始まりと白の天井
ヒンヤリとした無機質な部屋。不気味なくらい真っ白な天井。
ゴンゴンと唸りを上げる得体の知れない機材の数々。
天井から垂れた冷たい鎖。
その鎖に両腕を繋がれた僕はまるで、目の前を隔てるガラス壁の向こう側でビコビコと動く、機械の部品にでもされたような気分だった。
いい加減新鮮味も薄れ、食べ飽きたパンのような光景に、ぐったりと気分が重くなった。
「ガリベニアス博士、実験の準備が完了しました。いつでも始められます」
意気揚々と張りきった研究員の声が、部屋の隅々にこだましていやに騒々しい。
またあの苦痛な時間が始まるのかと思えば、全身に気だるさがもたれかかってきてしょうがなかった。
やり場のない億劫な気持ちを紛らわす為、最近の数少ない楽しみになった、夕食のメニューを予想していようと思った時だった。
今まさにメインディッシュを、というタイミングで、僕と向こう側を隔てる扉が勢いよく開くと、一人の男が、眩しすぎる照明を、金色の髪と一緒に掻き上げながら近付いてきた。
とっくに見飽きていた筈の男に、思わず意識が引っ張られ、頭の中で美味しそうに湯気をあげる夕食が霧散していった。
僕が座っている簡素な椅子の目の前まで来た男に、頭上からその鋭い眼光で見下ろされた。
この人の目は、どうにも平静を逆撫でられる。どこか血に飢える獰猛な竜にも見えてくる。
こんな心境だけ抜き出してしまえば、高圧的で近寄り難いような雰囲気に感じるだろう。しかし、首から下へと視線を下げてしまえば、軽く小突いて木っ端微塵になりそうなか細い体躯が見え、若干の安堵を感じてしまう。
「やぁ地界の少年、気分はいかがかね? 実に革新的な私の研究に関われるのだ。そろそろこの私を崇め奉る気になったか?」
突飛な言葉を並べた白衣の男は、ズレていた訳でもない眼鏡を、右手の中指で押し上げた。
「また始まった……」
彼の声というのは不思議なもので、拘束されたこの状況に感じていた全身の気だるさが、信じられない勢いで増していく。もう頭を上げるのも億劫なほどだ。
「その台詞を僕に言ったの何回目か数えてます? あと、僕の名前はジンです。なんでたまに回りくどい呼び方するんですか? 鬱陶しいですよそれ」
「黙れ。今は私が喋るターンだ。まだ貴様が喋っていいターンではない」
「支離滅裂って言葉ご存知です? あと、さっきから言ってるその“ターン”って何なんですか」
「はぁ? 何か言ったか? 地界の言葉は意味がわからんな。会話にもならん」
「いや、……もういいです、そういう事で」
同じ言語だという指摘は敢えて言わないでおこう。無論、面倒だからに他ならない。
折れた僕に勝ち誇ったような眼差しを寄越すと、得意げに白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
しかし、若干のストレスはこの男に与える事が出来たらしく、イライラすると眉をひくつかせる癖が隠しきれていなかった。
こうして毎日毎日顔を合わせていれば、人の癖の一つや二つくらい、嫌でも覚えてしまうものなのだと思い知ってしまう。
「というか、まあた性懲りも無くあの実験ですか?」
せわしなく部屋中を駆け回る白衣の人達が、ガラスの壁越しに目についたので尋ねてみた。
「また、とはなんだ失敬な。私の血と汗の結晶たる素晴らしい実験を、見飽きた宴会芸のように扱いおって」
「いや、そこまで陳腐には思ってないですけど……」
「いいか!? 精霊がいないこの天界アルデラントで、貴様ら地界人がその身に宿す精霊への干渉方法を見出したのは、他でもないこのガリベニアスさんなのだぞ」
これは本当に僕の言葉が理解不能なのか。はたまた、それほどまでに“また”という一言が勘に触ったということか。
「あたかも成功済みみたいな言い方止めません? 一回も成功してないじゃないですか。だいたい精霊への干渉が可能だなんて嘘臭い話本当なんですか? 天界人の博士は知らないかもしれませんけど、精霊に直接人間が干渉なんて不可能だって学校で習いました――って、このやり取りも何回目……」
「あ~あ~聞こえん聞こえん。知性のないパッパラパーな言葉は一切理解できん」
ずいぶん古典的な手段で追及をかわされた。
「そうですか。都合のいい耳をお持ちで羨ましいです」
見え見えの皮肉にも、眉以外は動揺を隠しているつもりらしく、明後日の方向を向いて耳をほじり始めた。
「まったく、どうして僕がこんなこと……」
何故僕はこんな意味不明な実験に巻き込まれ、何もないガラス張りの部屋に押し込まれているのか。それには、思い起こすにも気が遠くなりそうな経緯があるのだ。
本来、目の前にいる小憎たらしいこの白衣男と僕は、住む世界が異なる、いわば異世界の人間同士という事になる。
博士曰く、彼らが暮らすこの世界は、高度な文明が栄える、天界アルデラント。
そして、僕が住んでいたのは、精霊という謎多き生命と人とが共存する、自然豊かな地界アストピア。
大きな違いと言えば、精霊信仰があるかどうかだろう。
地界の人はこの信仰の恩恵で、その体に精霊が宿り、精霊術という不思議な力を使うことが出来る。という事らしいが、詳しい事は未だ解明されていない部分が多い。
取り敢えず、このことを踏まえて今の僕の状況を説明すると、精霊術を使えない天界人が、何を思ったか精霊の研究を始め、その結果、僕は今実験材料として訳の分からない精霊術の実験に巻き込まれてしまった。といったところか。
とはいえ、毎日毎日性懲りも無く同じように天井に繋がれているのだ。いい加減不満の一つくらい溢してもいいだろう。
「前から思ってましたけど、興味本位のこんな実験の為に、わざわざ地界人の僕を拉致軟禁してるんですか?」
呆れ半分に腕を吊る鎖を揺らし、この胸に抱えた表情筋が歪むほどの嫌悪感を伝えてみたが、一切聞く耳など持たない様子だ。
「おい貴様、今こんな実験と言ったか?」
「……あ~、なんでもないです」
進歩のない不毛なやり取り。迂闊だった。今日は機嫌が悪いらしい。なににでも突っかかってくる面倒な日のようだ。その証拠に、一層激しく動く眉が、つり上がった赤い瞳を目立たせている。
「つくづく失礼だな貴様。これは貴様に宿る精霊の力をちょっとだけ拝借し、我々が日々使う電力を補えるのでは? という非常に環境に優しい考えから始めた実験なのだ。“こんな実験”などという粗末な扱いを受けるような実験では断じてない!!」
「そうですか。それはご立派ですね」
呆れ半分に身体へはめられた拘束具を眺める。……どう考えても僕には優しくないよな。
「いい加減諦めましょうよこの実験。見ましたか今日の天気。めちゃめちゃ晴れてましたよ。そうだ、お外に行きましょうよ。こんな陰湿な所に引き篭もってるなんて、環境云々以前に不健康ですよ」
無駄だとは薄々感じつつも、万に一つの可能性を信じて説得を試みる。理由なんて何でも良かった。ただただ無駄としか思えないこの時間が憂鬱なのだ。
「たわけ。相変わらず口の減らんガキだ。いい加減実験を始めるぞ。……さぁ、世紀の大発明を目撃する心構えは良いか?」
案の定説得は無駄に終わった。
博士は口角をニヤリとつり上げ、いかにも悪役然とした表情を浮かべてほくそ笑んでいる。
だがしかしその姿は、悪役に憧れを抱いてしまった危ない少年にしか見えない。僕が知っているいじめっ子の方がまだ迫力があったとすら思える。
敢えて彼の姿を活かす為、百歩ほど譲って曲解するならば、“こんな大人にはなるな”という究極の反面教師ということなのだろうか。
今となってはもう止めることすら出来ない人体実験。
余計な考えに一通り意識を巡らせ、諦めの良いところで静かに顔を伏せた。
照明のせいか血色が悪く見える両足を、少しだけ間を空けて地面にしっかりとくっつける。
「そう怖がるな。痛みはない、……筈だ。万が一失敗だとしても、意識は一瞬で吹き飛ぶので問題あるまい」
初めてこんな言葉を聞いた時ならば、戦々恐々と手足を震わせていたかもしれない。
罪悪感や躊躇など微塵も感じない軽薄な口振り。この男には人の心が無いのか、もしくは失敗はしないだろうというガバガバな自信の表れか。
「毎度毎度そんな事言って、結局問題ばっかりじゃないですか」
「……さぁ諸君、実験を始めよう!」
長年の引きこもりを思わせる不健康な白い肌と、それに強調された小汚い白衣の男が、高らかに両手を挙げて宣言した。
その言葉を聞いて、どこからともなく確認の声があがる。
「メインシステム起動。異常なし。制御システムオールクリア。出力上昇。観測数値、異常ありません。実験装置がスタンバイフェイズに移行しました」
「よろしい!! では、実験開始だッ!!」
不気味な指揮者の元、様々な実験装置の合奏が始まった。不快感が込み上げる。何よりうるさい。
しかし、部屋中が騒がしくなるに連れ、自分の心音も喧しくなっていく。
目を閉じ、一応感じるかもしれない痛みに備え全身に力を入れると、額から気味の悪い汗が滲んだ。
今更だが、僕は痛みに強い方ではない。
アストピアにいた頃は、騎士を志して騎士学校に通っていたのだが、手入れの最中にうっかり落とした剣に足を貫かれたことがある。その後しばらく、あまりの激痛に気を失って寝込んでいたほど、痛覚の過敏さには自信がある。
「ぐうっ……」
次第に心を覆い尽くしていく恐怖に体が震え、耳鳴りが響くほど奥歯を食いしばっていた。
その直後だ。強く閉じた瞼の裏に、またあの光が現れた。
それはまるで、暗い夜を駆ける流星のような、闇に走る白の一閃。
一瞬だけ体が痺れ、全身に寒気を感じて鳥肌が立つ。
「――ッ!? また!?」
その後は、いつもの実験後と同じだった。
得意げに高笑いを決め込む博士と、ガラス壁の外から真剣に僕を見つめる研究員達。
懸念していた痛みなど感じることなく、そっと瞼を上げる僕。強く瞳を閉じていたからか、目の前がチカチカしてとても眩しい。
「やっぱり。……また、なんともない」
「んなんだとッ!? またか!?」
さっきまで得意気だった表情が少しずつ重力に負け、無残な顔に変わっていく。
ああいう人を、昔の本当に賢い人が見て、≪無様≫と呼んだのだろう。
「おい! ちゃんと装置は動いていたのか!? 最大だ! 出力を最大限まで上げろ!」
「へっ? いえ、これが限界値ですが……」
「馬鹿者!! 限界など有って無いようなものだッ!」
また始まった。
長くなったが、ここまでが僕の最近の日常である。
毎日毎日同じようなやり取りの繰り返しだ。いい加減緊張感や恐怖心なんかも薄れてしまった。
「……早くアストピアに帰りたい」
「ま、まだだ。まだ失敗ではない。さっさと再起動の準備を始めろ!」
無様な博士の怒号に、文句一つ言わず研究員が実験の準備を始めた。因みに、この日も一度だって成功しなかったことは、言うまでもない。
重い頭を空にしながら、忙しく駆け回る研究員たちを呆然と眺める。すると、今ではもう懐かしさすら感じる、騎士学校での訓練の光景を思い出した。
確かあの日も、よく晴れた初夏のことだった。
刺さるような日差しと、肌に張り付いたシャツ。今までに憶えが無いくらい気温が高かったのを鮮明に覚えている。
あの日の僕は、こんな未来が待っているなんて想像もしていなかった。
まさか自分が別の世界に拉致されて、こんな殺風景で陰湿的な部屋の天井から吊るされているだなんて。