あるべき僕の日常
夏の面影が見え隠れし始めた初夏の正午前。
郊外に広がる農村区域では、水田に爽やかな緑色が映えている。
僕がいるこの教室の窓からも見えるその景色に、黒板の文字を追う目をつい奪われてしまう。
ここは、アストピアにある【フォルバー】という街だ。周囲を自然に囲まれた盆地にある、アストピアの中でも特に大きな街の一つに数えられる。
地界政府など、地界の主要機関が集まる【王都シャングヒル】から近いこともあって、人口も多くて活気がある。
街外れには大きな川が流れ、少し上流にある、“水霊の舞台”と呼ばれる大瀑布は、この街のシンボルとしても有名だ。
この街は騎士団の聖地という異名に違わず、害獣討伐部隊【青龍騎士団】の本部や、新人騎士の育成機関が多く点在し、騎士を志す若者にとっては馴染み深い街と言っても過言ではない。
そして、今僕がいるこの場所は、新人騎士を育成する為の組織、“白虎隊”が運営するフォルバー中央騎士学校。
この学校は、四年制の教育機関で、騎士になる為にはこういった部隊での研修が必須となる。
とはいうものの、稀に特例もある。以前にも飛び級で騎士団に引き抜かれた女の子がいた。
だけど僕にはそんな恵まれた才能なんてない。
通例通りここで学ぶ、いわゆる“ごく普通の男子学生”。いや、なんならそれ以下とまで言えるかもしれない。
入学から二年が経った僕達の学年は、今年度から害獣の討伐訓練や戦闘術といった本格的な訓練、実地任務までもが始まっている。
そんな中で僕の成績はといえば、イマイチ鳴かず飛ばず。
それもこれも僕が抱える、ある欠陥が原因なのだ……。
「――え~というわけで、アストピアの代表的な騎士団は二つ。軍事、治安維持が目的の、地界政府直属の軍隊、“神王軍”と、害獣討伐を専門にする民間部隊の“青龍騎士団”になったということだ」
再び教室に響いた板書の音に、窓の外へと向いていた視線を正した。
「神王軍が、軍事と治安維持っと」
わざわざ色を変えて黒板に書いてあった教官の文字を、手元のノートに写す。
ふと時計に目をやると、針は昼前になろうかという時間。後ろの席では誰かの腹がぐうぐう鳴っていた。
「よし、部隊史はここまで。飯を挟んで午後一から剣術訓練だ、遅れるなよ」
「「「うーす」」」
教壇に教科書を置いた部隊史の教官の声を合図に、待ちに待った昼休みが訪れた。
ようやく昼食の時間だ。
クラスの大半が廊下へと飛び出し、授業中の静寂さと打って変わり、にぎやかさが校舎中に広がっていった。
「ジン、お前昼メシは購買か?」
仲の良い同期のベルが声をかけて来た。
ベルの本名はベルトランなのだが、僕を含めたみんなからは端折ってベルと呼ばれている。
ベルは入学式の時、ある理由から完全に孤立していた僕に唯一声をかけてくれて、それから急速に仲良くなった、唯一気心の知れた友人だ。
「いや、昨日の夜食べ損ねちゃったパンがあるから、それを食べようと思って持ってきたんだ。ベルは?」
「俺も朝に買ってきた。そんじゃ、屋上にでも行って食うか」
「うん。そうだね」
周りの同期生の誰よりも身体が大きく、筋骨隆々とした大男のベル。その厳つい見た目に違わず、戦闘訓練の成績は、同期生の中でも群を抜いていた。
剣術訓練などでペアを組む時には、そのあまりの迫力に毎回足がすくんでしまう。
授業中ずっと寝ていたようで、ベルの右頬には赤く腕枕の跡が残っていて、硬そうな赤髪をかき上げながら、デカい声であくびをした。
「ふぁ~ぁ。飯の後の剣術訓練は勘弁して欲しいよなぁ。腹に当たっちまうと全部出てくるから腹減るんだよ」
「うえぇ……、昼食前にそんな汚いものを想像させるのはやめてよ」
お昼に食べる予定だったパンの味を想像していたのに、喉を酸っぱい何かが駆けあがってくるあの感覚を思い出してしまう。
「はは、悪りぃ悪りぃ。まぁとにかく、これが今週最後の剣術訓練だ。うっしゃ、気合入るな」
「楽しみなようでなによりだよ。いいなぁ。ベルは戦闘訓練優秀だもんね」
「そんな事ねぇよ、もっともっと強くなんねぇと。そうだ、昨日また新しい技を思い付いたんだ。今日の訓練で試してみてもいいか?」
「ホントに!? 楽しみにしてるよ」
楽しそうに行き交う生徒の間を縫い、校舎中央にある階段を昇ると、暖かそうな日差しが差し込んだ屋上への扉が待っていた。扉を押し開けたその先では、気持ちよく晴れた青空の下で既に数名の生徒が昼食を食べ、和気藹々と穏やかな昼休みが広がっていた。
「あー、腹減ったぁ。さてと、メシだメシだ」
「ようやく食べられる。昨日の夜、訓練終わりでクタクタなのを我慢して、並んで買った限定メロンパン!」
「また別のメロンパンか? 俺にはどれも同じに感じるけどなぁ」
「何言ってるの!? 全然違うんだって! あのね、ここのメロンパンは使っている素材を全て一新した新作でね!」
「わかったから早く食えよ。この前みたいに昼休みが終わっちまうぞ」
熱いメロンパン談義を始めようと思ったらひらりと受け流されてしまった。
さっさと買って来た弁当を広げて食べ始めたベルに急かされ、紙袋から大好物のメロンパンを取り出す。
鼻に吸い込んだ甘い空気が身体に染み渡る。
そんな匂いに堪らず、早速口を付けようと思ったその時だった。
「――おいおい、無能のジンくんじゃねぇか」
穏やかだった屋上に突然響いた、明確に棘のある言葉。
その声を聞いた途端、吐きかけた息が喉に引っかかった。
胸の奥がギュッと締まり、柔らかなメロンパンに震えた指が沈み込む。
「なんだなんだ? この前の剣術訓練で稽古つけてやってから昼休みに姿が見えねぇと思ったら、こんなとこで飯食ってたのか。あれか? 俺から逃げたつもりだったのかぁ?」
ハッキリとその姿を見なくても声でわかる。隣のクラスのモーキン・リンカーと、彼の友人達だ。
入学した直後から彼らの恨みを買ってしまい、彼らに見つかる度にこうして絡まれていた。
隣にしゃがみ込んだモーキンが雑に肩を組み、目を伏せる僕の横顔を睨み込んでくる。
「なぁジン、今日の剣術訓練も俺と組もうぜ? またボッコボコになるまで鍛えてやるよ」
囁くようにそう告げると、肩に組んだ腕を締め上げてきた。
「……いや、その」
敵意に満ちたその眼差しに、真正面から対峙することも出来ずに俯いていると、横にいたベルが静かに立ち上がった。
「悪りぃなお前ら。ジンとペアを組んでるのは俺だ」
「……チッ。なぁベル、なんでこんな無能を庇うんだ。コイツは平均以下の成績でここの入学試験に受かった能無しだって知ってんだろ!? その証拠に、コイツは誰もが当たり前のように使える精霊術が使えねぇガラクタじゃねぇか!! 絶対何かしやがったに違いねぇ」
高らかと響いた彼の声に、屋上に居合わせていた他の生徒達もひそひそと話を始めた。
精霊術が使えないガラクタ。
彼の言葉は僕の胸の奥深くまで突き刺さり、やり場のない感情が今にも溢れ出しそうになった。
「……っ」
「あ? なんだ? なんか言いてぇことがあんなら言ってみろよ」
「…………なんでも、ない」
今の僕には反論なんて出来なかった。モーキンの言っていることは間違っていない。
僕は、精霊と人とが共存するアストピアという世界に生まれながら、唯一精霊に嫌われた人間なのだから。
「おい、なんべんも言わせんな。俺のダチをバカにすんのも大概にしろよモーキン」
反論しない僕を見かねてか、隣に立っていたベルが少し語気を荒げて割って入った。
「お前ら、訓練とか偉そうな事抜かして、ジンを一方的にぶん殴ってるだけじゃねぇか。あんな事二度とさせねぇぞ」
「……熱くなりやがって、クソが。――おい能無しの雑魚。お前の入学で試験に落ちた奴らがどんな想いしてんのか思い知らせてやる。てめぇ覚悟してろ」
……そんな事、僕が一番わかってる。
零れそうになったそんな言葉を、僕は奥歯で強く噛み殺した。
モーキン達は屋上の出口へ差し掛かると、去り際にこちらを一瞥し、少しだけ開いていた扉を思いきり蹴り開けて帰って行った。
その音に驚いて身体が跳ね上がると、束の間の静寂が屋上に訪れた。
誰からともなく再び話し声が広がり、あちこちから笑い声が聞こえ始めた。
あんな風に、はっきりと真正面から言ってくるのはモーキン達くらいだけど、恐らく他の同期生や先輩、新しく入ってきた後輩の中にも同じ風に疎ましく思っている人もいるかもしれない。僕みたいな、不適合者の存在を。
モーキンの言う通り、僕の入学試験時の成績は、到底合格に至るような成績ではなかった。
座学こそ合格ラインを越えていたものの、実戦形式の摸擬戦では入学志願者中最下位。得点すら貰うことも出来ず、評価は選考不可だった。
しかし、僕に届いた合否の通知には、間違いなく僕の名前と合格という二文字が並んでいた。
試験で悪目立ちしていた僕が、入学式に出席した時に流れたあの冷たい空気。あの日から、僕がこうなるであろうことは薄々予想できていた。
ただ一人を除いて……。
嵐が去っていった様な屋上は普段より賑やかになっていたが、野次馬として集まった数人の生徒も、いつもの事だと言って帰っていった。
「ったく、アイツらも飽きねぇよな。かれこれ一年近く突っかかって来やがって」
あの入学式の時も、ベルは他の人とは違った。
僕にはきっとなにかの才能があって、そこを評価してくれたんだ。と、見ず知らずの僕を心から祝福してくれた。
あの日からずっとベルには守られっぱなしだ。
「また庇って貰っちゃったね。ごめんベル」
「謝ることじゃねぇよ。気にすんな」
「うん……。でもね、モーキンの気持ちも、分かるような気がするんだ。モーキンと仲が良かった友達がね、僕と一緒の試験で落ちちゃったんだって。一緒の組だったからよく覚えてるよ。絶対に僕よりもいい動きをしてたんだ。僕みたいな能無しが合格した事に納得いかないんだよ」
そう呟くとベルは、呆れたように溜め息を吐き、ガシガシと自分の頭を掻いた。
「はぁ……。あのなぁ、モーキンもモーキンだが、お前も大概だぞ。お前が今ここでメロンパン食ってんのはなんでだ? ちゃんとした評価を受けて入学したからだろ。お前だって努力してない訳じゃねぇ。寮に帰ってからも自主訓練続けてんだろ? お前はよくやってる。いい加減自信持て」
「そうだけど、モーキンの言う通り、剣術はまだまだ下手くそだし、新人どころか、今時子供だって当たり前のように使える精霊術も使えないんだよ」
「いい加減その弱気を叩き直せ。入学式の後、俺に言ってたこと忘れたのか? 才能がなくても誰かを守れる騎士になりたい。その言葉を証明する為に、今までのお前は頑張ってきたんだろ。他人の評価に左右されるのはやめろ」
まだ語気は荒かったベルだったが、僕の横にまた座り直し、自分が食べていた弁当から肉団子を一つ摘まんで僕に差し出してきた。
「食えよ。そんな甘いもんばっかり食ってるから甘ったれになんだよ。肉食って気合入れろ」
差し出された肉団子を右手で受け取り、一回で口の中に放り込んだ。香辛料が効いたパンチのある風味を噛み締め、喉に詰まることもいとわずに呑み込んだ。
「……ごめん、そうだった。……うん、そうだ。僕はもっと強くなりたい。こんな僕だって、きっと誰かを助けられる。僕の助けを待ってる人がいるんだ。……よし、こうしちゃいられない。ベル、早めに訓練所に行って模擬戦しよう!」
ベルに向かって笑顔を返すと、嬉しそうに口角をあげて答えてくれた。
「うっし、そう来なくちゃな! お前は俺のライバルとして、誰にも負けねぇくらい強い騎士に鍛え上げてやる」
「うん、僕頑張るから。よし、今日は夜のランニングも10キロ追加するぞ」
そうだ、こんなところで立ち止まっている暇はない。ただでさえハンデのある僕だから、みんな以上の努力は当然必要なんだ。
今すぐ成果には繋がらないかもしれない。でも僕にだって努力はできる。だったらやらなきゃ。
空っぽな身体に宿ったちっぽけな闘志を絶やさぬように、劣等感を噛み締めながら、残りの大きく甘いメロンパンを噛み締めた。
◇◇◆◆◇◆◆◇◇◇◆◆
そして、息巻いて臨んだ昼休憩明けの剣術訓練。
「それじゃあベル、行くよ」
「あぁ、摸擬戦だからって手は抜かねぇぞ」
摸擬戦用の木刀を僕に向かって構え、ベルはおもむろに姿勢を下げ始めた。
恐らく、ベルが得意とする突進技で距離を詰めてくるつもりだろう。だとすれば僕は……。
「いくぞジン! おらぁ!!」
乾いた砂煙を巻き上げ、真正面から突っ込んできた。
いいぞ。概ね読み通りだ。これでベルの攻撃範囲が一直線上に固定される。
「――見えた」
何度も手合わせをしているベルの間合いは、網膜にまで染み付いている。
ベルはまだ木刀を振り出す直前だというのにその軌道がハッキリと見えた。
「甘いよベル、その技受けるの何回目だと思ってるのさ」
精霊術で動きを加速させる事が出来るベル。
一方そんな精霊術などまるで使えない僕。
精霊術が使える他の騎士に勝つ為、僕に必要な事とはなにか。
それは生身の身体の能力を限界まで引っ張り出すこと。
それともう一つ、相手の動きのさらに先を読んで隙を狙う頭しかない。
ベルの腕の長さと木刀の長さ、突っ込んでくる速さから、だいたいの命中範囲を予測し、限界まで引き付けて身体を屈める。
凄まじい轟音と風圧を纏った木刀が頭上を通り過ぎ、思わず冷や汗が溢れ出す。
「っひえぇ。――でも」
今度は僕の番だ。
通り過ぎていく巨体を横目で見送り、左足を大袈裟に振りながら地面に半円を描く。
強引に体勢を反転させ、残していたもう片方の足で地面を蹴り、ベルの背中に向かって飛び掛かる。
「後ろは貰ったッ!」
踏み切った勢いのままに木刀を振り下ろす。
ベルはこちらを目視すらしていない。これは貰った。さぁ、お次はどうする……。
内心、ようやくベルから一本とれると気を抜いていた。
「――まだまだ甘いなジン。くらいやがれ、俺の新必殺奥義。ベルバックッ!!」
「んなっ!?」
あろうことか、ベルは木刀を地面に突き立て急停止し、地面に固定したその木刀に足を掛け、拳を握りながら再び突っ込んできた。
一方の僕は今まさに着地を迎える瞬間だ。辛うじて片足が使えそうだったがもう遅い。
「決まりだなジン。 寸止めしてやるから安心しろよッ!」
ここまでか? いや、まだ大丈夫。じゃあどうやってかわす? このまま突っ込む? いや、ベルは僕の攻撃を読んで既に腕で受けに来てる。それなら退くしかない。体勢は崩れるけど後ろに仰け反ってかわすしか……。
「っく、……っとっと。……って!?」
勢いが付き過ぎたせいだろうか、仰け反るはずの僕の身体は、つんのめって前に向かって飛び込んでいた。
「あ……」
ベルの新しい新技は見事僕の腹にクリーンヒットした。
数秒後、ジュースのようになったメロンパンを吐き出し、僕に新しく【パンジューサー】なんてあだ名が付いたのは、また別のお話。
……否、黒歴史である。