届かなかった
「ここにいたのか、種子。追加の実験項目が出来た。至急実験室に来い」
屋上の入口に、丸々と肥えた白衣の大男が立っていた。
その男が声を発した途端、今まで屋上を満たしていた穏やかな空気が、やや湿った西風に流されて行った。
「……あの、誰ですか?」
今まで見たこともない人だ。でも、あの白衣姿。恐らくここの研究者なのだろう。
彼は、僕の存在など眼中に無いとでも言うように口を閉ざし、磨き上げた切っ先のような眼光で、隣で怯えた少女を睨み付けていた。
光さえ逃がさない悪魔のような瞳は、見ているだけで全身から汗が滲み出してくる。
「えっとあの、聞こえてます、か? ……ねぇ、あの人だれなの? 知ってる人?」
返事もせずに俯いたまま震えているかぐや。
その姿を見てなんとなく察しがついた。
だって今のかぐやの表情、初めて会った時と同じ顔だ。
そして、ようやく男が僕の方を見たのだが……。
「――ッ!?」
なんだこの感覚っ……!? 身体が、動かない。いや、動けない。
「すまんな小僧。コレは私の貴重な実験材料だ。あまり要らぬちょっかいを出されては困る。今後コレとの接触はやめてくれ。無事故郷へ帰りたいのであれば、二度と関わるな」
「“コレ”って……。一体どういうことなんですか!?」
「黙れッ!! 二度は言わん。これ以上私の時間を無駄にさせるな。劣等種が」
一層殺意めいたもので威圧された。
身に覚えのない感情をぶつけられ、黒々とした恐怖に身体が飲み込まれていく。
ふと左手の痛みが無いことに気が付き隣を見ると、怯え切った少女は顔を伏せながら、静かに立ち上がった。
「ま、待って……、待ってってば!! 行っちゃダメだッ!」
しかし、歩みが止まらない。
振り返ることもせず、淡々と歩く人形のようで。
直感的に感じた。
これが最後。きっともう、会えなくなるんだと……。
このままじゃダメだッ!! 動けッ! 怖がるな、騎士になるんだろ!? その為に今まで辛い思いを乗り越えて来たんじゃないのかッ!?
手が届かなくなる前に、守るんだ!! 走れ! 今なら、手を伸ばせばッ……!
薄暗く口を開けた実験棟への冷たい扉に、真っ白な太陽が背中から差し込む。
「ま、待って……、ください」
情けなく震えた手で、かぐやの腕を掴んだ。
それに反発するように、影へ引き込む男の手もまた、かぐやの腕に喰い込んだ。
光と影の狭間で引き伸ばされた少女の体があまりにも痛々しくて、思わず手を放してしまいたくなった。
「……一度俺は言ったはずだぞクソガキ。手を離せ」
ゆっくりと振り返った男の目が、殺意と憤怒でドス黒く染まった。
それは言葉の色までも黒く飲み込んでいく。
先程まで穏やかに差し込んでいた光も雲に飲まれ、屋上の暖かさが次第に失われてた。
でも、絶対にこの手を離しちゃダメだ。
「い、いやです。その子、泣いてるじゃないですか。やめてあげてください」
「…………鬱陶しい」
「――ッ!?」
「鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しいッ!!」
男は力任せに、かぐやごと僕を引き寄せた。
崩れた体勢の僕の腹目掛けて、重そうな右足が突っ込んできた。
「ッッぐ!?」
それから間髪入れず、白衣のポケットから小さな球体を取り出して投げ込んできた。
微かに聞こえる小さな音。時間が引き延ばされたようだった。
小さな球体が徐々に発光し、強烈な熱風に身体が吹き飛ばされた。
「うあぁぁぁぁぁぁぁーーっ!!」
薄手の服は一瞬で引き裂かれ、剥き出しの皮膚を炎が這いあがる。
「軟弱な分際でこの俺の行く手を阻むなど、調子に乗るな無能がッ!! 火だるまになって叫びをあげるのは、獣でもできるわ雑魚が。喧しい分石炭以下な貴様を、手にかけた俺自身が腹立たしいわクソガキ! ……身を焼いて己の業を思い知るがいい。次は殺すぞ」
「ッはッ――ッく!! かぐやぁぁぁーー!!」
燃え上がる手を伸ばした先で、無情にもあの冷たい扉が閉ざされた。
様々な感情が零した涙は、燃え盛る炎を消すには、あまりにも少なすぎた。
◇◆◆◇◇◆◆◇
「いいか、余計な行動をするな。実験内容は機密事項だと言ったはずだ」
(実験については口外していません!! お願いですから、彼に何もしないで――ッ)
黙れと言わんばかりに、頬に硬く握った拳を叩き込まれた。
「貴様ごときがこの俺に話しかけるな。貴様に許した言葉は『はい』の一言だけのはずだ。声帯を壊してやったのに、まだ躾が足りんか……。良いだろう。そんなに死に急ぐのなら、そろそろ仕上げといこう。劣等種共が闊歩する世界に、天の裁きを下してやる」
ジンくん、これが最後になっちゃうかもしれない。
こんなお別れで本当にごめん。
もっといっぱい、伝えたいこともあったのに。
降り出した雨が窓を濡らし、ぼやけた視界を一層霞めていった。
もし、もし願いが届くなら、あの頃に帰りたいよ。
最後に、ワガママ聞いて欲しかったなぁ……。
(お願い……。助けて。私を助けて)
ご覧いただきありがとうございます。
今後ともご贔屓に。
木ノ添 空青