うね。

 これは、わたしが家のカギを持っていて、なおかつアリバイがなければ成立しない方法だわ。リビングのドアにカギをかける必要もあまりない。

 方法はいたってシンプル。わたしが家のドアにカギをかけて、わたし以外の人間が家に出入りできないようにすればいいのね。要するに、家自体を密室にしてしまうの。

 カギをかけてしまえば、私以外の人は出入りできない。そして、わたしにアリバイがあれば、犯行当時、誰にも出入りできなかったことになって、密室だと判断される、ってわけね!」

「ご名答! そのとおりだよ。すごいじゃないか!」

「ちょっと待って、お兄ちゃん。家にはカギをかけたから、もう密室になっちゃったってこと? うんん、違うわ。アリバイ工作が終われば、密室になるってことね。

 さっき、密室にしちゃいけないって言わなかった?」

「言ったよ。だから、アリバイ工作が終わったあと、またカギを開けるじゃないか。死体を発見して通報するために。警察には、カギはかかっていなかったって言えばいいんだよ。そうすれば事件当時、あそこは密室じゃなかったってことになる」

「……なるほどね。でも、なんでわざわざカギをかけたの?」

 さすがにそれは分からないか。いや、ごく当たり前のことなんだが、それが当たり前すぎて華代には分かっていないのだ。

「カギはかけなくても別に良かったんだ。でも、かけておいたほうが、たとえば何かの理由でだれか――たとえば泥棒が、家に入る心配がない。カギが開いていれば、だれかが家に侵入して、冷房のかかっているリビングで死体を発見して、アリバイ工作が無駄になって、それどころか計画がバレる危険があるんだよ。

 ささいなことだけど、これが命取りになるかもしれないんだ」

「そっか!」

 華代は感心したようで、すごいすごいと連呼した。


「ところで華代。もしかして、電気も消してきちゃった?」

 さっきまではしゃいでいたのがまるで嘘のように、華代は静まった。

「……うん。なにかマズかった?」

「いや、たいしたことじゃないんだけどね。

 電気が消えてたら、留守だと思われるだろ? つまり、泥棒が狙う危険が少し高くなるわけだ。その泥棒がピッキング能力を持っていたら、致命的だね」

 華代の顔から血の気が引いていった。しん、と静かになる。

「……ご、ごめんなさい」

 静寂を壊すことを恐れるように、ためらいがちに華代が言った。

「いいんだよ。そんな可能性はほとんどないさ。今までだって、泥棒さんは来なかっただろ?」

「……うん」

「じゃあ、大丈夫さ」

 僕は席を立って華代のところへ行き、彼女を抱きしめた。そうすれば妹を安心させられる、と思ったのだ。

 しかし、安心させるたびに席を立つのは面倒くさい。僕は場所を変更することにした。

「なぁ、華代。お兄ちゃんの部屋に来るか?」

 僕がそう言うと、華代は途端に顔を上げ、

「いく!」

 顔を輝かせて、賛同した。


 部屋につくと、僕と華代はベッドに腰掛けた。

 よし。これで簡単に抱きしめられる。

「ほかに聞きたいことは?」

 華代は最初のうち、キラキラした目で部屋を眺めまわしていたが、その目はすぐに曇った。なにか不満でもあるのだろうか。

「事件のことじゃなくてもいい?」

「いいよ」

 死亡推定時刻は冷房をかけておいた時間だけ遅らせることができると仮定すると、あと一時間くらい余裕があった。少しくらい無駄話をしてもいいだろう。

「なんでこの部屋は仕切られているの?」

 僕の部屋はカーテンで半分ずつに隔ててある。ドア側と窓側の二つに別れているのだ。

「カーテンの向こうにはガラクタがたくさんあるから、それを隠してるんだ。こっち側は来客用に、きれいにしてある。まぁ、これまでの来客は華代を合わせて二人だけだけどね」

「もう一人は誰?」

「お母さんが一度来ただけさ。まぁ、僕が招き入れたんだけど」

「どうして?」

「僕のお兄ちゃんが死ぬのを邪魔させないため」

 華代ははじめ、分からない、という風だったが、すぐに納得した。

「ああ。あの馬鹿なお兄ちゃんが自殺したときね」

 華代には事件の真相を少し話していた。正確には他殺なのだが、自分で毒を飲んだのだから、自殺でもあるわけだ。警察は事故として処理したけれど。

 華代はつづけて言った。

「パパもあっけなく死んじゃったし……。

 お兄ちゃんは天才なのにパパは根本的に馬鹿なのよね。対照的な親子。

 わたしは典型的な良い子だけどね」

 僕はそろそろ次の行動に移そうと思った。典型的な良い子に、説明をする。


「死亡推定時刻は、本当に死んだのが一時くらいだったから、二時間後の三時ごろになると思う。――サイフは持ってるよね?」

「何かあったら大変ですもの。いつも持ち歩いてるわ」

「よし。華代にはこれから、買い物……ショッピングに出かけてもらう。商店街で適当に色々なお店に入って何か買うんだ。レシートがアリバイ証明になる。あんまり多くはいらないよ? せいぜい五、六枚あればいい。とりあえず四時まで買い物して、家に帰るんだ。あとは警察に通報するだけ。あんまり派手な演技はいらない。ふさぎ込んでいればいいよ。分かった?」

「分かったわ」

「じゃあ、今日はこれで、お別れだ」

 そう言うと、華代は残念そうな顔をした。抱きしめて、「華代は良い子だろ」と言ってやる。

「うん」

「事件が片付けば、また会えるようになるから」

「うん。ありがとう、お兄ちゃん。今日は楽しかったよ」

 華代はそう言うと、ひざ立ちになって僕の頬にキスをした。僕にとっては間違いなくファーストキスだった。今までは誰も僕に関心を持たなかったから。親でさえも。

「バイバーイ!」

 唯一僕に関心を持っている人間が、明るく元気な足取りで部屋から出て行った。トコトコと階段を下りる音がして、玄関のドアが閉まる音がする。

 僕はほんの数秒だけ、開かれたままの自室のドアを眺めていた。

 妹の出て行ったドアを。






   手記


 まさかまたこんなものを書くことになるとは思っていませんでした。今回の計画を練っているときにも書こうとは思っていませんでした。

 しかし、妹の華代がしつこく、

「絶対、手記書いてね!」

 というので仕方なく書くことになりました。

 私は二〇〇五年七月初旬にある事件を起こし、真相を手記のかたちで書きました。

 だから、今回は二回目ということになります。

 華代はうまくアリバイ作りに成功しました。

 おかげで事件は父の自殺として処理され、計画は大成功を収めました。

 それでは、ちょっとやる気のないタネ明かしをどうぞ。


 事件の発端は、去る二〇〇五年七月二十三日に届いた一通の手紙でした。

 ちょうど夏休みに入ったばかりでした。

 差出人は「川村華代」となっており、私の知る名前ではありませんでした。

 手紙の内容は、ざっとこのようなものでした。


『お兄ちゃん、初めまして。わたしはあなたの妹の華代です。

 今月の1日に、9才になったばかりの幼い少女です。

 お兄ちゃん、こんな可愛い妹を、助けて下さい!

 いま、パパと二人暮しをしているのですが、先日、見てはいけないものを見てしまったのです。

 誕生日を過ぎたある日。わたしはイタズラをするつもりでパパの部屋に侵入しました。

 すると、机の上に一冊のノートがあり、表紙に「私と華代の生活日記」と書かれていました。

 どんな楽しいことが書いてあるのかと思い、興味本位で最初のページを読んでみてビックリ。

 そこには、おぞましい真実が書かれていたのです。

 あまりに酷くて大きな声では言えないのですが、パパはちょっと変わったロリコンだったのです!

 高校生以上の女性を愛せない体質だったのです。

 わたしは恐くなって、日記帳をもとに戻してから、急いで部屋を出ました。

 パパはママだった人と結婚したときから、人生プランを立てていたのです。唯一愛したママと結婚し、わたしを産ませて、ママと別れて、わたしを愛してまた娘(わたしの子供)を産ませて……という繰り返しの人生。それこそがパパの目的だったのです。

 つまり、パパはわたしを愛の道具にするつもりなのです。

 そんなのイヤ! 絶対に嫌です。

 じゃあ、どうすれば道具にされずに済むのか。

 元凶であるパパを殺してしまえばいいんだわ。

 あるいは、もう二度と干渉できないように隔離するしかない。でもそれは面倒だから、やっぱり、殺すしかない。

 だからお兄ちゃん、パパを殺してください!

 パパを殺して、わたしを救ってください!

 お兄ちゃん以外に頼れる人がいないの。

 ねえ、お願い!


 お返事は電話でお願いします。

 ○○○−△△△△−××××

 これがわたしのケータイの番号です。

 電話待っています。

 救世主を待つ美少女――華代より』


 手紙を読んで、私はようやく思い出しました。

 自分の旧姓――つまり父の姓が川村であったこと。そして、自分には生き別れになった妹がいたこと、を。

 手紙の内容はイタズラにしては突飛なものだったので、信じることにしました。あれこれ疑うよりも、電話をかけたほうが早いと思いました。

 私は早速、家の電話から記されていた番号にかけました。自分のケータイを使わなかったのは、用心のためです(二回目以降はケータイを使いましたが)。

 私は妹を助けてやろうと思いました。

 悪魔である私が人助けなんて、馬鹿げています。

 しかし私の動機は妹を助けるためではありませんでした。純粋に、殺人というゲームを楽しむためでした。

 私は前回の手記で、こう語りました。

『また機会があればぜひやってみたいものです。この完全犯罪というゲームを』

 今回が、その機会だったのです。

 それにしても、手紙ではなくケータイでやりとりするというのはグッドアイディアでした。手紙のように文字を書く面倒もないし、証拠隠滅の必要もない。

 華代は頭のいい子かもしれない、と思って、少し嬉しくなりました。

 というのも、私の周りには頭の悪い人間しかいなくて、辟易していたのです。まぁ、みんな消してしまいましたけど。

 私が初めて電話したとき、華代は大袈裟に喜びました。まさか自分の楽しみが、他人の幸せになるとは思っていなかったので、驚きました。

 私の中に、華代を助けようという感情がほんの少しだけ芽生えました。私は初めて人間らしい感情を抱いた自分に、動揺しました。


 それにしても、今回の計画はなかなか思いつきませんでした。

 前回はまるで閃光のようにひらめいたのに、今回は丸一日かかりました。

 父を証拠を残さず殺すのは容易でした。しかしそれでは、華代に容疑がかかる可能性がほんの少しありました。

 華代が全く疑われないようにするには、やはり自殺しかなかったのです。

 では、どうやって自殺させるか、というのが最も難しいところでした。

 普通に毒殺すれば自殺に見せかけるのは簡単ですが、それでは芸がないと思ったのです。

 しかしその問題も、華代からの手紙を見ていて解決しました。

 華代がやったように、私もSOSの手紙を送ればいいのです。

 父が怠け者で新聞やニュースを見ないことは、華代から聞いて知っていました。つまり、父は私が一人ぼっちで生活していることなど知らなかったのです。

 私は「虐待する母」をでっち上げ、SOSの理由にしました。

 華代と同じように、親の殺害を頼んで、あたかも自分は殺す側の人間だ、と父に思わせました。

 間抜けな話です。自分の用意した毒で死んでしまったのですから。

 しかしそれも仕方ないことでしょう。父は娘の華代を愛していたのです。疑うことなどできなかったでしょう。


 正直な話、父からSOSの返事がくるとは思っていませんでいた。

 いくら私が苦しみを訴えたところで、簡単に私を捨てた父にとってはどうでもいいことだと思ったのです。

 それに、私はあえて名前を偽りました。父が私のことを覚えていないだろうと思って、それを確かめてみたかったのです。

 案の定、父は名前について何も言ってきませんでした。やはり、私の存在などどうでもいいと考えていたのです。

 ということは、この件に乗ったのは、母に対する同情からだと推察できます。すでに愛がなくなっていても、やはりかつて愛した相手をいたわったのでしょう。私には理解できない感情です。


 それはさておき、私は急いで母殺しの計画の内容を手紙に書いて、バスで父の家に届けに行きました。家の場所は華代に聞いて知っていました。

 わざわざ自分で届けに行ったのは、家の下見と、消印をつけないためでした。一石二鳥というやつです。

 なぜ消印をつけないようにしたのか。それはのちほど分かります。

 次に、父は母を誘う手紙を出すはずでした。手紙はきましたが、私はてっきり郵送だろうと思っていたのに、消印がないところを見ると父は自分で届けに来たようでした。

 このときは焦りました。

 なにせ、父が家を訪れたその日、家の駐車スペースには乗り物が一切なかったのですから。

 父はつい最近兄が死んだと思っていましたから、たとえ母と私が外出していたとしても兄の自転車が残っているはずだ、と考えたでしょう。しかし実際には一台もない。これはおかしいぞ、と不審に思ったかもしれません。それが疑いにつながり、結果として計画がバレてしまう可能性がありました。

 しかし私の運が強いのか、父はそこまで疑ってみなかったようでした。

 私は兄が死んで母が刑務所に行ったあと、乗り物は自分の自転車を除いて全て処分しました。私はまだ車に乗れませんから、邪魔だったのです。

 そしてこの日、私は珍しく出かけていました。

 だから自転車がなかったのです。

 どこへ出かけていたのかというと……。

 ちょうど同じ日、華代は父に登校日だと言って学校へ行きました。

 しかしそれは嘘でした。

 私が華代に、ケータイでそうするよう指示を出していたのです。

 本当の行き先は、父の家から少し離れたカラオケボックスでした。

 そこで、私と華代は待ち合わせていたのです。

 それが私と華代の初めての出会いでした。

 華代の学校は私服登校でランドセル以外も認められていたので、彼女は普通のかっこうをしていました。いかにも「いまどきの小学生」という感じです。

 私はというと、全身黒づくめだったので、きっと奇妙だったでしょう。

 華代は緊張していたらしく、私が「時間はあるから歌ってもいいよ」と言うと、喜んで歌い出しました。

 華代はひとしきり歌うと、「お兄ちゃんも歌ってよ」と言って私にマイクを寄越し、勝手に選曲して福山雅治の「桜坂」を歌わせました。

「すごーい、上手ー!」と華代が言いました。

 人前で歌うのが初めてなら、誰かにほめられるのも初めてでした。このときは少し嬉しかったような気がします。

 いや、そんな話はどうでもいいとして、このとき私は、華代に遺書と手紙が一緒に入った封筒と毒薬の入った紙包みを渡して、今度電話したときにポストに入れておくよう言いました。

 今度電話したときというのは、私の家に父の母を誘う手紙が届いたあと、ということです。実際は都合よくこの日に手紙が来て、その日のうちにポストに入れることができましたが。

 そうです、これらは私が届けたのではなく、華代が持ち帰っただけなのです。

 ここで、消印をつけたくなかった理由が明らかになります。

 もし前回の手紙に消印があった場合、なぜ今回は消印がないのか、と怪しまれる危険がありました。

 ささいなことですが、それを避けるためだったのです。


 翌日、ついに決戦の日がきました。

 私は朝から近くの公園で待機していました。不測の事態に備えるため、というのもありましたが、私には重要な役目があったのです。

 頻繁にケータイで連絡を取り合って、華代に状況を伝えてもらいました。

 この日、父はなぜかなかなか起きませんでした。私は待ちかねて、十一時に華代に父を起こすよう言いました。

 そこからは私が一方的に指示を出しました。

 華代を寝室に残して待機させておき、私は機会を待ちました。

 十二時半。

 私のいる場所からはリビングの窓が見え、父がグラスを用意するのが見えました。少し遠いので、あまりよく見えませんでしたが。

 本当は華代にこの状況を伝えてもらうつもりでしたが、寝室にはカギがかけられて、不用意に出られない状態だったのです。

 条件は整いました。

 父にすれば、あとは母の訪問を待つだけだったでしょう。

 しかし私の仕事は、まさにこれからが本番でした。

 誰にも見とがめられないよう、慎重にインターホンに近づき、華代に「今押したよ」と言いながらボタンを押して、ダッシュで逃げました。

 ――世に言う、ピンポンダッシュです。

 私は重要な役目を終え、再び公園に戻りました。

 生まれて初めてのピンポンダッシュでした。極めて重要性の高いピンポンダッシュでした。

 なにせ、これが父を自殺させるための最重要必須事項だったのですから。

 私が「今押したよ」とわざわざ言ったのは、華代が防音設計の寝室にいて、インターホンの音が聞こえない状況だったからです。

 華代には呼び鈴の音と同時にカギを開け、ドアをほんの少し開けて外の音を聞くよう指示してありました。父がリビングを出て玄関に向かう足音を聞いたら、すぐに部屋を出てリビングに行くように、とも言いました。

「あとは予定通りやればいいから。頑張って」

 と言って、私は黙りました。この間、ケータイはつながったままにしておきました。状況把握のためです。

 華代はこのあと、つながったままのケータイをリビングのテーブルの裏に貼り付けておく手筈でした。

 しかし、ここで不測の事態が発生しました。

 華代はケータイを寝室に置いて、リビングに行ってしまったのです。

 きっと、父の玄関に向かう足音を聞くとき、邪魔になったケータイを床に置いていたのでしょう。

 しかしまぁ、残るは簡単な作業だけだったので、大丈夫だろうと判断し、あとはもう、全て華代にたくしました。

 華代がすることといえば、足音で父の接近を感知して、父に見えるように毒入り水(と父が思い込んでいるただの水)を飲んで、無事な様子を見せつけたあと、残ったほうの水(これこそが毒入り水)を父に飲ませる、というたったそれだけのことでした。

 もちろん、その前にコップをすりかえておくのですが。

 ピンポンダッシュは絶大な効果を示しました。見事、華代を寝室から脱出させ、グラスを入れ換えるという簡単だけれど肝心要のトリックを成功させたのです。

 壊れていなかったインターホンに感謝です。


 かくして、簡単な計画の長い道程がほぼ終了しました。

 あとは、華代が自分で語ったとおりなので、私は語りません。



 それにしても、今回の事件は本当に予想しえなかった出来事でした。

 周りの人間はいなくなったし、もう完全犯罪(殺人)なんていうゲームはできないだろうと思っていました。

 母は妹のことをほとんどタブーのように話しませんでしたから、私に妹がいるということなどとっくに忘れていました。これが完全にタブーだったら、私は妹の存在に半信半疑で、協力などしなかったでしょう。

 後日、父の日記を拝見しました。物証は全て私が所持していますから。

 華代には悪いですが、父が異常者で良かったと思います。

 そのおかげで、華代が私を頼り、またゲームができたのですから。

 さいわい、父は変態というにはあまりにウブだったので、華代は何もされずに済んだようです。


 事件から、はや二週間が過ぎようとしています。

 葬儀は父の死んだ二日後に執り行なわれましたが、私は出席しませんでした。父とはとっくに別れていて、すでに親族ではありませんし、私は彼の自殺に、なんら関与しなかったのですから。

 華代は悲しみの演技をしすぎたせいか、私が電話しても、

「……はい、どちらさまでしょうか……」

 と、暗い応答をしたりします。

 しかし私が、

「お兄ちゃんだよ」

 と言うと、途端に明るい声で、

「お兄ちゃん! 華代だよ! なになに? なんの用事?」

 と、まくしたてるのです。

 まったく、おそろしい女です。今後はもう少し女性に警戒することにします……。

 おそろしいと言えば、華代の頭脳はおそろしいほど良いです。

 前回の手記を読んで、理解しただけでなく、私が残しておいたいくつかの謎も解いてしまいました。

 末恐ろしい、とはこのことに違いありません。

 なぜこんなに頭の良い子が、私に助けを求めたのか、よく分かりません。

 私に頼らなくても、ひとりで完全犯罪を成し遂げてしまいそうですもの。

 もしかしたら、私を試しただけなのかも。

 ――いや、さすがにそれはない……か?


 ともかく、華代は不思議な子です。

 人間嫌いの私が、彼女と頻繁に会うはめになっているのに、なぜかあまり苛立たしいということはありません。

 彼女なら、近くに置いていても殺さずに済むような気がします。

 最後に。

 華代が前回の手記を読んだときの第一声は、こうでした。

「――お兄ちゃん。作文ヘタね」


 じゃあ、なんで僕に手記を書かせるんだ!

 と、つっこんでおきましょう。うん。


   二〇〇五年八月八日  三谷駆









   あとがき


 さて、なんだか禁じ手を使った気がします。

 読者様の中には「きたないぞ作者!」と憤慨した方もいらっしゃるかもしれません。

 また、もしかしたら父の設定を変態だと思った方がいらっしゃるかもしれません。

 きたない、というのには素直に謝りますが、変態、というのには反論したい思いです。

 あれは精神病の一種だと思ってください。過去の心的外傷によって起こった病気です。

 父のトラウマになった過去については触れていませんが、それなりにつらい過去を背負っていたのでしょう。

 いつものことですが、私には作品を通して主張したいことなどありません。作中で登場人物たちが語っているのは私の胸の内ではありませんので、誤解なさらないようお願いします。

 でも妹ダイスキです。

 では、できればまた次作でお会いしましょう。


 反響があれば、また次の作品を投稿するつもりです。感想を書いていただけると助かります。こんなくだらない話に付き合わせてしまってすみません。ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 前作を読んだ後なので、さらに楽しめました。ストーリーも前回と比べさらにグレートアップし、私は真相まで見抜けませんでした。物語を読み進める中、自分であれこれ考え結局深夜4時まで…(苦笑) しっ…
[一言] 今回も、面白かったです! 前回の、続きみたいでした(^^)
[一言] 最初は母ではなくこの次男が狂っているんだろうなーといういような予想をしながら読みましたが、考えていたよりももっと複雑で面白かったです。
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