藍色の思い出
「……やるな」
先生は静かに目を光らせた。
「…………」
気づけば周りのざわめきも気にならなくなっていた。
あとは肘。キックに注意しながら、相手の隙をつくだけ。
プロテクター型機械のライトの下についたタイマーを見ると、残り時間はあと2分半もある。余裕。
亜夜歌は深く息を吸って、限界まで吐いた。
深呼吸をするときには、吸うより吐くほうが効果がある。兄からそう、教えられたのを思い出した。
__ねえ、亜夜歌。目を閉じてゆっくり、息を吐いてみて。
兄の勉強を見るのが好きだった、当時7歳の私は、見よう見まねでやってみる。
__そう。力がすぅっと抜けてこない?
ふうう、と不器用ながらも息を吐く。
__うん!すぅっと抜けたよ!
兄は、自分と同じことができて嬉しく、飛び回って喜ぶ亜夜歌の肩にそっと手を置いて、微笑むと、言った。
__亜夜歌、戦うときは、力を入れるより、抜く方が大事なんだよ。その方が集中できて、力まずに自然なアタックができる。
__あたっく……?
まだ戦いとは無縁だった亜夜歌には兄の言うことがわからなかったけど、『すぅっと力が抜ける感覚』が大事、と記憶していた。
今思えば、なぜ情報科の兄がそんなことを言ったのか、よく分からないままだ。
当時と同じようにゆっくり息を吐ききった亜夜歌は、無駄な力が抜けていくことを感じ、先生に向けて走り出した。
飛んでくるパンチを避け、鉄板付きブーツの威力を空に流して、肘をじっと見たまま手を出す。
__ちっ!
風が吹き、目の前に藍色の幕がかかる。また髪が邪魔をする。ほんと、今にでもこの短剣で切ってやろうかと思う。しかし兄とお揃いのこの藍色の髪。小さい頃からずっと兄にすいてもらっていたこの髪。兄が綺麗、好き、と言ってくれたこの髪は切りたくない。
うっかり刃を相手の体と、自分の髪に当ててしまわぬよう再びセンサーを見つめる。先生も、防弾機能を兼ね備えた特別な素材で作られた服を着ることが義務付けられているために、顔に当てなければ刃が当たっても被害はない。しかし、この課題は、いかに素早く、正確にセンサーだけを撃ち抜くか。
気づけば、ピ、という音と驚愕した先生の顔とともに、ライトが赤から青に変わる。
その瞬間、周りから拍手の嵐が降った。
「亜夜歌、圧勝じゃないか」
「先生の反撃する隙もなかったしね!」
いつの間にか近くに来ていたこのりも奈留也も口々に。
でも、一瞬で終わってしまって、戦ったという実感がなく、勝ったのかどうかもわからない。あの後、私、何をしたっけ。どうやって、勝ったっけ。もうすぐ思い出せそうなのに、浮かぶ直前にもやがかかったようにわからなくなってしまう。
前にもこういうことがあった。
あれは、中等部2年に進級した直後の、頭脳・体力テストの時だった。全生徒一斉学力テストから、400メートル走のタイム測定、握力測定など幅広い種目があった。他の子より少し身長の高いだけなのになぜか偉そうに見下してくる、同じクラスになった女子が私を見下してきて、バカだかマヌケだとか、まだテストは始まっていないのに悪口を言ってきて、最後には靴を隠されたりして。万が一と思ってもう一足靴を入れていたから良かったものの、私はつい本気になって、すべての種目で兄に次いで歴代2位という記録を残してしまった。体が皆より小さいせいで、同級生のみならず先生からも運動音痴に見られていた私がすごいことを成し遂げてしまったものだから、半分の人間は私を囲んで群がって褒め称えはじめ、もう半分の人間は激しく嫉妬した。
嫌がらせをした女子は教師にひどく怒られた。
測定を見学していた副校長先生が興奮しすぎて高校への推薦状をその場で作ってしまった。
そのおかげで行きたくもない高等部にスキップすることになって、私に群がっていた半分の人も悪口を言い始め、おかげで今でも同学年の友達はいない。
いなくていい。あんな悪口を言うだけのAIもどき。早くライトハッカーに解除されちゃえばいいのに。
先生だって、味方ではない。
訳のわからない、でも受けなきゃいけない高校の授業なんて嫌だ。私を受け入れてくれたのは奈留也とこのりだけ。他の高校生は私を見るたび「ちび」と囃し立てた。まだ剣を一本しか持っていなかったころは、折られたり、傷つけられたり、塩酸と硝酸の混合液をかけられて溶かされたり、嫌がらせばかりだった。
この世界、なんて理不尽なのだろう。
亜夜歌はそう思って、ため息を吐いた。